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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蛇の巣穴

作者: 奥之薗薫

桜の花弁が舞う美しい季節。この時期になるといつも日本人でよかったと思う。分厚いコートは先日クリーニングに出したばかり。軽い装いで桜並木を歩くと心が踊る。

買い物帰りの主婦ユキは、つい重たい買い物袋を下げたまま遠回りをしてしまっていた。

気持ちよく歩いているところを、ふいに見知らぬ男に声をかけられた。

『あのー、奥様ですか?』

『はい?』

驚くユキをよそに男は続けた。

『家事や育児に悩む女性は多いんです。そんな女性の心に寄り添ってくれる“母”がいまして…。よければあちらの建物で詳しい話を聞いてみませんか?』

明らかに怪しそうな勧誘に、ユキは遠回りした事を後悔した。

『すみません。悩みなんてありませんので』とキッパリ断ったところで、この手の勧誘はしつこい。

『何でもいいんです。少し疲れた時に愚痴を言うだけでも構いません。うちの“母”は…』

『すみません。急いでいるので』

そう言って早足で歩きだす。そうすれば大抵の勧誘は引き下がるのだが、何故かこの男はわざわざ回り込んできた。

『五分でいいんです。五分お時間を頂戴できれば…』

『あの、迷惑なんですけど…』

するとそこへ『お待たせ!』とまた別の男の声が聞こえた。

『遅くなってごめんね!』

ユキより少し年下くらいの青年が近付いて来ると、サッと買い物袋を奪って歩きだした。

『あ、ちょっと!』泥棒!と叫びそうになった。だが、すかさず青年は『大丈夫だから、僕に合わせて』と耳打ちした。

ユキは戸惑いながらも、青年について歩きだした。





勧誘してきた男が見えなくなってからも少しだけ歩き、近くの公園まで辿り着いたところで青年は買い物袋を返してくれた。

『ありがとう。助かりました』

そう言うと青年は『どう致しまして』と爽やかに笑った。

するとユキは『あっ、何かお礼を…』と買い物袋の中を漁りはじめた。

『え?』

『そうだ、お口に合うかわかりませんが…』と差し出したのは小さな紙パックのカフェオレだった。

『あ、こんなのでは失礼でしたか?』と言うユキを見て、青年は面白そうに微笑んだ。

『いや、俺カフェオレ好きですよ』と受け取ると、

『でも、お礼にカフェオレをくれる人は珍しい気がします』と付け足した。急にユキは自分が世間知らずのような気がして恥ずかしくなった。

すると突然『じゃあカフェオレのお礼もしなきゃ』と青年が言う。

『え?何を言ってるんですか。これは先ほど助けて頂いたお礼で…』

『わかってるよ』と青年は笑った。

『そうじゃなくて、俺が、また君に会いたいなと思って』

その途端ユキの顔色が曇った。

『あ、そういう事なら…。ごめんなさい。私、結婚してるの』

『そうなんだ』

『ええ、ごめんなさい。さっきは助けてくれて本当にありがとう。それじゃあ』と青年に背を向けて歩きかけたところでまた声がした。

『俺、ショウタって言うんだ。年は23。よろしくね』

『はい?』唐突に自己紹介をされてしまい、どう返せばいいのだろうかと戸惑った。

『えっと、私はユキ。25です』

『あ、教えてくれるんだ』

ショウタはニコッと笑った。

『それは、あなたが名乗ったから…』

『ありがとう』ショウタは礼を言ったかと思うと、続けて『覚えておくよ。ユキちゃん』と言った。

『…!』ユキは出会ってすぐの男性にいきなり下の名前で呼ばれるのは初めてだった。“ちゃん”付けで呼ばれるのも小学生以来ではないだろうか。

失礼な人だとユキは少し呆れたが、ショウタは懐こい笑顔を向けた。

『またね!』今度はショウタの方から背を向けて歩き去って行った。

『何なの…?』取り残されたユキは、ショウタが“またね”と言った意図がわからず呆然と立ち尽くした。


一方でショウタは、何故だかユキの事を忘れられない人になりそうだと感じていた。





ユキと夫は二階建ての一軒家に住んでいる。庭は無く、車が二台停められるスペースがある。

ただユキは免許を持っていないので、一台分のスペースは夫が使い、余ったほうにはユキのピンクの自転車が停めてある。

買い物と散歩を兼ねているので自転車を使う機会は少ないが、時々は遠出する為に乗ったりしていた。


夕方になると料理を作り始め、夫が帰ってくると出迎える。鞄と上着を受け取り、二階の寝室で夫の着替えを手伝う。再び台所へ戻ると夕飯の支度を終え、二人で食事を取るというのがユキの日課だ。

そこまでは順調な夫婦そのもの。

しかし、この二人は少し違った。

食事中、夫は大概仕事の話をしている。仕事が順調にいっているという話ならば笑顔で相槌を打ちながら聞いていればよいのだが、今日の話はどちらかと言うと、よい話では無さそうだった。

『今日は取引先の男と少し揉めた。今夜は酒が進みそうだ』

その言葉に、ユキの体が強張った。

『そ、そう…』

機嫌の悪い時の夫は人が変わる。

ユキは震える手を隠すように必死に押さえていた。





『いやっ!離して!』ユキは無理やり寝室へ連れて行かれると、胸ぐらを掴まれ、ベッドに放り投げられた。夫は馬乗りになり、ユキの頬を殴る。右手で髪を掴まれ、左手では首を締められる。

『やめて、苦しいわ…』

夫はふと手の力を抜き、ベッドから下りた。“やっと終わった”と安堵しかけた時、ユキは思わずベッドから飛び退いた。腰の高さ程のタンスの上に置いてあった灰皿を夫がユキに向かって投げてきたのだ。

もし頭に当たっていれば大怪我をしたかもしれない。恐怖で踞って動けなくなったユキを夫は蹴ろうとする。咄嗟に右腕で身を庇うが、その腕を蹴飛ばされ、壁に当たり激痛が走った。骨がヒビが入ったのではないかと思うほどだった。夫は不気味な笑みを浮かべている。

『痛いか?』問いかけると同時にユキの右腕を強く殴りつけた。何度も、何度も。





普段の夫は優しい。出会った頃からずっとユキに寄り添い、心を支えてくれていた。

ユキには夫と出会う前、結婚を前提に交際していた男性がいた。しかし突如として、その恋人は交通事故で帰らぬ人となってしまったのだ。

深夜まで飲み歩いていて、ふらついて道路に飛び出したところを車に轢かれたと聞いた。よりによって車は盗難車で、犯人はそのまま逃走し現在も捕まってはいない。


ユキはショックのあまり自らの命を断とうとしていた。その当時働いていたビルの屋上で、ユキは手すりに手を掛け、身を乗り出そうとしていた。その時だった。

『死んじゃダメだ!』と誰かが叫んだ。振り返ると見知らぬ男性が立っている。屋上に誰もいない事は確認したはずだったので、驚いた。

『死ぬつもりなんてありません。景色を見ていただけです!』と言ってから、なんと白々しい嘘だろうとユキは自分で思った。

『本当に死なない?さっき君を見かけて、気になったからついてきたんだ。何だか酷く落ち込んでいるように見えたから』

『私なら大丈夫です!だからあなたは仕事へ戻ってください』

『じゃあ、僕も戻るから、君も一緒に戻ろう』

『私の事は気にしないでください!いいから早く戻って!』

ユキは男性を睨み付けた。だが男性は動じなかった。それどころか

『何があったかは知らないけど、これからは僕が君を守るよ』

と言ってのけた。

『あなた、何を言ってるの?』

初めて会った名前も知らない相手にいきなり守ると言われ、動揺した。

『僕なら君を悲しませたりはしないよ。僕を信じて』

何なんだこの人はとユキは混乱する。そして、ハッと気が付くと男性の顔が目の前にあった。

『もう、そこから飛んだりしないよね?』男性はユキの手を取った。

ユキは戸惑いながらもコクリと頷き、手すりから離れた。事情も知らない相手が必死に説得してくれている事への申し訳なさもあったが、それと同時に死のうとしていた勢いを削がれてしまった事で冷静になれた自分もいた。


男性の名はサトルと言い、年齢はユキの7つ上だった。同じ会社で働いていたが、部署が違ったため会った事はなかった。彼とはその3年後に入籍した。





ユキは、晴れた日には公園で読書をするのが趣味だった。結婚してすぐ、夫サトルには『心配だから』と働かずに専業主婦になるように言われた。元々家事と仕事をこなす自信がなかったユキは快く受け入れたのだが、さすがに家に居る時間が長いと息が詰まる。そこで公園で読書をする習慣をつけたのだ。

ショウタという青年に助けてもらってから数日、公園に来るとふと彼のことを思い出す。でもそれもすぐに忘れるだろうと思っていた。

ところが、ベンチに座って本を広げたところで『あ、やっと見付けた!』と背後から突然声がした。

声の方を向くと、笑顔のショウタが駆け寄ってきた。

『あなたは、この間の…』

『また会えるなんて嬉しいよ!』

嬉しそうにニコニコ笑っているショウタを見て、咄嗟に飼い主を見付けて尻尾を振る子犬を連想した。





ショウタはユキを誘って公園の近くのカフェまで来ていた。

『こういうの困るのよね。誰に見られてるかわからないし』

『それなら、ついて来なければいいじゃん』

『だってそれは、あなたがお礼だって言うから。でも、そもそも助けてもらったのは私なのに…』

『だから、俺がユキちゃんに会いたかったんだって』

『もう!ユキちゃんって言い方やめてくれる?それに困るのよ。私結婚してるって言ったでしょう?』

『だから、それならついて来なければいいじゃん』

『だってそれは…もう!』先程から話がループしている。ユキは怒って口を閉じた。するとショウタはフフッと微笑み、唐突に話題を変えた。

『俺、俳優してるんだ』

『何ですって?』

『俳優。売れてないけど』

『そ、そうなんだ…』すると意外にもユキの瞳が輝いた。

『私、昔よく舞台を観に行ってたの!あなたは舞台専門?』

『いや、仕事さえ貰えれば何でもやるよ。本当はドラマに出たいんだ。一番売れる可能性あるじゃん』

『そうなのね。でも、舞台もいいわよ。臨場感があって、何度観てもワクワクするの』

『今、一応舞台のオーディション受けてるんだけどね』

『へえ、凄いじゃない!』ユキは驚くと同時に疑問に思った。

『あなた、こんなところで主婦をナンパしてていいの?そんな暇あるなら演技の練習でもしなさいよ』

それに、と付け加えた。

『もし売れたいなら尚更、こんな事でスキャンダルになったら致命的になるわよ』

『あぁ、そうだね。でも…』

例え致命的なスキャンダルだったとしても、ショウタは自分の気持ちに正直でありたいと思っていた。





ユキがいつも読書をしている公園は、ショウタにとっても事務所へ行くための近道としてよく通る場所だった。しかし、何度かユキを見かける事はあったが、大して興味も無く、いつもはただ近くを通り過ぎて行くだけだった。

