前編
人間の生命が具現化した異元の世界、異空。
そこに湧現する、生命の負の側面が実態をとった存在である幻魔衆は実際に人間が住まう世界=現界への侵出を企てていた。生命の本体である人間そのものを乗っ取ることによって現界を滅ぼし、全てを無に帰そうとしたのである。
これを阻止せんと、人間生命本来の働きを力の源とする具現術・命術の使い手ら=秘創の化身が一人、また一人と集い、幻魔衆に対抗を開始した。一進一退の攻防が続くも、最強の存在である双転生の化身・浅香涼輔がもっとも遅れてやってきた結果、幻魔衆は次第に追い詰められていくこととなる。
繰り返される死闘の中で、対をなす双転生である涼輔と美菜は次第にその距離を縮め、やがて二人は自然に友人以上の仲になる。周囲もそれを歓迎し、楽観的な空気さえ生まれてきた。
が、彼等の前に現れた最後の幻魔とは、一年前に忽然と姿を消した美菜の恋人・勇一であった。涼輔達を圧倒した勇一は一人残った美菜に、自分と一緒に来いと誘いをかける。美菜は自分の前から黙って消えた上に幻魔という正体の勇一に心を許すつもりはなかったが、他の仲間や涼輔を救うために、勇一と共に行こうとする。
それを止めるべく、最後の力を振り絞って立ち向かう涼輔。そうして、幻魔・勇一を何とか倒すことに成功するものの、事態を止められなかった自らの不甲斐なさを悟り、そのまま行方をくらましてしまう。
やむを得なかったとはいえ、結果として涼輔や皆を裏切ってしまった自分に嫌気がさした美菜は、部屋に引きこもってしまう。恵や希香がどう宥めても美菜は無気力になったまま動かない。やがて一学期も終わり、夏休みを迎える。
幻魔衆が全て姿を消したため、気楽だといって公司や咲貴らははしゃぐが、相変わらず美菜は自室にこもって寝たり起きたりを繰り返し、決して外に出ようとはしなかった。
恵はせめて姉の気分転換になればと、遠くの親戚の家にしばらく行こうと提案する。姉を思う懸命な恵の訴えに、美菜もようやく重い腰を上げる。
二人が訪れたのは、四国で果樹園を営む祖父母の家だった。間もなく収穫時期を迎えるということで、広大な果樹園を有する祖父母は大忙しだったが、美菜と恵の来訪をこの上なく喜ぶ。恵は物珍しさもあって祖父母の作業を手伝うが、美菜はやはり家の中でごろごろして過ごしていた。
が、叔母の何気ない一言がきっかけで、気晴らしのために散歩に出かけていき、途中で大荷物を抱えた老婆と出会う。
あまりに気の毒なので老婆の自宅まで手伝ってやるも、家はずっと山奥にあった。その夜は泊めてもらって次の日に帰ろうとすると大雨に見舞われる。無理に辞去した美菜はぬかるみで足をくじいて動けなくなってしまうが、幸い、何事かを予感して探しに来た老婆に助けられた。
手当てを受けつつ、老婆が語る話に耳を傾ける美菜。
「人はねぇ、ありのままを大切にしなくちゃいけないのよ。どんなに飾ってみても、飾りは古びていくし、いつかとれてなくなってしまう。最後に残るのはありのままの自分だけなのよ。だから、自分磨きは大切だと思うてるの。どれだけ歳をとろうとね」
豊富な人生経験に裏打ちされた老婆の、率直な思いのこもった一言一言が、美菜の胸を打った。
自分はいったい、何を見ていたのだろう? どこへ向かおうとしていたのだろう? 何もかもわかった気になっていただけだったのではないか?
