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ワクチン接種のリスク評価と全体主義

 ■デイリーミー現象

 

 デイリーミー現象と呼ばれる現象を知っていますか?

 自分(達)にとって都合の良い情報ばかりを取捨選択する事で、思考が偏っていってしまう現象をいいます。

 AIがその人の好みの記事ばかりを選んで提供するサービスがもっと一般的になれば、問題としてより深刻化するのではないか? などと一部では言われていたりもするみたいですが、これは個人や集団でも起こり得るし実際に起こってもいるのでしょう。

 そして、そこに確証バイアスも加わります。

 これは平たく言ってしまえば、“思い込み”によって自分の望む方向に物事を歪めて捉えてしまう現象ですね。

 そして更に、これらが閉鎖的な集団内に起こっていたりなんかすると、もう手が付けられなくなります(因みに、これを“エコーチェンバー現象”と呼びます)。

 人間って“同調”する生き物ですからね。

 周囲が信じ込んでいる事を自分も信じてしまって、場合によっては外から見るととんでもないと思えるような内容すらも、その集団内では本当の事だとされるようになってしまうのです。

 

 ■ワクチン接種への不安

 

 さて。

 2022年1月現在、新型コロナウィルス(以下、コロナ19)の感染が広がり、その対策としてワクチン接種が広く行わています。

 ですが、ワクチン接種には根強い反対意見も多くあるようです。

 稀なケースでは死亡例すらもあるという強い副反応、それ以外の未知の健康被害の可能性といった不安に加え、ワクチンを二回以上接種していてもコロナ19に感染してしまっている事例すらもあるからです。

 少し前、僕は“日本でコロナ19感染が激減した主な原因とその応用方法について”というエッセイを書きました。

 これは2021年8月下旬頃から日本でコロナ19が激減した原因をネットワークの構造に求めるものです。一応強調しておくと、ここでのポイントは“激減”です。

 日本だけでワクチン接種に著しい効果があっただけならば、日本人特有の遺伝的特性やウイルスの特性に答えを求めても良いかもしれませんが、それだけでは感染者数の“激減”にはならないでしょう。比較的なだらかに感染者数は減っていくのではないかと思われます。

 だから僕は日本の感染ネットワークが集中タイプである可能性を疑ったのです。

 何か難しい話のように聞こえるかもしれませんが、これはとてもシンプルな話です。実例を挙げるのなら、性病の感染ネットワークの中心が性サービスの従事者…… つまり、売春婦であったケースがあります。

 売春による性行為によって、たくさんの人に性病を感染させていたって話ですね。

 この場合、売春婦の人達に感染予防を徹底してもらえば一気に性病の感染が少なくなります。

 コロナ19においてもこれと似たような現象が起こったのではないでしょうか?

 もちろん、コロナ19においての感染ネットワークの中心がどんな人達なのかは分かりません。何らかの職業に就いているのか、何らかの趣味を持っているのか。

 ただ、中心になっている人がいると仮定して、そういった人達がワクチン接種によって免疫を獲得した事で、感染ネットワークが崩壊したとするのなら、感染者の急激な減少を上手く説明できるように思うのです。

 (因みに、日本はよく集団主義社会と言われていますが、実は『ご近所付き合い』は、諸外国と比べてかなり少ないそうです。その結果、一部の人達が感染ネットワークの中心になったのかもしれません)

 そして、感染者数が減り始めた時期から逆算してワクチン接種者を調べれば、感染ネットワークの中心になっていたであろう人達を見つけ出す事ができます。その人達に感染予防を徹底してもらえば、或いは著しい効果を得られるかもしれません。

 (ただし、2022年1月頃から流行しているコロナ19・オミクロン株は感染力が高過ぎるので、感染症ネットワークは集中タイプから平均タイプに変わっているかもしれませんし、そもそもオミクロン株に対しての感染予防効果は、現在出回っているワクチンにはないようなのでこの方法は有効ではないと思われます。

 ただし、2022年1月現在、オミクロン株用のワクチンも開発しているようなので、それが完成すれば試してみる価値はあるかもしれません。リスクが少ないですからね)