それが、ユキを助けたあの日より更に数日前、ショウタにとっては忘れられない出来事があったのだ。


いつも通り公園の中を歩いていた時、『…あっ』と女性の声がした。

ふと見ると、彼女の読み掛けの本の上に蝶が止まっていた。

彼女は優しく微笑むと、そっと蝶を掌に乗せ、そのまま花壇へ連れて行った。そして今度は蝶を花の上にふわりと乗せてあげたのだ。

ショウタは驚いた。蝶と花を交互に眺めながら微笑む姿はまるで漫画に出てくるヒロインのようだと。その時ショウタは生まれて初めて、まだ名前も知らない相手の事が頭から離れなくなるという感覚を味わった。


その数日後、ユキが男に絡まれているのを見た時、ショウタはこれは運命かもしれないと思った。ユキを助ける事に躊躇いは無かった。





『でも…友達ならいいだろ?』

『何がいいのよ』

『そりゃあ君だって知ってる人に見られたら嫌だろうし、俺だってスキャンダルの心配が無いわけじゃないし。でも、友達になりたいんだよ』

ユキは困ったように髪を耳にかけた。ユキの服の袖が捲れた時、ショウタはあり得ない光景に目を疑った。ユキの腕が、真っ青だった。

『それ、どうしたの!?』

思わずユキの手を取ると少し痛そうに顔を歪めた。

『あ、ごめん』

『いいの、大丈夫よ。この間ね、ちょっと壁にぶつけてしまったの』

『ぶつけただけで、こんなに真っ青になる?…ねぇもしかして、旦那さんにやられたの?』

途端にユキの顔色が曇った。

『何を言ってるの?ぶつけたって言ったでしょう?』

ショウタの手を振りほどき、袖を元に戻した。

『暴力を受けてる人は皆ぶつけたとか転んだって言うんだよ』

『他の人はそうかもしれないけど、私は本当にぶつけただけよ』

『本当に?じゃあ旦那さんは優しい人なの?』

『あ、当たり前よ!毎日同じ時間に帰って来てくれて、ご飯も残さず食べてくれて、最高の夫よ!』

『お酒を飲むと人が変わったりしない?』その言葉に、ユキの顔まで腕と同じように青ざめていく。

『貴方、失礼ね!貴方に何がわかるの!?もう、会いに来ないで!』

ユキはテーブルにお金だけ置くと怒って帰ってしまった。

残されたショウタは、ただじっとユキの座っていた席を見つめていた。





ユキの夫、サトルは裕福な家庭で育った。現在は一流企業に勤めており、順調に出世を重ね、32歳の若さでありながら社長の右腕と言われる程のエリートだった。結婚して一年、世間体をやたらと気にする彼は、なかなか子宝に恵まれない事に苛立っていた。その上仕事で上手くいかない事があると更に機嫌が悪くなり、暴力に走ってしまう。


最初はユキの小さなミスを責める事から始まった。結婚したばかりの頃はアイロン掛けに慣れておらず、サトルのシャツを焦がしてしまったのだ。たったそれだけの事で2、3日も小言を言われ続けた。

ただ言葉で責めるだけでは満足せず、少しずつ行動はエスカレートしていき、幸せな結婚生活はわずか半年程で崩壊していった。





今日はユキの誕生日。サトルはいつもより少し帰りが遅くなった。その理由はすぐにわかった。帰宅した彼がケーキの箱を持っていたからだ。

『選ぶのに時間がかかったんだ』

『いいのよ、ありがとう!』

ユキは心から嬉しかった。何だかんだ言ってもサトルは自分の事を愛してくれているのだと思った。


サトルは歌もダンスも知らない。何故なら学生の頃は勉強ばかりしていたからだ。社会人になってからは仕事人間で、テレビもニュースくらいしか見ない。そんな夫が夕食後、バースデーソングを歌いながら対面キッチンからケーキを運んできた。

ホールのケーキを切り分けながら、サトルが結婚してから初めて『いつもよき妻でいてくれてありがとう』と言った。ユキは初めて言われたその言葉に、驚くと共に嬉しそうに微笑んだ。それも束の間だった。

『産婦人科へは行ってるんだろうな?』突然サトルが無表情になり、問い掛けてきた。

『もちろん、行ってるわ』

『子どもができない原因は?』

一瞬言葉に詰まる。だが勇気を振り絞って声に出した。

『あ、あの。原因は私だけじゃないって。夫が原因で妊娠しない事も多いそうなのよ。だからお医者さんが、今度は旦那さんのほうも診ておきたいって』

『僕が、悪いって言うのか?』

『違うの!その可能性もあるって事よ!』ユキは怯えていた。みるみるうちにサトルが鬼の形相になる。

『僕は悪くない!』サトルはケーキを投げ飛ばした。グシャッと音を立ててケーキは床に潰れ落ちた。

『僕の何がいけないって言うんだ!』サトルはユキの肩に掴みかかった。殴られると思いユキは目をギュッと瞑った。だがサトルは手を離すとそのままフラフラとリビングから出て行った。

ユキは震えて動く事ができなかった。暫くして息を整えると、ボロボロと涙を溢しながら床に落ちたケーキを片付け始めた。



ーーーーー


ショウタはユキを探していた。あれから数週間、ユキはどこにもいなかった。公園にも、ユキを助けたあの道にも。それから近所のスーパーも回ってみた。ストーカーみたいだという自覚はあったが、どうしても伝えたい事があったのだ。


一方でユキはショウタに会わないように、普段は行かない遠いスーパーまで行くようにしていた。公園での読書も暫くは控えていた。

だが矛盾した気持ちも持っている。

ある日、何気なくショウタと話した公園の近くの喫茶店へ入ってみた。彼に会えるかもしれないという淡い期待を抱きながら。


『あら、いらっしゃい』

40代くらいの女性店員がユキを見て微笑む。

どうやら彼女が店主らしい。

店内を見渡すが、ショウタの姿は無い。ユキは彼がいるかもしれないという淡い期待が外れたにも関わらず、どちらかと言うと安心した。

『今日は彼と一緒じゃないの?』

店主が唐突に話し掛ける。

『え、私の事覚えてるんですか?』

『そりゃあね、喫茶店で喧嘩するカップルなんて、そういないわよ』

『カップルじゃありません』

『そうみたいね』

店主は意味ありげに言う。

『彼の方は、貴女の事が気になってるみたいだけどね』

『えっ?』

店主はナギサと名乗った。彼女が言うには、ショウタは何度か喫茶店も訪れているらしい。そのうちにショウタとナギサは仲良くなり、ユキと出会った経緯なども話したようだ。

『ねえ、DV受けてるって本当?』

『はっ?』いきなり人の心に土足で上がり込むような事を聞かれてユキはカチンときた。

『そういう話なら…もう帰ります』

『ちょ、ちょっと!』

ナギサは慌てて引き留めた。

『ごめんなさい。私が悪かったわ。でもね、これだけは聞いて。ショウタくんは悪い子じゃないわよ。それは信じてあげてほしいの。それと、何かあったら私のところに相談に来て。大丈夫よ、秘密は守るから』

『…ありがとう…』しかし、ユキは“守る”という言葉には懐疑的だった。





『うわあ、嘘でしょ』喫茶店を出ると、空はどんよりと曇り今にも降り出しそうだった。

『今日は降らないって言ってたのに…』ユキは急ぎ足で帰ろうとした。だが途中で大粒の雨が降り出してきてしまった。ユキは仕方なく公園の東屋で雨宿りする事にした。


だが、東屋には先客がいた。ベンチに座っていたのはショウタだった。

『嘘でしょ…』

『やあ、久しぶりだね』

少しの間、沈黙が流れた。

だが先に沈黙に耐えられなくなったのはユキだった。

『ねえ、さっき喫茶店で聞いたんだけど、私の事ずっと探してたの?』

『うん、ずっと。だってさ、どこにもいないんだもん』

『あなたってストーカーなの?』

『うん』

『少しは否定したら?』

ユキは溜め息を吐いた。しかしショウタは気にする事無く、ベンチから立ち上がり、ユキを見つめた。

『どうしても伝えたい事があったんだ。だから、会えて良かった』

『つ、伝えたい事って?』

ユキは少し身構えた。好きだなんて言われたらどうしようと思ったのだが、考えていたものとは違った。

『俺、受かったんだよ。舞台』

『えっ、凄いじゃない!』

ユキの顔がパッと明るくなる。

『凄くないよ。脇役も脇役でさ、台詞も殆ど無いんだ』

『それでも受かったんでしょ?凄いじゃないの!』

『本当に、そう思う?』

ショウタの顔もパッと明るくなる。その笑顔を見て、ユキはやはり子犬のようだと思った。

『ええ。その舞台、是非観に行きたいわ!どんな内容なの?』

『うん、えっとね…』

ショウタは舞台のあらすじを教えた。男女の悲恋の物語だった。

『だから、面白くないかもしれないけど…』『そんな事ないわよ!』

ユキが食い気味に言う。

『そういうの好きよ。必ず観に行くから、頑張ってね!』

『うん!』ショウタは台詞も殆ど無い役にガッカリしていたが、ユキが喜んでくれた事でやる気が出た。

それからは時々、二人は公園や喫茶店で会うようになっていった。





その夜、ユキはサトルに、ショウタの事を話すべきかで悩んでいた。

別に愛人ができたわけではない。ただ友達ができただけ。でも、その友達は男だ。そんな事、夫に言える筈がなかった。


風呂上がり、ユキが寝室にある鏡台の椅子に座り髪を乾かしていると、先にベッドに入っていたサトルがわざわざ体を起こした。

じっとこちらを見ているサトルと鏡越しに目が合った。

『どうした?』

『…えっ、何が?』

『今日はやけに口数が少ないじゃないか。体調でも悪いのか?』

『え、ええ、そうなの。実は…少し風邪気味なのよ』

ユキは咄嗟に嘘を吐いた。

『そうだったのか。それなら今夜はしっかり体を温めないとな』

ベッドから下りたサトルが背中から抱き締めてきた。

ユキは少しだけ罪悪感を抱いた。

『もう寝るわ…』サトルの頬にキスをすると、ユキは逃げるようにベッドに入った。それを追い掛けるようにサトルも隣に入る。セミダブルのベッドはいつもよりも窮屈に思えた。