数日老婆の家に厄介になりながら、自問自答を繰り返す。
やがて美菜は、広大な夜空を眺めながらふと考える。
自分もまた、この自然、いや大宇宙の一部に過ぎない。自分だけが特別などということはなく、どれだけ虚栄をはろうとも、この自然の大きさに比べればそんなものはどれほどの価値もない。
老婆が教えてくれた、ありのままの飾らない自分であり続けること。
それが人として本当に大事なことであり、自分を偽ったりせずありのままの自分を見失わなければ、決して生命悪なんかに負けることなどないはず――。
(何を迷っていたんだろう? 私は私のままでいいんだよね。みんなと、涼君のところへ帰ろう)
長い迷いから立ち直った美菜。
すっかり明るさを取り戻し、以前よりもずっと穏やかになった姉の姿に、恵は喜ぶ。
そんな折、ついに命魔が出現する。
幻魔衆よりも強大な力をもつ命魔の前に公司達は苦戦を強いられるが、双転生としての力に目覚めた美菜は仲間達を守りながら命魔と互角にわたり合い、やがて以前のような仲間意識が取り戻されていく。しかし異空はとうとう現界に浸食を始め、まずは時間の大流を止めてしまう。美菜は慌てることなく咲貴や公司らを励ましつつ、涼輔が戻る日を待ち続ける。
一方、涼輔は故郷の北海道富良野に帰り、毎日祖父と共に農作業に勤しんだり野山をぶらついたりして過ごしていた。学校の途中で戻ってきた彼を祖母は心配するが、祖父は何も言わない。
自問自答を繰り返しつつ、なかなか自分に対する答えを見つけ出せない涼輔。仲間を守りきれず、そして美菜に辛い思いをさせてしまった自責の念が、絶えず彼を苦しめる。
苛立ち、落ち込む涼輔だったが、兄と慕う地元の青年・幸雄が
「馬鹿だなぁ。この世の中に、失敗しないヤツなんているかよ? まあ、時々いるかもしれないが、いたとしたら、それはただのナマケモノ、だ。人間、何かをしようとするから失敗するんだ。ちゃんとやってる証拠だと思えばいい」
ケラケラ笑ってそう励ましてくれた。
長く抱えていたモヤモヤを一瞬で吹き飛ばしてくれた幸雄に感謝しつつも、まだ心のどこかが割り切れていない涼輔。あの日、むざむざと美菜を勇一の元へ行かせてしまったことをなおも引きずっているのだった。
どうすれば、大切な人を、仲間たちを守り切れるのか。
その疑問に対する答えびた見解をくれたのは、またしても幸雄だった。
「そりゃあ涼、そういうのを傲慢、っていうんだろうなァ」
「傲慢? どうしてさ?」
「個人の心意気としてはいいと思う。でも、自分がそれをできる人間だなんて思いこんだら間違っているよ。他人を徹頭徹尾守り切れる人間なんて、いるわきゃない。自分ひとり守るのだって大変なんだぜ?」
いまひとつ、ピンときていない涼輔の額をちょんとつつきつつ、幸雄は笑って
「俺達にできることは、誰かを守りたいって、強く思うこと、そして行動すること。だろ? 大切な人を守れる状態がいつもあるワケじゃない。思って、行動しているときだけが、大切な人を守れるんだ」
幸雄の言葉には、何の澱みも躊躇いもない。
涼輔は、頭をガツンと殴られたような気がした。秘創の力を受けて幻魔衆と戦い続けるなかで、少しは自分にそれができているのではないかと思ったりしたこともあったからだ。しかし勇一にいったん敗れ去ったことで自信を喪失していたのだが――幸雄の表現を借りれば、それは単に「傲慢」でしかなかったのである。美菜や仲間達のために必死になっているその瞬間だけが重要なのであって、こうして独りで不貞腐れている今の自分がみんなを守れているはずがないのだ。
「……兄さん」
「ん?」
「愛してる」
不気味な冗談はともかくとして、涼輔のなかで何かが、音を立てて大きく動いていた。
それからも思索を重ねていたところへ、ある晩突如命魔の襲撃を受けた涼輔。異空にただならぬ事態が起こりつつあることを予感する。
命魔は幻魔衆とは比較にならないほど強く、涼輔は押されかける。