 この説明を読めば分かると思いますが、このエッセイの主題はネットワークであって、ワクチン接種ではありません。

 しかし、このエッセイへのコメントで、二人の方がワクチン接種の話題を出して来ました。

 つまり、それだけワクチン接種に対して不安を抱いている人が多いという事なのでしょう。

 日本ではワクチン接種に対する反対はそれほどでもないと僕は考えていたのですが、それで考えを改めさせられました。

 ワクチン接種をしなくても、コロナ19には感染しないかもしれませんし、仮に感染しても無症状で済んでしまうかもしれません。それに対して、ワクチン接種はすれば(当たり前ですが)100%、体内にワクチンが入り、副反応が出る可能性も高いです。

 「コロナ19には感染しないかもしれないのに、ワクチン接種なんてしたくない」

 という意見が出るのもだから分かるのです。

 もちろん、そういった反対意見に素直に頷く訳にはいかない人も多いでしょう。

 ワクチン接種をせずに、コロナ19に立ち向かう方がよりリスクがあるという考えも当然あるからです。

 

 ――さて。

 合理的にリスク評価をした場合、本当にリスクが大きいのは果たしてどちらなのでしょう?

 

 先程説明した通り、人間はデイリーミー現象などによって、容易に偏った信じられないような内容を信じてしまうものです。

 そこで、少しワクチン接種のリスク評価について整理をしてみたいと僕は考えた訳です。

 

 ■自然科学的な手法は行動の選択にはあまり有効に機能しない

 

 ワクチン接種のリスク評価をするのには、それによってより適切な行動を求めるという目的がある訳ですが、そもそもどうしてそんな事をする必要があるのでしょうか?

 リスクという言葉には“不確実性”という意味もあります。リスク評価というのは、「不確実な事象に対し、どのような選択をするのが良いのか?」を判断する事だと言い換えても良いでしょう。

 つまり、100%確実な正解を約束するものではないのです。飽くまで、現在得られている情報から“確からしい行動の選択”を探っていく試みだと思ってください。

 よく“自然科学的に証明された”という言葉が、行動の是非を問う場合の説得力を演出する手段に使われますが、実は自然科学はそれほど行動の決定に重要ではありません。

 いえ、自然科学の未来予測の力が存分に使えるのであれば、もちろん非常に重要なのですが、そもそも使える範囲が限られているのです。

 

 近代自然科学は哲学から分化しました。

 その元になった思想は“帰納主義”です。帰納主義とは、実験なり調査なりで情報を多く集めて、そこから法則を見出していこうとする帰納的思考を重視する思想です。

 ただ、この思想には弱点があります。

 同じ情報から複数の法則を導け、そのうちのどれが正しいかを判断する事は不可能ですし、どれだけ排除しようとしても先入観を持って情報を観る事は避けられず、客観性を歪めてしまいます。更に“情報を集める”事には根本から限界があります。全ての情報を集めるのは不可能だからです。どれだけ情報を集めても“情報を充分に集められた”と証明する事はできません。隠れた情報が存在する可能性は無限に存在するからです。

 そして、新たな情報が見つかったなら、それまでの結論が覆る事にもなるのです。

 実際、古典物理学の多くの結論は相対性理論や量子力学の登場によって覆されました。今後、どんな新しい情報が出現し、今までの“正しい結論”が覆ってしまうか分かりません。

 つまり、“限られた情報の下では、限られた結論しか導き出せず、それが本当に正しいかどうかも分からない”という事です。

 この帰納的思考の限界は、“ない事の証明ができない”という俗に言う“悪魔の証明”にも関係して来ます。

 例えば、“幽霊は存在しない”事を証明したいとしましょう。その為には、この世界の全てを未知の観測方法を含めての全ての観測方法で観測し、“幽霊はいない”と証明しなくてはなりません。

 言うまでもなくこんな事は不可能です。

 だから、“ある・なし”論争では、“ある”と主張する側に証明責任があるのが普通なのです。時折、“ない”事の証明を求め、証明できなかったなら“ある”と主張したりする人がいたりしますが、これは詐欺のテクニックの一つなので気を付けてください。

 “ない”が証明できなくても、“ある”ではありません。単に“ある”なのか“ない”なのか分からないだけです。なのに、証明できなくて当然の“ない”事の証明を求めて、自分の意見を押し通そうとするのです。