『寒くはないか?』

『大丈夫よ…お休みなさい』

『いや、寒いはずだ』

『えっ!?』

嘘とはいえ風邪だと言っているのに、サトルは布団を剥ぐと、強引にユキのパジャマを捲り上げ、獣のように体に貪りついてきた。

『ちょっと、ダメ…っ!』

サトルは何かを感じ取っているのだろうか。いつにも増して“しつこい”と感じる夜だった。





ある日ユキが喫茶店に着くと、何やら既にショウタとナギサの話が盛り上がっているようだった。

ユキが店に入っても、ナギサは『あら、いらっしゃい』と言うと次の瞬間にはショウタと喋りだした。

ユキはムッとした。そういう接客態度はよくないのではないだろうか。

店内を見渡して、ユキは溜め息混じりに“毒”を吐いた。

『いいんですか?いつ来てもお店ガラガラですけど』

『あら?ショウタくんと先に盛り上がってたから嫉妬してるの?』

『別にそんなんじゃありません』

ユキはショウタのいるカウンターの、席を一つ空けた隣に座る。すると彼がユキの隣に座り直した。

『ちょっと、何で近づくのよ』

『いいじゃん、誰も見てないし』

『ナギサさんがいるじゃないの』

『ナギサさんは特別だよ』

『ねー!』とショウタとナギサは声を揃える。ユキは呆れて外方向いた。だが同時にモヤモヤした感情を抱いてしまい、そのモヤモヤの理由がわからず困惑した。

『ユキちゃん機嫌が悪いの?』

とショウタが顔を覗き込んで聞いてくる。その心配そうな顔を見ると胸が痛んだ。

『そんな事ないわよ』無理に笑顔を作って言うと、ショウタはホッとしたように微笑んだ。


ユキにとって、ショウタやナギサと過ごす三人だけの空間はとても居心地がよかった。

他に友達がいないわけではないが、こんなに居心地のよさを感じる人たちには初めて巡り会えたような気がしていた。

だからだろうか、喫茶店に居る時のユキは気が緩んでしまうようだ。

『うーん!ふわあ…』午後の陽射しが差し込んだ店内はとても気持ちがいい。ユキは背伸びをすると同時につい欠伸が出してまった。

そんな彼女の姿にショウタとナギサは顔を見合わせた。

『あっ、ユキちゃん欠伸してるー。俺初めて見たよ!』

『あら私だって初めてよ。可愛くてスリスリしたくなっちゃうわ』

『ちょっと見ないでくださいよ』

ユキが頬を膨らます。すると二人は更に可愛い可愛いと盛り上がった。

ユキは恥ずかしさで顔が熱くなる。頬が真っ赤に染まっているのではないかと思い、それを隠すようにわざと嫌味を言った。

『もうっ!この店の売り上げは大丈夫なんですか?全然お客さん来ないじゃないですか』

『おっ、今日のユキちゃん毒づいてるね』とショウタ。

『私たちで日頃の鬱憤を晴らそうっていうのね?』ナギサは冗談めかして言った。

『別にそういうわけでは…』

『それに店なら大丈夫よ。ショウタくんが有名人になったら、この店を宣伝してくれるんですって』

『いつ有名になるのよ…』

『プッ!アハハ!』ショウタとナギサは顔を見合わせて笑った。

『これがユキちゃんの本性なのね?私、毒舌なユキちゃんも好きよ』

『いや、違っ…!』

『俺も!普段のユキちゃんも好きだけど、どっちも好きだなあ…あっ!』

ショウタはハッとして手で口を塞いだ。だがもう遅い。

ユキもショウタも互いに見つめ合い固まってしまった。

『あらあら。ちょっとお手洗いに行ってきまーす』ナギサは急にぎこちなくなった二人を置いてどこかへ行ってしまった。

『えっと、友達として、だよね?』

ショウタの気持ちは嬉しいが、素直に喜ぶわけにはいかなかった。

『え?う、うん…』

そしてショウタは、何か思い詰めたように黙ってしまった。





そのあと、気分を変えようと二人は公園へ移動した。だが、何も話題が浮かんでこないまま公園内をぐるりと1周してしまった。

焦ったショウタは咄嗟に『あのさ』と叫んだ。

『何よ。大きな声を出して』

『いや、あの、前から聞きたかったんだけど…』と今度は小声でゴニョゴニョと口ごもる。

『何?』

『いや、いいよ』

『…何なの?』

いや、とまた言いかけたが、これ以上焦らすとユキが怒りだしそうだと思った。

『えっと、あのさ。つまりその、ユキちゃんってさ、旦那さんとがその…初めてなの…?』

ユキは突然何を言い出すのかと驚いた。ショウタも聞いてしまった事を少し後悔していた。

『それは何?初セックスの相手が夫かって聞きたいの?』

『いや、そんな事は一言も…』

『じゃあ違うの?』

『いや、そういう事です。はい…』

最後はしどろもどろになるショウタ。ユキは何と返せばいいかわからず困っていた。

『ご、ごめんね。嫌なら言わなくていいよ。ていうか普通こんな事言いたくないよね。ハハハ…』

『…答えはノーよ』

『え!…ええっ!?』

『自分から聞いておいて何よ』

『だって…』

ユキほどの美人なら、それはモテるだろう。けれど、やはり聞かなければよかったとショウタは思った。

ふと見ると、ユキが何か思い詰めたような顔をしている。そして溜め息を吐いて言った。

『この際、聞いてほしい事があるんだけど、いい?』

『えっ?…うん』

二人はいつかの東屋のベンチに並んで座った。そして、暫く黙っていたユキが、ゆっくりと過去の出来事を話し始めた。





『私ね、夫と出会う前にも結婚を約束した人がいたの。でもね、その人は事故で死んでしまったの』

『えっ!?そんな…』

『でも私はね、本当に事故なのか疑っているの』

『何だって!?』

『彼はね、お酒が飲めなかったの。だから夜遅くまで飲み歩くなんて事は無かった。それなのに、亡くなった日に限って深夜までお酒を飲んでいたなんてあり得ない。酔っ払って道路に飛び出したところを車に轢かれたなんて…嘘よ…』

ユキは当時を思い出すように語った。彼の家族から電話で報せを受けた時は、頭の中が真っ白になって何も考えられなくなったと言う。

遺体の顔は包帯で被われ、顔で本人かどうかを判断する事はできなかった。だが彼の身分証を持ち、歯形や血液型、体の特徴が全て一致したと言う。

何かの間違いだと何度も思い、初めは涙も出なかった。だが彼の葬式が終わった後、彼の親に言われた。『貴女はまだ結婚したわけではない。うちの息子の事は忘れて幸せになって』と。その途端、とんでもない喪失感に襲われた。結婚の約束までした相手をそう簡単に忘れるなんて事、できる筈がない。

翌日、出社したものの仕事も何も手につかず、また周りの哀れむような視線にも耐えられなかった。こんな思いをするくらいならと、彼の後を追い自らの命を断とうとした。そんな時に、命を助けてくれたのがサトルだった。


ショウタは黙っている。しまった、こんな話をするんじゃなかったとユキは後悔した。だが、ポツリと呟くように訊ねてきた。

『えっと、目撃者は?』

『いたわ、一人だけ。彼はフラフラと歩いていて、お酒の匂いも凄かったそうよ。そして縁石に躓いて、そのままの勢いで道路へ飛び出して行ったらしいわ。でも、車は盗難車。犯人も未だに捕まらない。…それに、その目撃者は警察で証言した後、忽然とどこかへ消えたらしいの』

『何だよそれ、どういう事だよ』

『ね?事故なのかどうか、疑わしいでしょ』

『警察は?』

『まだ調べてくれてはいるみたいだけどね、何かあったら家族には連絡が来るでしょうけど。…でも私は家族じゃないから…』

ショウタはハッとした。

『ごめん』

『いいえ、いいのよ…』

今日は何だかぎこちない一日だった。しかしユキは自分の過去をショウタに話す事で、胸のつかえが取れたような気がした。

一方でショウタは、元恋人の不審死や現在の夫の暴力に悩むユキが不憫でならなかった。どうにか助けてやりたいと、そう思った。





それから数日後の事。

『ねぇ、久しぶりに舞台を観に行きたいんだけど、良いかしら?』

この日は夫サトルの機嫌が良く、今なら大丈夫だと思って聞いてみた。

『ほら、結婚してから舞台を観に行けてないでしょ?久しぶりに行きたいなって。ダメかしら?』

いつものように酒は飲んでいたが、不気味なくらい上機嫌なサトルは『まあ、いいだろう』と返事した。

『本当に?ありがとう!』

『お前は本当に舞台が好きなんだな。俺にはよくわからんが』

余計な一言を言い残して、サトルは風呂場へ向かった。

ユキは、ふうと溜め息を吐いた。罪悪感は少しだけある。舞台が好きで観に行きたい事に偽りは無かったが、ショウタの存在を夫に隠している自分が恐ろしかった。





ある日、ユキはまたショウタと公園で会っていた。元恋人の話をした事で気まずくなるのではと心配していたが、それを察してかこの日のショウタはやけに明るかった。

『はい、これあげる!ユキちゃんって、こういうの好き?』

ショウタが色とりどりのキャンディが入った袋を鞄から取り出した。

『いいの?ありがとう。好きかって聞かれると、普通かな』

『普通かぁー!』大袈裟に悔しがるショウタを可愛らしく思った。


ユキは自分が少しずつショウタに気を許しつつある事に気が付いていた。だがあくまでショウタはただの友達だと自分に言い聞かせていた。

そして、二人はまたいつものベンチに座った。

『ユキちゃんはいつから舞台に興味を持つようになったの?』

『うーん、そうね…』少し考えてみたが、思い出せない。

『子どもの頃から好きだったから、いつからかなんて覚えてないわ』

『じゃあさ、自分で女優になろうとは思わなかったの?』

『ええ!?私には演技の才能なんて無いわよ』

『そんなのやってみないとわからないじゃん』とショウタ。そこでまた少し考えてから返した。

『実は、演劇部には入ってたんだけどね…。才能が無くて雑用ばかりさせられてたのよね』

『えっ!じゃあユキちゃんも女優志望だったの?』とショウタの目がキラキラと輝きだす。

『違うわよ。ほら、子どもってお金持ってないでしょ?演劇部に入れば、タダで舞台とか観に行けるかなって思ったの』

『あー、そっちか』

『だからね、有名な俳優さんが出てるような大きな舞台には行かせてもらえなかったけど、小さな劇場には何度かタダで行けたから、結果的には満足してるの!』

『ふーん』とショウタ。

すると唐突に『ところでさ、今から演技の練習をしてもいい?』と話題を変えてきた。

『何よ突然』

『今度の役あまりにも台詞が少なくてさ、ちょっと主役の気分を味わってみたいんだよ』

『まあ、いいけど。でも自分の役の練習をしなくてもいいの?』

『それは稽古でするから大丈夫。それより、ねえ、いいでしょ?』

相変わらず子犬のようなショウタにおねだりされるとユキは抵抗できなくなってしまう。

『仕方ないわね。でも私はどうすればいいの?』

『なんとなく、ノリで返してくれたらいいよ』

『ノリって…。うーん、わかったわ。やってみる』

『ありがとう!』





そうして演技の練習が始まった。と言っても、公園には学校帰りの子どもや犬を連れて散歩する人など、多くの人がいるためベンチに座ったままこっそりと台詞を読み始めた。


『お嬢さん、俺は罪深い人間です。初めは軽い気持ちで貴女に近付いたのかもしれません。ですが、貴女の事を知り、貴女の事を思う度に胸が締め付けられるのです。頭の中は貴女の事でいっぱいです。どうか、俺と一緒になってください』

