先生のはなし
先生だが、基本的にうちの中学の先生はいい先生が多かったと思っている。特に社会科教師で学年主任でもあった桜田先生の授業が印象に残っている。櫻田先生は妻子持ちで、当時30代だった。育児にも積極的に関わるいわゆる「イクメン」で、授業時間が余った時はよく子どもの話をしてくれた。まだ言葉を話さない小さな息子が初めて話す単語を「パパ」にしようと、抱っこした時は息子の目を見て「パパ、パパ、、、」と何とか頭に残そうとしていたが、結局初めて喋った言葉は「おいしい」だった、とか、保育園児であった娘に早起きを促すべく、「発表会の日に早起き出来たらひとつお菓子を買ってあげるよ」と言ったら迷わずプリキュアのおもちゃが付いたグミを選ばれた、とかそういう話だ。話し方が上手く、間のとり方が上手いので、聞いていて飽きなかった。終業式の挨拶など、校長がいえばつまらなくて仕方がないことも、櫻田先生が言うとみんな聞く。そういう人を惹きつける力があったために、多くの人から尊敬される良い先生だった。
逆に、どうしても好きになれなかった先生もいた。美術担当の安村先生である。この先生は、何かと美術部をひいきしたがる先生で、表向きにはそれを出さないものの、成績などで見るとそれは一目瞭然だった。期末テストで美術部の人と同じ点数を取ったことがあるのだが、彼女は成績が5で僕は3だった。普段の作品の点数を比較しても大差はないはずなのに、彼女が4ではないことに疑問を抱いたが、質問したところで嫉妬にしかならないので心の奥底に深くしまってある。これだけでは僕の嫉妬にしかならないが、決定的なのは筆運びなどの手本を見せるときに美術部を最前列に移動させたことだ。これにはさすがにひいきしているとしか思えなかった。それに対して陸上部の友人が突っ込むと、しぶしぶといった形で美術部員をもとの位置に並ばせていた。そんなこんなで安村先生のことはどうしても好きにはなれなかった。
保健体育担当の籾井先生は不思議な先生だった。体育の授業の時は丁寧に教えるが、保健になると一転、重要事項をサラッと済ませて、あとは自由時間としてくれる。とにかく長ったらしく話すことが嫌いなようで、生徒指導も兼任していたのだが、夏休みの注意事項に関してはRTAすらも行っていた。桜田先生とはまた違う面白い先生であったため、「男子からは」好かれていた。女子からはどうもよく思われていないらしい。しかし、理由を聞こうとするとどの女子からも「ノーコメント」としか言われなかった。そのため、今でも理由はわかっていない。
英語の先生である横川先生は、櫻田先生と張り合えるレベルで面白い先生だった。常に緩い感じの授業をしているため、英語の授業で緊張感が生まれるのはALTの先生が来た時だけだった。1年の時だが、現在進行形の文では、動詞にingがついて動名詞になるので…とあまり面白くない授業に突然投入された言葉にクラスに衝撃が走った。
「動名詞になると名詞なってしまいます。ということは英文のルールである『一文一動詞』が成り立たなくなってしまいます。動詞がなくてどうしよう。ということで前にBe動詞を…」
普段ダジャレなんぞ言わない先生だったので、くだらないはずのおやじギャグでもクラス全体が爆笑の渦に包まれたのだった。その後も助動詞canのときは「canはキャン単」などと言ったりして笑いを生んでいた。
2年の時のクラス担任であった岡山先生は、いわゆる熱血教師だった。体育祭の準備は3か月前から始めるのだ。しかし、あまりいい思い出はない。数学の担当だったのだが、とにかく授業中にも生徒によく話しかけていた。しかもくだらないおやじギャグを投下してくるため、誰も笑わない。横川先生がギャップで面白いのに対し、岡山先生は日常的に言っているので面白くもなんともなかった。家庭訪問の際も、ただでさえ声がよく響く構造になっている玄関で大きな声で笑うため、キンキン言ってうるさかった。当時級長をやっていたのだが、何かと呼び出しては書記と会議をさせた。それで休み時間がつぶれるのは結構しんどかった。
国語の先生である中西先生は、音楽が好きな先生だった。バンドの演奏をよく聞きに行くこともあり、その思い出を授業中に話してくれた。国語の先生と言うだけあってか、語彙が豊富で、場の情景などがひしひしと伝わってきてとても面白かった。国語はあまり好きでは無いため、その思い出話で授業が潰れるのはとても嬉しい事だった。その後授業を高速で進められることを考えるとメリットばかりではなかったが。
家庭科の先生は、常に身につけているもののどこかに花柄がある先生だった。スカートに付いていたり、首周りに付いていたり、たまに身につけていない日があるかと思えば、ハンカチに付いていたこともあった。この「花柄探し」は、学年でも人気のイベントであったことはよく覚えている。