しかし、彼はどこまでも落ち着いていた。
(俺が腐っていてどうするよ。みんな、俺を助けてくれたじゃないか。これ以上、迷惑なんかかけちゃいけないんだ。みんなや、美菜ちゃんと一緒に、もう一度、俺は――)
そう心を決めた瞬間から、涼輔は一変した。
命魔をあっという間に蹴散らすと、すぐに皆のもとへ戻ることにした。
かくして彼が帰り着いた時、皆と命魔の激闘の最中であった。
傷ついて倒れた仲間を庇って一人死力を振るう美菜。が、止め処ない命魔の攻撃の前に、彼女もまた絶体絶命の危機に陥る。
倒れかけた美菜を、そっと後ろから支える涼輔。完全に自分を取り戻した涼輔の底知れない力は、無数の命魔を相手にすることもなくあっけなく打ち破る。
再会した涼輔と美菜は、やがて微笑み合い、お互いに強くなって帰ってきたことを確認する。
そして、再生した二人と、仲間たちの本当の戦いが始まった。
――波乱に富んだ夏休みが終わって、一月あまり経ったある日のこと。
不思議な夢だった。
白い天井、白い壁、白いベッド。窓の外にはまぶしいくらいの青空が広がり、白い部屋の中をほんのりと水色に染めている。
遠くで赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
ふと、黄色い液体が一滴、また一滴とゆっくり落ちていくのが見えた。
そしてベッドの傍から何度も何度も必死にこちらへ呼びかけている老いた夫婦――妻は泣きじゃくり、夫は沈痛な面持ちで何事かを話しかけているのだが、それが何を言っているのかまるで聞こえない。
いったいどういう状況なのか、まるでわからない。夢ゆえに視覚と、そして赤ちゃんの声を聞く聴覚だけが生きていて、同じ光景をいつまでも眺めているだけである。
ただ、何度目かに老夫婦へ目線を転じた瞬間、それははっきりと、堰を切ったように自分の中へと流れ込んできた。
この老夫婦を知っている。どころではない、育ての親ではないか。
見れば大分齢を重ねているが、それでもどこか若く、二人とも白髪も皺も今のようではない。十数年前の姿であることは確かであった。
なぜ彼らは、自分の見知らぬ部屋で嘆き続けているのか。誰のために嘆いているのか。
否、今自分が借りているこの視覚の主はいったい誰だというのか。
が、自分の意志はそのシチュエーションへ何ら参加することなく、やがてシャッターが降りるようにすうっと目の前が暗くなり、夢はそこで途切れた。
暗くなったあとも、どこかで赤ちゃんの泣き声が聞こえたような気がした。
「――涼君? 涼君てば、遅刻しちゃうよ」
はっと目を覚ますと、そこには心配そうな美菜の顔があった。
「おはよ。なんかうなされてみたいよ。嫌な夢でも観たの?」
「……」
上体を起こして何か答えようとしたが、言葉が出てこない。口の中がからからに乾いていた。汗でTシャツが湿っている。
彼が起きたのを見て、美菜はルームハンガーから制服を持ってきた。涼輔は放っておくと気がのらない日は黙って学校を休んだりするので、朝美菜が彼の部屋を訪れるというのが、いつの頃からか二人の習慣になっていた。
転移の術を使えるようになった美菜の実力行使という訳である。
「顔洗って歯を磨いたら? もう八時過ぎてるのよ」
無言で固まっている彼を見て、美菜は
「なんか顔色悪いよ。……先に行ってようか? 少し落ち着いてからにした方が……」
「いや。大丈夫だ、ごめん。何でもないんだ」
長く伸びた前髪の下の表情が、無理に微笑んでいた。まだ続く動揺を隠すことができない。背中が大きく呼吸している。
懸命に脳裏のスクリーンをうち消そうとするのだが、容赦なくそれはコマ送りのように繰り返されていた。
白い壁、白い天井、点滴液の透明な黄色、そして忘れるはずのない老夫婦の顔。
聞こえるはずのないあの赤ちゃんの泣き声が、ふとすると幻覚のように耳の奥で今も響いてくるようである。顔も姿も現れてはこなかったのに、その赤ちゃんのつけられたばかりの名前を、涼輔は一瞬で悟っていた。