『…あっ、私の番?えっと、ありがとう。貴方の気持ちは嬉しいわ』

『例え旦那がいる身であろうと、他人の目を気にしていようと構いません。どうか、貴女を傷付けるような男とは別れてください』

『…えっ、本当にそんな台詞あるの?』ユキは怪訝そうに眉をひそめた。しかしショウタはお構いなしに続ける。

『俺は貴女が好きだ。誰に見られていようと、誰に何と言われようと、好きだ』ショウタはユキにぐっと体を寄せてきた。

『ちょっと、待ってよ!』

ユキは慌てて飛び退いた。

『ダメよそんな事!私、浮気とか不倫とか大嫌いなの!そんな事、無理に決まってるでしょう?』

『そ、そうだよね…』

しょんぼりと肩を落とすショウタを不憫に思ったが、だからと言ってユキにはどうする事もできなかった。


その日の夜、ショウタから『稽古が忙しくなりそうだ』と連絡が入った。それから暫く、ショウタはユキの前に姿を現さなくなった。



ーーーーー


『彼がいないと寂しいわね』そう言ったのはナギサだ。ユキはいつもの喫茶店に一人で来ていた。

『そんなんじゃありません。私、一人でも楽しめるタイプなので』

と言うとナギサは『はいはい』と返した。

『そろそろ舞台の本番が近付いてきたわね。チケット、あげようか?』

ナギサはニヤリと微笑みながら2枚のチケットを見せてきた。

『えっ、いつの間に!』

『この間ショウタくんが来たのよ。チケットを届けに。ユキちゃんにも渡してって言ってたけど、どうしようかなあ』

『勿体ぶらないで、下さいよ…』

語尾が小さくなるユキ。

『えっ?今何て?』

『もうっ!意地悪!』ユキが頬を膨らませると、店内にナギサの高笑いが響いた。





ショウタと会わなくなって、季節は変わり始めていた。空は段々と夏色に変わってきたが、朝晩はまだまだ肌寒い。

ユキの家でも、サトルが『もう布団は暑苦しい』と言うので、布団をしまい毛布一枚で寝るようになったが、寒がりなユキにとってはまだ布団が必要だと思うのだった。


朝、ユキはワクワクしていた。今日はショウタの舞台の本番である。

『おはよう』といつも通り挨拶したつもりだったが、サトルは驚いたような表情をした。

『おはよう。朝から元気だな』

『そ、そう?』ユキは楽しみな気持ちを少し抑えた。


サトルが家を出る時は、必ずユキが玄関まで見送りに行っていた。

『今日か、舞台を観に行くのは』

『ええ、そうなの』

『楽しむのもいいが、羽目を外さないようにな』

『わかってるわ』

『それと、終わったら早く帰って来るんだぞ』

『そのつもりだけど、夜の公演だから遅くなるかもしれないわ』

『そうか。それなら先に寝るとするか。気を付けて帰って来いよ』

『…ありがとう。行ってらっしゃい』

『行ってきます』

キスをするとサトルは微笑み、仕事へ向かった。ユキは何故かホッとして、フーッと息を吐いた。





夕方、チケットを大事そうに持ちながら、ユキはナギサと共に劇場まで来ていた。

『正直、私は舞台なんて見るの苦手なのよね』とナギサ。

『え、そうなんですか?』

『つい眠くなっちゃうのよねえ。あ、でも今日は大丈夫よ!目を見開いておくわ』

ナギサが細い目を見開いてみせると、ユキがアハハと笑った。

『あら面白いー?』と今度は変顔をしてみせるナギサ。

『もう、やめてくださいよお』

ユキはお腹を抱えて笑った。





舞台の内容は素晴らしいものだった。裕福な家庭に育ったヒロインと貧乏人の主人公が駆け落ちするというありきたりな内容だが、主人公は追っ手に捕まり、ヒロインの目の前で銃で撃たれてしまう。抱き合う二人。しかしヒロインの腕の中で主人公は息絶えてしまった。


ユキの目から思わずボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。

『うううーっ』と嗚咽を押し殺すような声が聞こえ、隣を見るとナギサも同じようにボロボロと涙をこぼしていた。

そして幕が降り、再び上がると演者たちが順番に挨拶を始めた。

ショウタの番は最後のほうだ。

順番が回りショウタが舞台の一番前に立つと、ユキは目一杯の拍手を送った。するとショウタと目が合い、彼は力強く頷いた。

『あら、私は無視ー?』ナギサは気だるそうに呟いた。





終演後、外はすっかり暗くなっていた。劇場から出たところでスマートフォンの電源を入れると、タイミングを計ったようにショウタから連絡が入った。

『…あっ』

『ん?どうしたの?』ナギサがスマートフォンを覗き込もうとしてきたので慌てて隠した。

『何でもないの!』

『ふーん。もしかして、ショウタくんから?』

黙って頷くユキ。

『そう、何て?』

『“今どこ?”って』

『それって“会いたいって”事よね。どうするの?』

『どうって、夫に終わったら早く帰るように言われてるから』

『起きて待ってるの?』

『そうじゃないけど…』

『なら会っちゃえば?』

さらっと言うナギサに、ユキは少しムッとした。

『私、帰らなきゃ』と言うと、ナギサは優しくユキの両肩を掴んだ。

『はぁ…。あのね、前から言いたかったんだけど、あんたもっと素直になったらどう?』

『えっ…』

『好きな人ができたなら、DV夫とは別れて新しい男のとこ行っちゃいなさいよ』

『そんな!簡単に言わないでよ!』と深刻そうな顔をするユキを見て、ナギサは言い方を変えた。

『わかったわ。その話は追い追いね。ただ、今は素直になりなさい。あなたは、もっと自分の気持ちに正直になるべきだわ』

ユキは潤んだ瞳でナギサの言葉に耳を傾けていた。





ショウタは自分で指定した場所でユキを待っていた。しかし、メッセージは既読にはなったものの返信は無く、ユキが現れる気配は無かった。

ハアと溜め息を落として帰ろうとした時、振り返ると少し離れたところにユキの姿を見つけた。

『えっ!いつからいたの?』

『…ついさっき』

『なんで声掛けてくれないの?』

『ごめんなさい。何て声を掛ければいいのかわからなくて』

『でも、来てくれたんだ』

『ええ、まぁ…』

二人はゆっくり歩み寄った。

『舞台の感想、聞かせて?』

『凄く良かったわ。感動しちゃった!ナギサさんも泣いてたのよ!』

『ナギサさんが!?』彼女の泣き顔を想像してショウタは吹き出した。

『じゃあ俺の役は?』

『貴方は…主人公を撃ち殺す兵士の役だったわね』

『うん、人を殺す役なんかもうやりたくないよ』ショウタがフッと笑うと、ユキは首を横に振った。

『でも、良かったわ!その…もうやりたくないっていうのが顔に出ていたけど、その辛そうな表情もとても良かった!』

『ありがとう。そこは監督にも褒められたよ。“いい顔するね”って』

フフフと二人は笑った。


『ねぇ今からデートしない?』

と、突然ショウタがユキの手首を優しく掴んだ。

『えっ、ちょっと待ってよ!』

『ダメなの?』

『あ、当たり前でしょ。私もう帰らなきゃいけないの』

『初日の舞台が終わった俺を労ってくれないの?』

『それは…!』そう言われると何故か抵抗できなくなる。

『じゃあ、少しだけなら…』ユキは渋々ショウタについて行った。





ショウタはユキの手首を掴んだまま歩いていた。本当は手を繋ぎたかったが、そうすると振り払われてしまいそうだったので諦めた。今はユキが抵抗もせずついてきてくれている。それが凄く嬉しかった。

『着いたよ』

『えっ…』ユキは驚いた。目の前にはホテル街が広がっていた。

『嘘…』まさかこんなところに連れて来られるなんてと呆気にとられていると、ショウタが笑った。

『どこ見てんの?こっちだよ』

『あっ、わあ…!』

ショウタが案内したかったのは、ゲームセンターだった。

『ユキちゃん、ゲームセンターなんて来た事ないんじゃないの?』

『バカにしないでよ。学生の頃は来てたわ』

『じゃあ、今日は派手に遊んじゃいますか!』

うん!と笑顔で頷くと、ユキは約10年振りのゲームセンターに足を踏み入れた。


『まずは何からしようか?』

『お任せするわ』

『じゃあ…これ!』とショウタが最初に指差したのはガンシューティングゲームだった。

『俺得意なんだよねー』

『私も負けてないわよ』

『マジ!?』

ユキは得意気に微笑む。ショウタは格好いいところを見せたいと思っていたのだが、次々とゾンビを一人で倒していくユキにランクで負けてしまった。だが最後だけは銃口にフーッと息を吹き掛ける素振りをして格好つけると、ユキは面白そうに笑ってくれた。