 悪質で卑怯なやり口です。

 また、ない事の自然科学的な証明はほぼ不可能であるにもかかわらず、それをあたかも証明できたかのように喧伝し、印象操作に用いるという悪質な事例も存在します。

 最も有名なのは“原子力発電所の安全性”でしょう。

 繰り返しますが、“ない”事は証明できません。つまり、“原子力発電所で大事故が起こらない”事など証明できないのです。どれだけつぶさに考慮しても、未知の原因によって大事故が発生する可能性は無限に存在するので、確率を求める事すらできません。

 イギリス、ロンドンにあるミレニアム橋は“安全性の基準を満たしている”とされていましたが、開通と共に未知の原因によって大きな横揺れが起こる問題が発生し、一時閉鎖にまで追い込まれました。

 (長くなるので、詳しくは述べません。検索すればヒットするので、興味のある方は調べてみてください)

 橋は比較的単純な構造物で、しかも世界中に巨大な橋がいくつもかかっていて、かなりの長い歴史があります。そんな構造物ですら、まだ未知の現象があるのです。それよりも遥かに複雑な原子力発電所なら、未知の現象も数多に存在していると簡単に予想できるでしょう。

 要するに、どれだけ慎重に安全基準を設けてもそれで充分だと証明する事ができないのです。

 そして、原子力発電所には、もし仮に大事故が発生したなら、下手すれば日本という社会に人が住めなくなるほどの危険性が孕んでいます。

 “科学的に安全性が証明された”などと言う嘘による印象操作が、どれだけ罪深いかが分かると思います。

 

 これまで説明して来た通り、情報を集め、それを分析するという思考方法…… 帰納的思考には限界があります。その為、自然科学では全ては仮説に過ぎないという“確証主義”という考えが生まれたのです。

 科学的結論は“確からしいもの”でしかないのですね。

 自然科学的な手法が、行動の選択をするには適さないものだと分かってもらえたのではないでしょうか?

 だから、人間社会は行動の選択をする際には、自然科学とは違ったリスク評価の方法を考え出したのです。

 もちろん、それだって“確からしい”結論でしかないのですが、それでもより適切な行動を選択する為に考え出された手法という意味で信頼がおけます。

 

 ――ただし、一応断っておくと、僕はリスク評価の専門家でも何でもありません。システムエンジニアとして数々の開発現場を経験した過程で、リスク管理について触れる機会があったというだけの素人です。ですから、その程度の人間が語る話に過ぎないという前提で読んでいただけると助かります。

 

 ■リスク管理の実例から

 

 リスク評価では行動と条件の結果から考えることが重要です。

 例えば、

 

 行動1を執った場合の結果はA。

 行動2を取った場合の結果はB。

 結果AとBを比較して、より好ましいのはどちらで、それぞれの行動にどれくらいコストがかかり、そうなる可能性はどの程度あるのか?

 仮にAの方がより好ましい結果であったとしても、行動1にかかるコストが非常に大きいのならば選択しないかもしれません。すると行動2を選択するべきとなりそうですが、これには条件の要素が抜けています。それも加えた場合、また執るべき行動は変わって来てしまいます。

 

 こんな感じで、結果とそれにかかるコストを鑑み、執るべき行動を選択していくのですね。

 

 ワクチン接種のリスク評価について触れる前に、思考のウォーミングアップという意味も込めて、自然科学的な手法が有効ではない行動の選択の事例について、軽くリスク評価をしていきたいと思います。

 

 まず、原子力発電でやってみたいと思います。先ほども例に出しましたが、原子力発電は自然科学的な手法が使えない代表例の一つだからです。

 原子力発電には、安全評価基準の妥当性を確認する手段がありません。調査も実験もできませんから、検証方法が存在しないのですね。

 その為、リスク評価によって、行動の是非を判断するのが適切であると考えられます。

 では、始めます。

 

 原子力発電によって得られるのは電力です。背負う危険は事故やテロなどによって国家規模の大損害を負う事で、下手すれば日本という国そのものが亡くなります。

 また日本国内では原子力発電所の製造も運営もできない為、もし仮にフランスなどの協力者が敵対した場合には危機に陥ります。中国がこれからも成長を続け(自滅する可能性も出てきましたが)、フランスなどの原子力発電所事業に強い影響力を持つようになったのなら、この不安は現実になるかもしれません。