十七年前。あれは十七年前のことなのだ。
「ねぇ……涼君?」
美菜の声に涼輔は我に返った。
「あ、ああ、ごめん。昔の夢だったんだ。あんまりにもリアルだったから、ちょっと気持ち悪くてね」
ほぼ正直なところだった。口に出してみると、少しは冷静になれたような気がする。
美菜も少し安心した表情になって、
「ならいいのよ。起こしたげようと思ってきてみたら、涼君、すごく苦しそうな顔してたの。いつもそんなことないから……ちょっと心配だったの」
涼輔はぎょっとした。無意識でこそあれ、夢の中の本人と同じ感覚を味わっていたらしい。
が、表情に出さない男だから、その驚きは美菜には伝わらなかった。
「……そっか。あんまりそんなつもりもなかったんだが」
やや意味のないことを呟きながら、ふと机上の時計に目をやった。
八時を少し回っている。
普通に登校すれば遅刻するだろう。学校まではその位の距離がある。
「遅刻したらまずい。すぐ用意するよ」
言いながらベッドから降りると、着替えを始めた。
どうやらいつもに戻ったらしい彼に安心した美菜も一緒に立ち上がり、
「じゃ、お茶入れてあげる。空きっ腹だと大変よ。今日は体育あるし」
そう言って彼女は狭い簡素なキッチンのコンロでポットを火にかけた。
制服に腕を通しつつ、ふと美菜の後ろ姿に目をやった。
いつかテレビで観た、子供の世話をする朝の母親の姿を思い出していた。
連携して楽々と命魔を撃退する一同。
「最近、どうも楽勝って感じがするんだけど、もしかして強くなったのかな?」
「それはどうだろう? 命魔が手ェ抜いてるんじゃないの?」
「……みんなが一つにまとまってるのよ。だから強いんじゃない」
「こんなに絶好調だとあとが怖いかも。今に何か、とんでもないコトでも起こるんじゃない?」
「……それはないな。仲間割れでもしない限り」
何気なくそう答えながらふと、誰よりも自分が大丈夫であり続けることが出来るのだろうかと、涼輔は思った。
理由はない。
全く何気なく、そう思った。
(繰り返し病室の夢を見る涼輔)
何度目かの朝、起こしに来た美菜が不審に思う。
「どうかしたの? 悪い夢でも見た?」
「……いや、悪いという程の夢でもないんだが」
だが、この落ち着かなさは一体どういうことなのか。
「そう。涼君、疲れてるのかなぁと思って。このところ、みんなが安心していられるのも、涼君が戻ってきてくれてからだと思うの。その分、あれこれといつも気を使ってるんじゃないかって、ちょっと心配してたの」
こういう美菜の優しさに、彼は限りない重みを感じるようになっている。といっても、二人が本当に平穏を取り戻してからまだ幾月も経っていないから、物事に無感動なこの男が短い間にそう思うようになったのは、よほどのことであろう。
実際、美菜はあの忌まわしい戦いの時から比べれば、別人かと思われるほどに変化していた。
彼女のエゴというものがどんな時でも微塵も展開されることがなく、いつも静かに穏やかに皆を見守っている。
幸雄から、絵葉書が届いていた。
裏側の写真には、彼と妻の奈々と、そして彼女の腕の中に、誕生したばかりの小さな生命がいる。
『美咲と名付けました。よろしくお願いします』
母の胸に抱かれ、穏やかに眠っている赤ちゃん。
涼輔は写真の中の、その子の顔をじっと見つめている。この前戻った時に、もうすぐ生まれるということは聞いていた。
(兄さんも、親父になったか……)
やや呆然とした気持ちが、なくもない。
一緒に農作業をするかたわら、幸雄が色々と語り、励ましてくれた事が思い出されてならなかった。何だが、ずいぶんと以前のことのように感じられる。
その幸雄にもう、守るべき家族がある。
近しい人が遠くへ離れていってしまったような、復旧することのない寂しさが、涼輔の心のどこかにある。