『ねえ、じゃあ格好つけさんに、アレお願いしようかしら』

『アレって?』

ユキに手を引かれて行った先にあったのは、バッティングだった。

『俺、元野球部だから』

と今度はショウタが得意気に微笑み、ゲームを始めてみるも全て空振りで終わってしまった。

『まさか、球拾いばっかりしてましたっていうオチじゃあ…』

『くっそー、次は本気で俺の得意なやつ!』


今度はカーレースゲームをする事にした。コンピュータの車をグングン追い抜き圧倒的な秒数の差でゴールすると、ユキが悔しそうに唇を尖らせた。

『もう一度お相手しましょうか?お嬢さん』

『あっ、バカにしたわね?』

しかし何度プレイしても結果は同じで、ユキは『じゃあ次っ!』と言いショウタを置いて行ってしまった。


『待ってユキちゃん』

ユキが立ち止まった先にあるのはダンスゲームだった。

『え、これやりたいの?』

『貴方は得意?』

『いや、どうかな…』

兎も角プレイしてみると、意外にもショウタはすぐにコツを掴んだ。

『じゃあ私も!』とユキも隣で始めてみるが、ユキのダンスはお世辞にも上手とは言えなかった。

『下手くそ』とショウタは笑った。

『煩いわね!』とユキもムキになりながら笑っていた。

『ねえ、もう一回しましょう?』

ユキは時間の事なんてすっかり忘れてしまっていた。





『大変!もうさすがに帰らなくちゃ!』ふと気がつけば、もう日付が変わろうとしていた。

『本当だ!』二人は慌てて帰ろうとした。だがショウタはある機械の前で立ち止まる。

『最後にこれだけやってもいい?』

ショウタは微笑んだ。





『ごめんね、こんな時間まで付き合わせちゃって』

『私は大丈夫よ。貴方こそ明日早いんじゃないの?』

『俺も大丈夫だよ』

『そう…』あまりにも時間が遅くなったので、ショウタに家の近くまで送ってもらっていた。ユキは一人で帰ると言ったのだが、ショウタは深夜に女性を一人で帰らせるわけにはいかないと断固として譲らなかった。それに『この時間なら近所の人もみんな眠ってるよ』とショウタに言われ、少し安心していた。


『ねぇ、“この子”ショウタくんに似てると思わない?』ユキの腕には茶色い犬のぬいぐるみが抱かれていた。ショウタが最後にクレーンゲームで取ってくれたものだ。

『似てないよ』

『そうかなぁ?似てると思うけどな。目とか』

『俺の目はそんな真ん丸じゃないよ』と素っ気なく言ってみたものの、ユキがぬいぐるみを大事そうに抱きかかえている事がたまらなく嬉しかった。

『うーん。やっぱり似てる』

と言いながらユキがぬいぐるみに頬擦りをした。

ショウタはその仕草に胸が高鳴ると同時にギュッと締め付けられたような感覚になった。ユキがあまりにも可愛らしくて抱き締めたくなる。だが、そんな事はしてはいけないのだと自分に言い聞かせた。


『ここで大丈夫。角を曲がるとすぐだから』ユキは立ち止まり、ショウタのほうを向いた。

『そっか。じゃあ、またね』

『うん、送ってくれてありがとう。気を付けてね』

『ありがとう、お休み』

『お休みなさい。えっと、千秋楽まで頑張ってね』

『うん、頑張る。あの、もしよかったらまた、デートしようよ』

『もう、デートじゃないから』

『じゃあ、友達として、遊びに行こう。それならいいでしょ?』

『うん…友達としてね。それならいいけど、あのさ…』

『何?』

『キリがないわね』

『…本当だね』プッと二人は声を抑えて笑った。

『じゃあ、またね』ショウタが手を振るとユキも控え目に手を振って、角を曲がって帰って行った。

すぐにユキから『今日はありがとう。楽しかった』とメッセージが入り、ショウタは嬉しくなって小さくガッツポーズをした。





翌日は休日だったため、サトルは家のソファに座り新聞を広げながら寛いでいた。舞台の感想は聞いてこないが、代わりに『帰りは遅かったみたいだな』とだけ言った。

昨夜、帰宅した時には既に家中の明かりが消え、寝室ではサトルが寝息を立てていた。ホッと安堵してシャワーを浴びに行ったのだが、深夜に帰った事に気付いたのだろうか?

『ええ、ごめんなさい。お友達と一緒だったの。感想を語り合ってる内に盛り上がっちゃって、うっかり遅くなってしまったの…』

『そうか。まあいいだろう』

と急に新聞を畳んで立ち上がった。

『あら、どこかへ行くの?』

『嬉しそうだな』

『そんな事ないわよ』

『…今日は、人と会う約束をしているんだ』

『そうなの…』ユキはサトルの言い方に引っ掛かった。休日とは言えサトルは接待でゴルフや会食に行く事がある。だが、“人と会う”という表現は珍しかったし、何故か余所余所しく感じた。

ユキは少し浮気を疑った。ただ、浮気で他の女性に気が向いてくれるなら、むしろ好都合だと思った。


サトルの車が駐車場を出たのを確認して、ユキは寝室へ向かった。ベッドの下には昨日ショウタから貰った犬のぬいぐるみがあった。

ショウタから貰ったものを堂々と飾るわけにもいかず、かと言ってどこかへ隠してもサトルに見付かってしまいそうだと思い、悩んだ末に行き着いた先がベッドの下だった。

そのぬいぐるみを鞄に入れると、ユキも家を出た。ナギサに見せたいと思っていたのだ。





『あら、ショウタくんじゃないの』ぬいぐるみの顔を見るなりナギサが言った。

『やっぱり!そう思いますよね。似てるって言ったのにショウタくんは似てないって言うんです』

ナギサは黙って聞いている。

『どうしたんですか?』

『昨日は楽しかったのね』

その言葉にハッとした。確かに心から楽しかった。だからこそ、ユキは自分の立場を弁えられていなかったと反省した。

ナギサはそんな彼女の気持ちを察して、違うのよと言った。

『あなたを責めようとしてるんじゃないの。ただ、今後どうするのかなって思っただけよ。その、旦那さんの事とかね』

『わかってる…』ユキ自身も、答えを出さなければと思っていた。


『ねえ聞いてもいい?』とナギサ。

『何ですか?』

『離婚を切り出した事は無いの?』

『…そりゃあ、ありますよ』

『あるの!?』

『その頃は、まだ軽いものだったから。私も、軽い気持ちで“次叩いたら離婚するから”って言えたの』

『そ、それで?』

『もっと、暴力が酷くなったわ』

『そんな…』

ユキはその時の事を思い出し、震える手を押さえた。





『次叩いたら離婚するから』そう言えば改心するのではないかと思ったのは浅はかだった。

よく“怒りに震える”と聞くが、ユキは初めて本当に怒りに震えている人間を見た。

しかしサトルはこの時すぐに暴力に走ったわけではない。たった一言だけ、『本気で言っているのか?』と言ったのだ。

その時の鬼のような顔を忘れはしない。ユキは底知れぬ恐怖を感じた。

『いいえ、冗談よ…』

『そうか…よかった…』

ユキは開けてはいけない箱を開けてしまったような気がして、恐ろしさで手足が冷たくなるのを感じた。

サトルがゆっくりと部屋を出て行く。その後ろ姿をユキは呆然と眺めていた。





『じゃあ、警察に行こうと思った事は?』ナギサは今まで見た事が無いほど心配そうに眉を曇らせている。

『それは…あまりにも酷い時は警察も考えたけれど…でも…』

答えにくそうにしているユキの代わりにナギサが言った。

『信じているのね?いつかは元に戻ってくれるかもしれないって』

ユキは驚いた。まるで自分の心を見透かしたかのような事を言われたからだ。


『どうして…』戸惑うユキに、ナギサは溜め息混じりに説明した。

『私の友達がそうだったから…。旦那に酷い扱いを受けながらも、いつかは変わる。いつかは元に戻ってくれるって、そう信じていたの』

ユキはまた驚いた。ナギサの身近にもそんな人がいたとは。

『そ、それで、そのお友達は?』

『死んだわ…』

衝撃的な一言に絶句した。しかし目を見開いて固まってしまったユキを見て、ナギサは慌てて言った。

『大丈夫よ。殺されたとか自殺したとかじゃないから。…病気だったの。癌だったのよ』

ナギサはフォローしたつもりだが、ホッとしたような残念なような複雑な気持ちになった。

ナギサは気にせず続ける。

『その旦那だけどね、最後の最後で言ったのよ。私の友達の手を握って、涙を流しながら“ごめん”って。でも遅かった。“ごめん”と言った時には、もう…』

『そんな…』

『だからね、私は心配してるの。ユキちゃん、貴女にはそうなってほしくないから。ショウタくんだっていつも言ってるわ。貴女を死なせたくないって。みんな心から心配してるのよ。貴女の事が大好きだから』

『ナギサさん…』

ナギサやショウタの気持ちはわかっている。心配してくれている事も、好きでいてくれている事も。

だからこそ、自分の力で何とかしなければと、ユキは覚悟を決めて家路についた。





ユキは自宅の駐車場を見て驚いた。さっき出ていったはずのサトルの車がもう戻っていた。

慌てて家の中に入ると、サトルは玄関で不気味な笑みを浮かべて待っていた。


ユキはサトルに誘導され、リビングのテーブルを挟むように向かい合って座った。

『どこへ行ってたんだ?』

『ちょっと、用事があって…』

『どんな用だ?』

『そ、それは…。喫茶店に友達がいるの。最近知り合ったのよ』

『へぇ、会いに行ってたのか?夫が出掛けた隙にか?』

『別に、いつ会ったっていいじゃない。友達なんだから…』

『本当に友達かどうか怪しいものだがな!』

サトルはユキの目の前に写真をばら蒔いた。そこには昨夜ゲームセンターで楽しんでいたユキとショウタの姿が写っていた。

『な、何よ、これ…』

『見ての通り写真だ。それより、誰なんだこいつは!』

机をバンと叩いて怒鳴るサトル。だがフッと笑うと続けて『もう調べてある』と言った。

『役者をやってるのか。舞台が好きなお前らしいな』

『どういう意味よ』

『前から怪しいと思っていたんだ。急に舞台を観に行きたいと言い出してからな。だから、お前の事を監視させていたんだよ』

『まさか、探偵を雇って?』

するとサトルはアハハと豪快に笑いだした。

『探偵なんて馬鹿馬鹿しい。僕の仲間に頼んだんだ。金さえ払えば何でもしてくれる仲間にな』

『仲間?』すると今度はサトルが急に真顔になる。

『お前はまだ僕の全てを知らない。僕の仲間は金のためなら何だってやる。人殺しでさえも』

『…今、何て?』ユキは聞いてはいけない事を聞いてしまったと思った。彼女の中で、何かが音を立てて崩れ始めた。

サトルは立ち上がる。その姿は悪魔のようにも見えた。そしてサトルは囁くように言った。

『お前の元恋人を殺させたのは、僕なんだよ』

ユキを恐怖と絶望が襲った。

『僕がお前の自殺を止めた日、お前はあの日が最初の出会いだと思い込んでいるが、それは違う。もっと前から僕はお前の事を見ていた。だがお前は一度も僕を見てくれなかった。だから、邪魔な恋人を殺してやったのさ』

