閑話 どうする信秀と信光
――夜。
信秀の私室を弟である信光が訪れた。
「兄上。件の嫁殿に会いましたぞ」
「うむ、そうらしいな。どうであった?」
「いやはや、まこと、底知れぬ人物でありますな」
「ほう? というと?」
「……背後からの儂の接近に気づきながら、大人しく担ぎ上げられておりました。『夫』の叔父に対しての無礼を恐れたのか、はたまた、儂程度などどうとでもなると判断したのか……どちらかは分かりませぬが、図太いことは確かでありましょう」
信光は豪放磊落な性格やいかにもな勇将らしい見た目のせいで誤解されやすいが……そこは信秀の弟。信秀が最も信頼する身内。愚かであるはずがない。
「ふっ、図太いか。確かにその通りであるな」
くくっ、と笑ってから信秀は自ら点てた茶を信光に差し出した。
その茶で喉を潤してから信秀が続ける。
「美濃との和平、成りそうですか?」
「うむ。まだ詳細は詰めなければならぬが、そういうことになるだろう」
「ならば、我らはどう動きましょう?」
「清洲衆らを平らげて尾張統一を目指しても良いが、あやつらはまだ使えそうであるからな。しばらくは放っておいた方がいいだろう」
「ヤツらを使うとなると……斎藤道三、動きますか?」
「あのマムシであれば、動くだろう」
「無論タダでは動かぬでしょうな」
「大垣あたりを諦めることになるやもしれぬが、どちらにせよ清洲衆がいては増援も難しいしのぉ……。うむ、その辺は直接会うてみねばなるまい」
「美濃方面は様子見をするとなれば、その間に我らは三河を狙いますか」
「…………」
信光の言葉に、信秀は一通の書状を手渡した。さっそく中身を改める信光。
「……岡崎城の松平広忠が、嫡男を人質に差し出すと?」
「今川義元ではなく、我らを選ぶそうだ」
今川義元と織田信秀は三河をめぐって長年争っており、もしも岡崎城が信秀の手に落ちれば、今後の戦局を有利に進めることができるだろう。
尾張にとってはまたとない提案。
だが、すぐに飛びつくのも危険ではある。
それは信光もよく理解していた。
「……罠の可能性は?」
「無論、可能性はある。我らが出てきたところを待ち伏せる気かもしれぬし、単純に、松平が自分のことを高く売るつもりであるだけかもしれぬ。
ここで松平広忠が率先して信秀に味方し、信秀が三河を制圧することになれば松平広忠の『戦功』は第一となる。本領安堵は確実であるし、さらなる領地獲得も期待できる。
「罠か、好機か……。どちらにせよ義元は動くであろうから、我らも兵を出さねばなるまい」
松平広忠が裏切ったとなれば、今川義元は離反の連鎖を防ぐためにも松平広忠を討たねばならない。
逆に、義元が出陣すれば信秀も兵を出さざるを得ない。もしもこちらに寝返った松平広忠を見捨てるようなことがあれば、他の国人(地方領主)は二度と信秀を頼ることがなくなるだろうから。
「松平が我らと美濃の同盟をかぎつけた可能性は?」
尾張と美濃が手を結べば、信秀は戦力の大部分を三河に向けることができる。そうなれば松平家が滅ぼされるのは必定。となれば、その前に寝返ろうと考えても不思議ではない。
「普通ならあり得ぬが……。嫁殿はとにかく目立つからな。那古野城や末森城に出入りしている姿を目撃されていたとしても不思議ではない」
道三の娘が、尾張に。
戦国時代の常識からすれば『姫』が直接で歩くなどあり得ぬが、勘のいい者なら嗅ぎ付けるかもしれない。
「どちらにせよ、戦の準備をせねばなりませぬか」
「で、あるな。いや、それよりもまずは松平の嫡男の受け取りが先か」
まだ幼いのに、いつ敵対するかも分からない家への人質になる。信秀もその『嫡男』のことを憐れだと思うが……それだけだ。長く続く戦乱の世。弱小勢力が生き延びるためには嫡男すらも差し出さなければならないのだから。
信秀からさしたる興味を示されなかった、松平広忠の嫡男。
名を、竹千代。
史実においては『徳川家康』と名乗ることになる少年である。