だが、今は自分にも守るべき人がいて、信頼すべき仲間達がいる。
いつまでも、幸雄に頼っていることはできない。むしろ、彼の一家の幸せこそを願ってやるべきであろう。大事な人ができた今だから、心からそう思えるのかも知れなかったが。
そう思い返すと、何となく可笑しみが湧いてきて、涼輔は小さく笑った。
彼に祝福の電話をいれようと思い、受話器を取り上げた。
「……」
が、そのまままた置いてしまった。
赤ちゃんが、美咲ちゃんが眠っているかもしれない、と思ったのである。
着替えもそこそこに、椅子にどっかと腰を下ろす涼輔。
ごそごそと机の引き出しを引っ掻き回すと、官製葉書を取り出した。
ボールペンを手にしたまましばらく考えていたが、やがて一気に書き始めた。脳裏に、故郷・富良野のどこまでも続く直線道路をだらだらと歩いている幸雄の姿がある。
『元気ですか。葉書、頂戴しました。本当におめでとうございます――』
祝いを述べながらも、途中に書き添えた。
『俺も元気でやっています。良い仲間達と、大事な人と一緒です』
「――ようやく、現界へ転移できるくらいまでになりました」
「そう。長い間、見ていてもらってありがとう」
「いいえ。命魔衆の流入から守ってくださって、私の方こそありがとうございます」
「でも、これからはもう、命魔衆の魔の手にもあなた達を晒してしまうことになります。不安な思いをさせてしまいますね――」
「確かに危険ですけど、それだけ双転や秘転の皆さんともすぐ行き来できる状態なのですから、そんなに不安になるようなことでもないですよ。……女天様も、やっと皆さんに会えるようになって嬉しいのではないですか?」
「それはそうなのですが、今の私には……何だか……」
「――でさぁ、そのコったら」
来未がさもおかしそうに話すのを、一同が聞いている。
昼休みの時間も、いつの頃からか皆が一緒に過ごすことが習慣になっていた。
が、決まってあれこれと喋るのは咲貴と来未である。美菜や希香、その他の者は自分から話題を展開するということもないから、ほとんど聞き役である。
涼輔も、その輪の中にいた。
かといって余り世の中のあれこれに興味を持つ方ではなかったから、どちらかといえばぼうっと聞き流しているというのが正確かもしれない。
その時、涼輔のポケットで携帯電話が震え始めた。伯母の早苗が、何かと連絡を取れるようにと、ほぼ一方的に買ってよこしたものである。仕方が無いので、いつも持ち歩いているのだった。
ディスプレイには、『富良野』の表示。祖母か祖父からである。
彼は着信ボタンを押しながら、すっと教室を出た。
「……もしもし」
「ああ、涼ちゃんかい? 婆ちゃんだけど」
聞きなれた祖母の声が聞こえてきた。
「今、お昼だったかい?」
「……うん」
「ちゃんと、ご飯は食べてるかい?」
「ああ」
そんなやりとりがあって、祖母は声のトーンを変えた。
「……あのね、もう少ししたら、またお墓参りするんだけど……涼ちゃん、今はそっちにいるしね。どうするかと思って、電話してみたんだけど」
そういえば、と涼輔は思い出した。
このところの日常が安定していて、かつての習慣が少しづつ薄れ掛けてきていたことに、彼は気付かされた。
一瞬躊躇ったが、祖父母の顔がちらりと脳裏に浮かんだ途端、彼は判断した。
「……ああ、行く。二、三日しかいられないと思うけど」
「そうかい、来れるかい。じゃあ、飛行機代、送るから――」
「いいよ。それくらいは、ちゃんとあるから」
また連絡する、と言って彼は電話をきった。
教室に戻ると、まだ来未の話は続いていた。
「……電話?」
美菜が尋ねた。
「ああ。富良野の婆ちゃんから」
そう答えながらふと、今度の帰省のことを美菜に伝えねばと思った。
「――北海道?」
下校の際、旅行会社に立ち寄りたいと告げた涼輔に、美菜が訊き返した。
あまりその気もないのだが、祖父母に申し訳がないような気がして、彼としてはやはりそれに従うしかなかった。