『そんな…酷い…』

『僕は目的のためなら手段を選ばない。僕に目をかけられたその日から、お前は僕のものになる運命だったんだよ!』

ユキは絶句した。前から元恋人の死には疑問を抱いていた。まさかとは思っていたが、サトルが…夫が真犯人だったとは…。

『それじゃあ、事故の時の、車の運転手や目撃者は…』

『僕の仲間だ。酒が飲めない男に泥酔する程の酒を無理やり飲ませるのは苦労したらしい。だけど、証拠は残すなと指示していたからな。完璧にやってくれて感謝しているよ』

『感謝ですって!?なんて酷い事を!』ユキはサトルに掴みかかろうとしたが、かなうはずがない。呆気なく突き飛ばされ床に倒れこんでしまった。

『僕には逆らわないほうがいい。ショウタって男と、ナギサって女を守りたいなら』

『…なんでナギサさんの事まで!?』

『言っただろう?“調べてある”って。あの喫茶店、そこそこ繁盛してるみたいだな』

そう、ナギサが経営する喫茶店は、ナギサを含め従業員は6人いる。早朝から開店してモーニングもやっている。書き入れ時には小さい店ながら満席になるくらいの客が来るのだ。

だがユキとショウタは人目を忍んで午後3時以降に店に行くようにしていたので、早朝から働いているパートやアルバイトたちはみんな帰り、客も殆どいない。

以前ユキが“売り上げは大丈夫か”と言っていたのも、繁盛している事を知った上での冗談だった。


『僕が頼めば、あんな小さい店くらい簡単に潰せる。役者にしたって、潰すのは簡単だ。…なんなら、前みたいに殺してやってもいい』

『…最低』

『何とでも言え。わかるだろう?お前にはもう、自由は無いんだ』

サトルはニヤリと笑った。

『いや、来ないで!』

恐怖で足がすくんで動けないユキを嘲笑うかのように、サトルはゆっくりと歩み寄る。

『やめて!助けて…』

ユキはサトルに抱かれながら、この男と出会った時点で自分の人生は終わっていたんだと思った。



ーーーーー


このところ、サトルのDVは更にエスカレートしていた。昨夜はサトルの同僚の小さなミスで連帯責任を取らされたと言って、クローゼットに閉じ込められ一晩過ごすというとばっちりを受けた。しかしユキは、サトルの隣で寝るよりはクローゼットのほうがマシだと思った。


更にユキは軟禁状態にされていた。家の外ではいつもサトルの仲間と思われる男がこちらを監視している。

『一生家から出るな。必要なものはネットで頼めばいいのだから買い物にも行くな。それから、他の人間と連絡を取るのもダメだ』とスマートフォンを奪われてしまった。

更に『この家から逃げ出してみろ。僕の仲間がお前の事を地の果てまで追いかけるぞ。お前だけじゃない。“役者の男”や“喫茶店の女”の命を危険に晒す事にもなるんだ。見殺しにしたくないなら、大人しくしていろ』と脅迫された。

これではもう、夫婦と言うより奴隷ではないか。もっとも、ユキはもうサトルと夫婦でいるつもりは無いのだけれど。


サトルの車が駐車場を出たのを確認すると、寝室に戻りベッド下からショウタに貰ったぬいぐるみを引きずり出して、抱き締めた。このぬいぐるみが無事でよかったと思った。ユキにとって唯一の味方のような気がしていた。





ビルの屋上。サトルはユキから奪ったスマートフォンを眺めている。ショウタから来るメッセージに、ユキになりきって返事をしていたのだ。

【最近ナギサさんの店に行ってないみたいだけど、どうしたの?】

【ごめんなさい、急遽夫と旅行に行く事になったの。だから暫く会えないし、連絡もできないの】

【そっか、じゃあ帰ってきたら、またデートしようね!】

サトルは怒りで顔を歪めた。恋人気分でメッセージを送りつけるショウタを殺してやりたいと思った。だが、怒りを抑えて返事を打つ。

【うん!また今度ね!】

『くそおおお!』サトルはやはり怒りを抑えきれず、ユキのスマートフォンを投げ捨てた。屋上から落とされたスマートフォンは、バラバラに砕けてしまった。





ショウタはユキから来たメッセージに違和感を感じていた。ユキの夫は仕事人間だと聞いている。それなのに、連休でもないのに旅行へ行く事になったと言うのは何か引っ掛かる。それに、“デートしよう”と言った事に対して否定的な言葉を返して来なかったのも変だ。いつものユキなら“デートじゃないから”などと言ってきそうなものだ。しかし、ショウタはユキの身に危機が迫っている事など知る由も無かった。





夜、ユキは歯を食いしばって耐えていた。サトルの体が自分の上を這う度に怒りと悔しさで吐き気がする。

こんな男のために子どもを作ろうとしていたなんて、どうかしていた。むしろ今は一度も妊娠しなかった事に感謝している。


元恋人を殺した憎き男の顔など見たくはないと床に視線を落とす。床にはハサミでズタズタに切り裂かれたユキの衣服が散乱していた。こんな事をして何が楽しいのだろうか。こんな事でしか快楽を得られないなんて、可哀想な男だと哀れんだ。


サトルが動きを止め、ユキの顔を覗き込んだ。

『何を考えてる?』

『貴方を、どうやって殺してやろうか考えてたのよ』

クククとサトルは嘲笑った。

『お前にそんな事はできない』

『どうしてそう言い切れるの?』

『殺るならとっくに僕は殺されてるだろうからな。だろ?』

そして続けて言う。

『お前が考えているのは、役者の男の悲しむ顔を見たくないって事だけだ。違うか?』

その通りだった。ショウタだけじゃない。ナギサにまで悲しい思いをさせたくない。だからこそ、ユキは自らの命を断つ事さえできなかった。

蛇の巣の中で、睨まれ弄ばれながら生き永らえている蛙になったような気分だった。


再びサトルが体を這わせる。ユキは嫌悪感に耐えきれずその場で嘔吐してしまった。

『…そうか、そんなに嫌か』

サトルは汚れたシーツと共にユキを風呂場に放り込んだ。震えながら睨み付けるユキを冷徹な眼で見下ろしながら…。





一方でショウタは焦っていた。最後にメッセージのやり取りがあってから一ヶ月、ユキとは連絡が取れなくなってしまったからだ。ナギサもぬいぐるみを見せに来て以来、一度も店を訪れて来ないユキの事を心配していた。

『どうしよう…どうしたらいい?何かあったのかな?』と落ち着きがないショウタに『まぁ待ちなさいよ』とナギサが言う。

『メッセージ通りなら、旦那と旅行中かもしれないんでしょ?まだ何かあったとは限らないわよ』

平静を装ってはいるが、ナギサも気が気じゃない。

『でも一ヶ月だよ!?そんなに長い間旅行するなんて思えないんだ!それに一切連絡が無いなんておかしいよ!既読にもならないんだよ!?』

とショウタはみるみるヒートアップしていく。

『ああっ!…ナギサさん、俺もう我慢できないよ!』

『我慢できないって、どうするつもり?対決でもしようっての?』

『対決できるならしたいさ!』

ショウタの目は本気だった。

『ナギサさん、俺決めたよ。俺が、ユキを助けに行く…!』

『ちょっと待って!』ナギサの制止を振り切って、ショウタは店を飛び出した。





インターフォンの音で目が覚める。寝ぼけ眼で窓の外を見た。いつも通り、サトルの仲間と思われる男がいる。だがその男が今は家の玄関先を睨み付けていた。

再びインターフォンが鳴る。

モニターを覗いて驚いた。ショウタが不安そうな顔で立っていた。


『ショウタくん…!』ユキは思わず玄関を飛び出してショウタに抱き付いた。突然の事に驚いていたショウタも、すぐにユキを抱き返した。

『会いたかった…怖かった…』

ユキは泣いていた。


『家、上がってもいい?』とショウタ。思わずユキは体を離した。

『ダメよ。夫が怒るわ』

『助けに来たんだよ。早くここから出よう』

『無理よ。どうせすぐ捕まるわ』

『なら警察を呼ぼう』

『やめてよ!』ユキは思わず大きな声を上げてしまい、慌てて自分の口を手で塞いだ。

『話したいんだ。旦那さんと』

『何を話すのよ』すると、ここで話していても埒が明かないと思ったショウタはユキの肩を掴んで無理やり家の中に押し入った。そして玄関の扉を閉め鍵を掛けた。

『バカじゃないの?』

『俺もそう思う』

二人は唇を重ねた。互いの愛しさを確かめ合いながら。





ユキは洗面所の鏡の前で乱れた髪を整えた。少しやつれた自分の顔をショウタに見られてしまった事を恥ずかしく思った。リビングに戻るとキッチンのほうでショウタが何やらうろうろしている。

『何してるの?』

『あ、お茶とかある?』

『うん、ちょっと待って』

ペットボトルのお茶をガラスのコップに注いで差し出すと、ショウタはコップではなくユキの腕を掴んだ。

『何?』

『ちょっと見ない間に痩せたね』

今度はそっと頬に手を添えてきた。

『そうかもね』

ユキは胸の高鳴りを抑えるように、コップをショウタに押し付け離れて行った。そして唐突に家中のカーテンと窓を次々と開け始めた。

『な、何してるの?』

とショウタは驚く。

『外にいる監視員が、夫に何を話すかわからないもの。ただでさえ貴方が来た事で怒っているでしょうから、有ること無いこと言われて、事実でもない事に腹を立てられたら嫌でしょう?』