 また、原子力発電から出る核廃棄物を半永久的に管理しなくてはならないので、将来世代の人間達に対して強制的に負担を押し付ける事にもなります(はっきり言って、これは犯罪的です)。

 本来はフローチャート形式で表現するのが、ベストなのですが、ちょっと文章だと表現し難いので以下のように表現します。

 

 1.『原子力発電推進・大事故発生』 → 『電力は得られるが、国家規模の大損害を受ける。核廃棄物の処理コストが膨大にかかる』

 2.『原子力発電推進・国外の協力企業の敵対』 → 『電力は得られるが、国際的な力が著しく低下する』

 3.『原子力発電推進』 → 『電力は得られるが、核廃棄物の処理コストが膨大にかかる』

 

 はい。

 リスクとリターンのバランスが明らかに悪いのが分かります。もちろん、これにはリスクが発生する確率の考慮が入っていません。もし大事故などの確率が限りなく0に近いのであれば、あまり問題になりませんが、既に述べたようぬ確率は求めようがない上に現に福島原発事故が起こっていますから、無視はできません。

 リスク管理上、問題があると言わざるを得ません。

 更に言うのなら、将来世代の核廃棄物管理コストも考慮に入れると、絶対にコストの方が大きくなります。原子力発電に採算性があるというのは、飽くまで“将来世代の犠牲を考えない”という前提付きです。

 発展する社会っていうのは、将来世代の為に尽くすものですが、原子力発電はその逆をやってしまっているのですね。

 

 次に地球規模の気候変動対策についてのリスク評価をやります。

 これも“自然科学的”という言葉が対策賛成派・反対派の双方から出ていますが、地球は一個しかないので、本当に甚大な被害をもたらすような気候変動が起こるかどうかは自然科学的に証明はできません。原子力発電と同じで、実験も他の惑星の事例の調査もできないからです。

 なので、これもリスク評価によってしか行動の是非が判断できない代表例です。

 

 1.『気候変動対策しない・気候変動が本当だった場合』 → 『コストはかからないが、地球規模の気候変動によって人間社会全体が大被害を受ける』

 2.『気候変動対策しない・気候変動が本当ではなかった場合』 → 『コストもかからず、被害も受けない』

 3.『気候変動対策する・気候変動が本当だった場合』 → 『コストがかかるが、被害は小さく抑えられる』

 4.『気候変動対策する・気候変動が本当ではなかった場合』 → 『コストがかかり、被害はなし』

 

 気候変動が本当だった場合は、当然、対策をした方が良く、本当ではなかった場合はコストはかかってしまうのですが、ただそれだけです。

 ここでの注意点は“コスト”です。“コスト”と表現してはいますが、例えば太陽光発電を生産すれば、それによって経済効果を得られ、それだけ経済が成長します。

 この話を「よく分からない」と言う人もいると思いますが、そんなに難しい話ではありません。

 経済が成長する為には「人々が物を買う必要がある」と言われていますよね?

 これは、

 「なら、太陽光パネルを買ってしまえば良いのじゃないの?」

 って当たり前の事を言っているだけです。

 因みに太陽光発電って設置費用がかなりの割合を占めます。なので、建設業者の仕事がかなり増えます。更に太陽光発電はスケールメリットが低く、送電ロスが少ないというメリットがあるので、適しているのは地方の山林ではなく、街中の建物の上です。何故か地方の山林に設置する前提で太陽光発電全般を批判している人が時々いますが、勘違いなので真に受けないでください。

 先程、原子力発電は海外に依存していると述べましたが、それに対して再生可能エネルギーの多くはエネルギー自給率が上がります。軍事面…… 安全保障上も、だから重要である事になります。

 少し話が逸れましたが、つまり、気候変動が本当でも嘘でもどちらにしろ対策を行った方が良いのですね。これを嫌がるのは原油絡みの利権団体などだけでしょう。だから多分、ネガティブキャンペーンをやっているのだと思うのですが。

 

 ■ワクチン接種のリスク評価

 

 では、ウォーミングアップも終わったところでいよいよ本題のワクチン接種のリスク評価をしていきたいと思います。

 