母の命日。毎年、彼と祖父母は墓参りに行っていた。
故郷富良野の町外れの墓地に、涼輔の母は静かに眠っている。彼が生まれてすぐにこの世を去っているから、もう十七年という歳月が経っている。祖父母にとってはわが子の命日だから、何より大切に思うのであろう。その気持ちは、涼輔にもわからないでもない。
ただ、彼にとっては顔も何も知らない人でしかなかった。どういう訳なのか、母親だったというその人の写真すら、彼が幼少を過ごした祖父母の家には残っていないのである。自分達の娘であるにも関わらず。
そのことを、祖父母は涼輔に説明したことは一度もない。彼が執拗に食い下がれば何事かを聞かされたのかも知れなかったが、自分を産んだという以外に何の接点もない人への関心など、涼輔はさほども持ち合わせなく育った。あるいは、寡黙で周囲の動向に流されない祖父の生き方に強く感銘されていたということもあったかも知れない。いつしか涼輔は、過ぎたことや自分に関連のないことには一向に目を向けない、祖父のそれに似た性格になっていた。
「墓参り、なんだ」
「お墓? この時期に?」
美菜が聞き返したのも無理はない。世間で墓参りといえば、盆か法事のときくらいであろう。十一月になって墓参りというのも、そうそう聞く話ではない。
二人は放課後の校舎の屋上に立っている。
十一月の秋風が肌に冷たい。ふと強い風が吹き抜けていき、美菜はその長い髪の毛をそっと片手で押さえた。
「うん。俺のね、母親だって、いう人の」
美菜は沈黙した。それ以上、口にして良い部分と悪い部分がある。彼女は恵のことが過去にあり、聡明な娘だからその機微は多少なりとも判っている。
そんな美菜の心情を酌むように、涼輔が続ける。
「俺が生まれて直ぐに病気で死んだらしい。だから、俺は母親だっていう人の何も知らないし、墓参りする強い理由もないんだ。……まぁ、じいちゃんとばあちゃんが大切にしているから仕方がないかな、くらいでさ」
「何もって……涼君、名前とか顔とかも知らないの?」
彼女は大真面目な顔である。
涼輔は笑い出した。
「はっはっは、まさかそこまで何も知らないって訳じゃないさ。……名前だけは知っている。雪子、っていう名前だったらしい。ただ……」
言いかけた涼輔の表情が消えた。
「写真、一枚も残ってないんだよな。自分たちの大事な娘だっていうのに」
「……まぁ。一枚も?」
不審そうに聞き返す美菜。
そうであろう。普通、大切な我が子の思い出として、写真や遺品の類は大切に保管されてしかるべき物であるといっていい。
涼輔はじっと遠く広がる町の景を見つめている。
「それで俺、一度だけ訊いてみたことがある。何で写真が残ってないんだって。……そうしたらばあちゃん、苦しそうに目を逸らして『あんまりにも辛くてねぇ』って、それだけ言った。よくわからなかったけど、辛いって言うからそれ以上訊けなかった」
美菜はふと、自分の両親のことを思い出していた。
彼女の次の子を、病気で亡くしている。その当時美菜はまだ幼く、妹が喪われたことよりも両親が嘆き悲しんでいるのが無性に悲しかった記憶がある。いつもにこにことしている両親が、大粒の涙を流して号泣する姿は、今でもおぼろげながら覚えている。確かに妹を喪ったという事実は彼女にとっても辛く切ない。しかし、親にとっての悲しみというものは、それよりもずっと大きく深いものなのだろうか。言われてみると、美菜にもちょっと想像のつかないことであった。
そんな彼女と知らず気持ちが共有されていたのかどうか、涼輔が漠然とした疑問に結論を出すようにはっきりと言った。
「我が子を喪うっていうことは、そういうものなのかも知れない。俺は親になったりしていないからよくわからないし、わかろうとしても仕方がないさ」
「……そうね」
頷く美菜。その通りだと、心の底から思った。
階下で校内放送がかかっている。