それに、と付け加える。

『貴方だって俳優なんだから、有ること無いことでっち上げて週刊誌に売られたら困るでしょう?』

『ちょ、ちょっと待った!監視員って…?』ショウタは窓の外を見てまた驚いた。明らかに柄の悪い、屈強そうな男がこちらを睨みながら、どこかへ電話を掛けていた。

『何だよあれ…』

フウと溜め息を吐いて、ユキはこれまでの経緯をショウタに説明した。





『そんな…ユキちゃんの元彼を殺したのが旦那さんだなんて、ドラマじゃないんだから…』

ショウタは信じられないようだ。

『本当よ。それに、逃げたら貴方やナギサさんの事まで殺すと脅されているの。だから私、ここから逃げる事ができないの』

すると、『バカやろう!』と珍しくショウタが怒った。

『ユキちゃん、君は洗脳されているんだよ!』

『洗脳…?』ユキは一瞬ショウタが何を言っているのかがわからずキョトンとした。

『そんな事を信じてどうするんだよ!俺やナギサさんのために一生あいつの奴隷でいるつもりなのか?そんな事して、俺たちが喜ぶとでも思ってるのか!?』

『だって…』ユキの頬を涙が伝った。

『バカ!』ショウタは力一杯ユキを抱き締めた。ユキは再びショウタの腕の中で泣いた。





夕方、サトルは帰宅した。勿論ショウタが来ている事は知っている。だから、玄関に男物の靴を見付けても驚かなかった。

サトルがリビングに入ると、ユキは扉のすぐ近くで待っていた。

『お、おかえりなさい』

震える声を絞り出すように言うと、奥にいたショウタがソファから立ち上がる。

『…初めまして』ショウタも緊張していた。初めて舞台に立った時よりも余程こちらのほうが怖いと思った。それでも、ユキを助けなければと心を奮い立たせた。

『そうか、お前がユキの新しい男か』サトルはニヤリと嘲笑う。

『何よ、その言いかたは…』

『何だ、違うのか?』とユキに言ったかと思うと、急に顔を歪ませてショウタに掴みかかった。

『貴様!人ん家に勝手に上がり込んで、何しに来やがったんだ!人の妻を奪いに来たのか!?この変態やろう!』とショウタの頬を殴った。

負けじとショウタも掴みかかる。

『俺はユキを助けに来たんだ!ユキを解放しろ!解放しないなら警察に通報するぞ!』ショウタもサトルを殴ろう拳を振りかざしたが、その腕をユキが『ダメ!』と掴み止めた。

『どんな相手でも、殴れば犯罪よ』

するとサトルがクククと笑った。

『よく言った。そうだ、貴様は僕に手出しできない。さすが僕の妻だ。よくできている』

サトルはユキの頭を撫でようとした。だがユキは咄嗟に躱した。

『触らないで!』と言うと突然自ら服を脱ぎ始め、あっという間に下着姿になってしまった。

『一体何を!?』男たちは驚いた。

その上ショウタは痣や傷、火傷のような痕までがユキの身体中にある事に絶句した。そんな状態で一ヶ月も耐えていたのかと思うと胸が張り裂けそうなほど苦しくなった。


ユキは下着姿のまま窓辺に立った。家の外を通る人にも見られるかもしれない。だが、それでよかった。

『見たい人がいるなら見ればいいわ!こんな体でよければね!』

『や、やめろ!』サトルはユキの手を引きカーテンを閉めた。


『お前!自分が何をやってるのか、わかってるのか!』

『ええ、わかってるわ!誰でもいいから見てもらうのよ。私が、どれだけ酷い目に遭っているか。あなたが、どれだけ恐ろしい男なのか』

『そんな事はさせない!』

サトルは強引にユキを2階の寝室に連れて行こうとした。だがショウタが立ち塞がる。

『退け!』どちらともなく揉み合いになった。サトルが殴りかかろうとするとショウタがそれを躱しタックルした。だがサトルも負けじとショウタの腹を蹴り上げた。

『うっ…!』膝から崩れ落ちるショウタ。その隙にサトルがショウタに駆け寄ろうとしたユキを捕まえる。

『やめて!離して!』

『ユキ!』ショウタは咄嗟に近くにあった灰皿を手に取り殴りかかろうとした。だが再び揉み合いになり、逆にショウタが灰皿で頭を殴られてしまった。鈍い音が部屋に響く。ショウタは床に倒れ込んだままピクリとも動かなくなった。

『嘘…!やだ!離してよ!ショウタくん!ショウタくん!』


ユキは引き摺られるようにして、寝室へ連れて来られた。

サトルが凄い力で腰の高さまであるタンスを動かし、扉を塞いだ。

『人殺し!』涙目で睨み付けるユキを挑発するようにサトルはヘラヘラと笑っている。

すると、階下から『ユキ!』と声が聞こえてきた。

『チッ生きてやがったか』

残念そうに舌打ちするサトル。一方でユキは安心して涙を流した。

『ショウタくん…』

タンスを退かして逃げようとするが、当然ユキの力では中身の詰まったタンスを動かせる筈がない。

『ハハハハ、逃げられるもんなら逃げてみろよ』

サトルはベッドに腰掛けた。

『何がしたいの?これからどうするつもり?』

部屋の外からは『ユキ!』と何度もショウタの呼ぶ声がする。

『私はここよ!』

扉に向かってと叫ぶと、部屋のすぐ外でショウタの声がした。

『よかった、無事だったんだね』

『今はな…』

『…!』真後ろから声がして驚いた。

振り返るとすぐそこにサトルの顔があった。逃げる暇も無く首を掴まれベッドに押し倒される。

ユキの首を締めるサトルの手に力が入る。本気で殺そうとしている。そう思ったユキは必死に抵抗した。

『やめて…助けて…』爪を立て、力を込めて何度もサトルの腕を引っ掻いてみたがびくともしない。段々と、ユキの手に力が入らなくなってきた。痺れたような感覚になり、ドサリと腕が垂れる。

遠退いていく意識の中、ユキを必死に呼ぶショウタの声と、扉に何度も体当たりする音だけがぼんやりと聞こえていた。

『ショウタ…くん…』

ユキは目を閉じた。最後に零れ落ちた涙は夕陽を浴びてキラキラと美しく光っていた。


ーーーーー


ユキは霧に包まれた森の中のような場所で目が覚めた。

『ここは…?』辺りを見渡すと、ポツンと立っている人影があった。

『…!』ユキは言葉を失った。そこにいたのは亡くなったはずの元恋人だった。ゆっくりと彼が近づいてくる。そしてユキに優しく微笑んだ。

『わ、私、死んだの?』

『違うよ。まだ死んでない』

『え、じゃあ貴方は…』

『俺は死んだ。だから、ここで君をずっと待ってるんだ』

『迎えに来てくれたの?』

『違うってば!』と彼は笑った。

『君はまだ死なないよ。必ず助かる!だから、今一番会いたいと思っている人の名前を呼んでごらん?きっとすぐに会えるから』

ユキの頬に涙が伝った。

『私が会いたかったのは貴方よ。謝りたい事があるの!私、貴方を殺した男と…』

『もう、いいんだよ』と、彼はユキの頭を撫でる素振りをした。

『でも、それだけじゃないわ。私、私…』言葉に詰まるユキを彼は優しく抱き締めた…のだが、ユキにとっては全くと言っていいほど何かが肌に触れるような感覚が無かった。

『…何も感じないでしょ?』

目を丸くしてコクリと頷くユキ。

『まだ感覚は“あっち”に有るって事だよ。君は帰るべきなんだ』

『でも!もし帰っちゃったら私、また別の人と…付き合うかもしれないわ。また貴方を裏切る事になる』

『何を言ってるんだ!裏切りなんかじゃないよ。俺は君の幸せを願ってる。本当だよ。だから、次にここで会う時は、君の幸せな話を聞かせてよ。どんな人と結婚して、子どもや孫は何人いて、どんな人生を送ったか。年を取ってしわくちゃになっても、必ず君を見つけるから』

そう言うと、彼はユキのほうを向いたままスーッと遠ざかって行く。

『ちょ、ちょっと待って!まだ行かないで!』だが彼が止まる事は無く、その代わり声だけは近くで囁くように聞こえた。

『大好きだよ。だから幸せになって。まだ死なないで。君だけは』

彼の姿は霧の中に消えてしまった。

呆然と立ち尽くすユキ。するとまた霧の中から人影が現れた。

今度は先程の彼とは雰囲気が全く違う。黒いオーラを纏い不気味な程ゆっくりとユキに近づいてくる。

『まさか、死神!?』

逃げようとするユキに再び彼の声が聞こえた。

『忘れないで!今一番会いたい人の名前を呼ぶんだ!』

『…!』黒いオーラを纏う人影は、ユキのすぐ傍まで迫っていた。





騒がしい声に目が覚めた。なんだか長い夢を見ていたような気がする。

『…ナギサさん、うるさい』

少し枯れている自分の声に驚いた。

『あっ!ほら!私が来たから目が覚めたのよ!』とナギサが興奮気味に駆け寄ってくる。

『だから、病室で騒ぐなっての!』

ショウタの頭には包帯が巻かれていた。だが元気そうでよかったとユキは安心した。

そしてショウタが注意するのも聞かず、ナギサが抱き付いてきた。

『もう、心配かけるんじゃないわよバカ!あんたが病院に運ばれたって聞いて、気が動転して店のお皿5枚も割っちゃったんだから!』

『…ごめんなさい。…それ、笑っていいところですか?』

『笑いたきゃ笑いなさいよ!』

と言いながらナギサは泣いている。

ナギサの頭に優しく手を乗せると、更に嗚咽を漏らして泣き出した。

『さあ、ほらナギサさん、ユキちゃんが目を覚ましたんだから、お医者さん呼んできてくれませんか?』

ショウタが丁寧に言う。

『ふーん、そうやって厄介払いするのね。フン!』ナギサはハンカチで涙を拭うと、プリプリ怒りながら病室を出て行った。

フッとショウタは微笑んだ。

ユキも同じように笑った。

『私、生きてたのね』

『ああ、運が良かったんだよ。君の行動が正しかったんだ』

『行動?』キョトンとしていると、ショウタがベッドサイドの椅子に座りながら教えてくれた。


あの時、ユキが窓やカーテンを全て開けていた事で、全てが上手くいったのだ。

物音や叫び声が外に筒抜けになり、騒ぎを聞きつけた近所の人が早い段階で通報してくれていた。

それから、あの時ユキたちを見張っていたサトルの仲間が裏切った。ユキが下着姿で窓辺に立った時、傷だらけの体を見て母親が昔DVに遭っていたのを思い出したらしい。

実質ユキを助けたのは警察よりサトルの“元”仲間が先だった。

ショウタを押し退け寝室の扉をぶち壊し、サトルに向かって突進すると頭突きを食らわせたらしい。

一発で気を失ったサトルは、その後すぐに到着した警察官たちにより呆気なく逮捕された。


ユキはサトルが捕まった事に安堵の溜め息を漏らした。

『まあ、また後で刑事さんたちが来て、ユキも事情聴取されると思うよ。俺もしたし、あとナギサさんも色々聞かれてた』

『そう…。わかったわ』

『あのさ…』とショウタが改まる。

『ユキちゃんが無事で本当に良かったよ。君が動かなくなってるのを見た時、心臓が止まりそうだった。でも、警察の人たちが気を失ってるだけだって言ってくれて安心した』

ユキはショウタの目が赤くなっている事に気付いた。そう言えば外が明るくなっている。ユキは相当な時間眠っていたらしい。

『泣いてたの…?』ショウタの頬に手を伸ばすと、ショウタはその手をギュッと握った。

『うん。だって仕方ないだろ?ユキちゃんを失うかもしれないって思ったら、怖くて』

『…って、言って?』

『え?』

『“ユキ”って、言って?』

『…ユキ…』

『ショウ…っ…』ショウタの唇がユキの唇を塞いだ。軽く一度、そしてお互いの温もりを確かめ合うように何度も。それから見つめ合い、優しく微笑んだ。


『…ねぇ、ナギサさん遅くない?』

ユキが呟く。

『本当だ。どこまでお医者さん呼びに行ってるんだか』

二人はフフフと笑った。

ふと気付くとショウタが握ったユキの手は、いつの間にか離れていた。だが、どちらともなく、また手を繋いだ。こうして何度も手を繋ぎ直せばいいのだと、二人はそう思った。





数ヶ月後、ユキは刑務所の面会室へと通された。部屋の真ん中に有るアクリル版を見て、一瞬、ドラマで見るのと同じだ!と興奮した。

だが、アクリル版の向こう側からサトルも同じように部屋に入ってきたのを見て、気持ちを引き締めた。

『久しぶりね。居心地はどう?』

『最低だよ。毎日が地獄さ』

『そう。じゃあ私の気持ちもわかってくれた?』

『わからんなあ。僕は毎日殴られているわけじゃないんだから』

『…貴方は何も変わっていないのね』

『そう言うお前はどうなんだ』

サトルは椅子に深く腰を掛けた。

『独り身に戻った気分はどうだ?』

そう、先日ユキとサトルの離婚が成立したのだ。

『最高よ。毎日が天国だわ』

フッとサトルが笑った。

『ところで、何の用だ?こんな話をしに来たわけではないだろう?』

『ええ、貴方にいくつか聞きたい事があるの』

『何だ?』

『あの時、私が自殺しようとしていた日、もしも死のうとしている事に気付けなかったら、もしも貴方が来るのが遅れて、引き留める前に私が死んでしまったら、どうするつもりだったの?』