 1.『ワクチン接種実施・感染症予防効果なし』 → 『感染拡大は防げず、コロナ19による重症化は減らせるが、副作用や未知の健康被害の可能性有』

 2.『ワクチン接種実施・感染症予防効果あり』 → 『感染拡大が防げ、コロナ19による重症化は減らせるが、副作用や未知の健康被害の可能性有』

 3.『ワクチン接種実施せず・感染症予防効果なし』 → 『感染拡大防げず、コロナ19による重症化は減らせるが、副作用や未知の健康被害の可能性無』

 4.『ワクチン接種実施せず・感染症予防効果あり』 → 『感染拡大防げず、コロナ19による重症化は減らせるが、副作用や未知の健康被害の可能性無』

 

 すいません。

 なんかこのフォーマットではあまり分かり易くなりませんでしたが、個人を中心に考えるのなら、ワクチン接種の副作用のリスクが上か、コロナ19に感染するリスクが上かを比較するだけで、未知の情報が双方にある点を考えるのなら、どちらを選ぶかは個人の自由と言って良いと思います。

 が、社会を基準にするとこれが変わります。

 何故なら、ワクチン接種をしない場合、感染拡大はほぼ確定的だからです。当たり前ですが、ワクチン接種には感染予防効果がある可能性がありますが、多くの人がワクチン接種をしなければこの効果は得られません。

 また、ワクチン接種にはコロナ患者による病床圧迫を減らす効果もあります。確かに長期間での健康被害について言えば、ワクチン接種の危険性は未知数ですが、少なくとも短期間ではワクチン接種の副作用で大量の入院患者を出すなんて事態にはなっていません。この点に関して言えば、確実にワクチン接種の方が危険は少ないと言えるでしょう。

 ですから、社会全体の事を考えるのなら、仮に感染予防効果が確定していなくても、ワクチン接種をするべきだという結論になるのです。

 ただし、注意点があります。この考え方は全体主義的で、個人の人権を尊ぶ精神とは相性が悪いのです。

 

 ■全体主義を助長させるリスク

 

 “全体主義”とは、個人よりも社会全体の利益を優先させるべきだとする思想や政治体制をいいます。

 一見正しいように思えるかもしれませんが、個人に犠牲を強いる発想に結びつき易く、結果、不幸な社会が出来上がるケースが歴史上に多々観られます。

 また、一部の権力者が人々を利己的な目的の為に用いる大義名分にこの全体主義が使われる場合もあります。

 これらの理由から、全体主義的な発想や考え方に反発する人も多くいて、人権思想が支持される背景にもなっています。

 そして、「社会全体の為のワクチン接種を個人に強要する」のは、当にこの全体主義の考えと一致するのですね。

 実際、全体主義(専制主義)を取っている中国は、ワクチン接種を個人に強要していますし。

 ですから、全体主義を強く警戒する思想を持っている人達は、ワクチン接種に対して不快感を示す場合が少なくないようなのです。

 (一応断っておきますが、ワクチン接種に反対しているからといって、必ずしもこのような思想を持っているとは限りません)

 もしかしたら、こういう人達は、ワクチン接種を前例として社会全体が全体主義に傾いてしまうと心配しているのかもしれません。

 馬鹿馬鹿しい考えだと思いますか?

 ですが、実際に中国を引き合いに出し、ワクチン接種の有効性を理由にして、全体主義(専制主義)を「優れた社会制度」と訴える人達もいるみたいです。

 パンデミックのような事態に対応するのには、全体主義(専制主義)の方が優れている、と。

 もし、“そんな考えが広まってしまったら”と想像すると、少し怖くなります。

 

 もちろん僕は全体主義(専制主義)には反対です。

 ですから、思想的な理由からワクチン接種に反対する人の気持ちも分かるのです。ただ、それを踏まえても、ワクチン接種はメリットの方が大きいのではないでしょうか? 少なくとも僕個人の意見としては、全体主義(専制主義)に傾向する動きを警戒しつつ、ワクチン接種を対策として一般的なものにするという考えに反対しません。

 

 まぁ、これは「日本という社会をどれだけ信じるのか?」といった信念の問題でもありますから、客観的な正解なんてないのですがね。

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