『その時はその時さ。縁が無かったと諦めるだけだよ』

『そんな…。人殺しまでしておいて縁が無かったで済ませるなんて…』

『他に質問は?』

サトルは淡々としている。

『それは…、貴方に愛があったのかどうかよ。私の事を愛していたの?』

『愛か…』ふとサトルは寂しそうな表情を浮かべる。ユキはその意外な顔に驚いた。

『愛って何だろうな。教えてくれ。お前にはわかるのか?』

ユキは少し考えてから口を開いた。

『それが正解かどうかはわからないけど、相手の事を想うと胸が苦しくなったり、守りたくなったり、幸せにしてあげたいと思うのが愛なんだと思うわ』

『そうか…。僕はただ、お前のような美人をモノにしたかっただけなのかもしれないな』

『そう…。よくわかったわ』

何となくは、そうだろうなと思っていた。予想通りの答えだったので、驚きはしなかった。

『もう二度と貴方と会う事はないわね。さようなら』

と帰り支度を始めた時、サトルが『待ってくれ』と呟いた。

『話を、聞いてほしいんだ…』また寂しそうな表情をする。

『何よ』

『失いたくないと思うのは愛か?』

『…はい?』サトルの言ってる事がよくわからなかった。

すると、サトルはポツリポツリと語り始めた。





『僕は裕福な家庭で育った。大きな家に住んでいて、きっと羨む人のほうが多かっただろう。でも僕の親は忙しい人で、家に帰って来ない日のほうが多かった…。家には家政婦が何人かいてね、曜日毎に来る人が決まっていた。僕は月曜と火曜に来る家政婦さんが一番好きだった。でも、相談事があっても次はまた月曜まで待たなければならない。そうすると段々と相談するのが億劫になってね。僕は何でも一人で解決するようになった。それを周りは偉いと褒めたが、僕はただ虚しいだけだった…』

ユキは驚いた。話の内容だけじゃない。サトルがこんなに長く喋っているのを初めて聞いた。


『僕が周りと違うと感じ始めたのは高校生の時でね、周りの人間が恋人を作り幸せそうにしているのを見ても、羨ましいとは全く思わなかった。こんな僕でも周りに勧められるままに女の子と付き合ったことがある。でも、僕にはわからなかった。何を見て他人を好きになるのか、何がよくて他人と付き合うのか、何が愛なのか…』

『それは、きっと親からの愛を知らずに育ったからね』

サトルはゆっくりと頷いた。

『だから、その女の子の事はすぐに捨てた。僕は一生独り身で生きていくのだと思った』

『それなのに、どうして結婚を?』

『いつ頃からか、周りが結婚したり子どもができたりし始めた。一切羨ましいとは思わなかったが、ただ、独身でいる人間よりも、妻子を持っている人間のほうが出世がしやすいと聞いたんだ。だから僕も結婚をしようと思った』

『出世のため…』

『でもどのように相手を選べばいいのかがわからない。そんな時、君を初めて見たんだ』


ユキを初めて見たのは、雨の日の夕方だった。傘を差し会社を出る人たちの中で、サトルは雨宿りをしていた。傘を忘れたのではなく、誰かに盗られたのだ。その事に苛立つサトルだったが、ある光景を目の当たりにして一気に怒りは消え去った。

雨の中、小学生くらいの女の子が傘も差さずに走ってきた。すると突然目の前でその子は足を滑らせ転んでしまった。

見てみぬふりをする大人が多い中、会社の軒下から一人の女性の飛び出していった。その女性は女の子に駆け寄ると『大丈夫?』と声をかけ、起こしてあげたのだ。女の子は泣き出す。膝からは血が出ていた。

『大変!歩ける?』と言うと、女性は女の子を連れて会社の中へと戻っていった。

サトルは驚いた。自分が濡れる事も気にしないで女の子を助けるなんて、と。それもサトルは、女性は雨に濡れる事を毛嫌いするものだと勝手に思い込んでいた。

数分後、女性は女の子を連れて会社から出てきた。どこかで手当てをしてきたらしい。女の子の膝には大きめの絆創膏が貼ってあった。

女性は『これ、使っていいよ』と女の子に傘を差し出した。『私はもう一つ持ってるから大丈夫だよ』と。

『ありがとう!』と傘を貰い帰って行く女の子。

だが女性のほうは、“もう一つ持っている”と言ったのは嘘で、そのまま雨に濡れながら帰って行った。

サトルは驚きっぱなしだった。世の中にはこんなにも心の綺麗な女がいるものなのかと。

サトルはその女性の事を調べてみた。名はユキ。結婚を前提とした恋人がいる事もわかった。


『僕は、期待していたのかもしれない。君を手に入れたら、何かが変わるかもしれないって。こんな僕でも、人を愛せるかもしれないって…』

『でも、結果は違ったのね』

『いや…』

『えっ?』

『わからない。僕は会社をクビになった。例えここから出られても、元通りの生活なんかできない。でも、仕事なんかどうでもいい。今、僕は苦しいんだ。何故かわからない。何か大事なものを失くした気がする。何か、大事な何かを、自らの手で壊してしまったような気がする…』

ユキは息をのんだ。冷徹だと思っていたサトルが、泣いている。

『それが何かは私にはわからないわ。でも、一つだけ言わせて。何もかも、もう手遅れなのよ』

少し手厳しいかもしれないと思った。だがサトルに掛けるべき言葉は他には見付からなかった。


サトルが刑務所内で首を吊ったという報せを聞いたのは、その二日後だった。





季節は巡り、満開の桜が見頃を迎えていた。

ユキとショウタは、手を繋いだままナギサの店を訪れた。

『いらっしゃーい…』二人を見るなりナギサは外方向いた。

『ナギサさん聞いてよ!』

『嫌よ』

『何でー?』ショウタとナギサのやり取りにユキはクスッと笑った。

『あのねぇ、私は幸せそうなバカップルが大嫌いなの。あんたたちは報われないカップルだと思ってたから応援してやったけど、今はもう興味なし!はい帰った帰った!』

と憎まれ口を叩きながらもナギサが手際よくコーヒーの準備をしている事を、二人はわかっている。

ショウタはユキの手を引いて、カウンターではなく二人掛けのソファのある席に座った。

『…あらっ、そっちに座るの?』

寄り添うように座っている二人を見て不機嫌そうな顔をするナギサ。

すると『ああ、もう!』とユキがいきなり立ち上がり、いつものカウンターの席に座り直した。

『ええー…』と不満そうに唇を尖らせながらショウタもカウンターの隣の席に座った。

『ふふっ、ショウタくんは尻に敷かれてそうね』

そこでやっとナギサが笑う。

『私は元々そんなに人とベタベタ引っ付くの好きじゃないんです。でもショウタったら、いつもこう。本当に子犬みたい』

『そんな俺とこれから一緒に暮らしていく事になるわけだけど、不満ならやめようか?』

『別に不満とは言ってないけど…』

『ちょ、ちょっと!一緒に暮らすって?じゃあ…』

驚くナギサに、二人は左手にキラリと光る指輪を見せ付けた。

『あら、おめでとう…』ナギサは嬉しいような、少し寂しいような表情を浮かべた。

『あ、でも俺が一番好きなのはナギサさんだよ!』

『はっ!?バカじゃないの?』

『嬉しいでしょ?』

『あんたみたいな小僧に言われても嬉しくないわよ!』

プッとユキが吹き出した。するとショウタとナギサも釣られて笑った。

これからは人目を気にせずとも好きな時に店に来られる。でも、やはり三人だけの空間が居心地がいい。またいつものように、この時間に来て皆と笑い合いたいとユキは思った。





そして、二人は手を繋ぎ、いつもの公園の中を通り帰っていた。

『ねえユキ、今日はどうしてコーヒー飲まなかったの?』

『うん、ちょっと…』ユキが言いづらそうにしているのでショウタは話題を変えた。

『あのさ、実はナギサさんに言わなかった事があるんだけどさ』

『何?』

『俺、受かったんだ!今度は映画。しかも主人公の友達役で、台詞の量も前回の舞台とは段違いだよ』

『凄いじゃない!大出世ね』

『俺がスターになる日も近いぞ!』

アハハと笑い合った。

『でも、ちょっと心配ね…』

と呟くユキ。

『ん?どうしたの?』

『ううん、大丈夫。実は私もナギサさんに言わなかった事があるの』

とお腹を擦ってみせた。

『え、ええっ!本当に!?』

ショウタは飛び跳ねて喜び、その姿にユキは安心して微笑んだ。

『ショウタは、男の子と女の子だったらどっちがいい?私は…っ!』

言い切る前にショウタはユキを抱き締めた。力強く、そして優しく。

『撮影はみんな都内でやるみたいだから大丈夫。何かあったらすぐ帰るよ。ユキを不安にさせるような事は絶対にしない。俺、必ずユキを、家族みんなを幸せにするから』

『うん、信じてる』

ショウタは少しだけ体を離し、一点の曇りもない眼差しでユキの目を真っ直ぐに見つめた。

『愛してる』

ユキの頬を涙が伝う。

『私も、愛してるわ』

桜の香りがふわりと二人を包み込んだ。まるで祝福しているかのように花弁たちが優しく舞い踊る。そんな美しい午後の夕陽を浴びて長く伸びた二つの影が、ゆっくりと一つに繋がった。




〈終〉

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