生徒に下校を促す放送らしかった。少しして、前庭に出てくる生徒の数が増え始めた。空が次第に暮れていく。雲の流れが速かった。
「……そろそろ、帰ろうか。旅行会社、私も一緒に行っていい?」
「ああ。航空券買うだけだからすぐ終わるけど」
「いいのよ。旅行会社に行く機会なんて、滅多にないしね」
歩き出したところで、美菜がふと思い出したように言った。
「そうそう、咲貴ちゃん達がね、冬休みに入ったら泊りがけでスキーに行こうって言ってたのよ。ツアーのパンフレット、もらってきたらいいのよね?」
北国育ちの涼輔には、泊りがけでスキーに行くという習慣も思想もない。大体、北海道で降雪する地域には少なくとも市内に一つ以上スキー場があるから、泊りがけで出かけて行く必要などないのである。
涼輔がそのことを少し言うと
「涼君はいいわよね、スキーがいつでもできるところに住んでたんだもの。あたしとか恵なんか数えるくらいしかやったことないのよ。こっちは雪が降るところまで行かなくちゃ出来ないんだから。たまにはみんなでそういうのも楽しいじゃない。……そういうの、嫌い?」
ちょっとすねたように美菜が尋ねてきた。
考えてみれば彼が来てから半年と少し、その間幻魔衆や命魔衆との戦いに明け暮れてばかりいた。誰もが生き延びることに必死で、皆で何か一つのことを楽しもうとする余裕など全くなかったように思われる。
彼や美菜、それに各人が少しづつ力をつけてきてようやく命魔衆らと対等に戦えるようになった今、必要なのは皆が心を一つに合わせるためのスキンシップの場なのかも知れなかった。
涼輔自身としても、もう少し皆の和に溶け込む努力の必要性を思わなくはない。
「……そうだな。それもいいかな」
「でしょ? 期末テスト終わったらのお楽しみ、ね」
(お楽しみ、か)
特に意味があった訳ではない。が、何となく無意識に美菜の言葉を反芻している涼輔がいた。
脳裏に、寒くて寂しい故郷の墓地の風景がある。
「ねぇ涼君、今日、晩ごはん食べに来ない?」
美菜がにこにこしながら声をかけてきた。
「晩ごはん?」
「そ。今日ね、久しぶりにパパが早く帰って来れそうなんだって。それでたまたま、今日がパパとママが婚約した記念日みたいなの。色々お料理作るから、涼君も一緒にって、ママから電話があったのよ」
「ふーん。それはめでたい日だ」
頷いてみせる涼輔。表情と反応に乏しい男だから、これでも精一杯そう思っているのである。
ちらりと、幸雄の顔が浮かんだ。
奈々と結婚が決まった次の日、真っ先に涼輔の元へやってきて嬉しそうに、というより興奮しながらプロポーズの瞬間の話をとうとうとしていたことを思い出した。そういえば、興奮しすぎてヘッドロックをかけられたような記憶がある。
自分の経験ではないから感覚というよりは気持ちの問題として、涼輔はそれがいかに大切な日であるかを理解しているつもりであり、また尊重したいと思う。とはいえ、家族だけで過ごすべき大切な食卓に、他人の自分が行っていいものなのだろうか。
そんなことを思うともなしに思っていると、美菜は
「パパもママも、とっても涼君のことが好きみたいなの。何だか、家族の一員みたいなんだって。それに、大切な日なんだから、大切な人が一人でも多くいてくれると嬉しいと思うの」
と言ってから、ちょっとだけ小首を傾げてみせた。
「来てくれる?」
「ああ。んじゃ、お邪魔するよ」
そんなやりとりがあって、晩の予定ができた。
放課後、美菜は事務手続きがあって多少学校に残らなければならなくなった。
「一緒に帰ろうと思ってたのに、ごめんね。終わったら、後で行くね。もしなんだったら、先にうちに来ていてもいいのよ? 恵もママも、まだ帰ってこないけど」
彼女はそう言ってくれたが、いくら何でも、留守中の女の子の家に先に上がりこむ訳にはいかない。
「いや、図書館で明後日のグループ発表のやつ、ちょっと調べて行く。それで部屋に戻って着替えたら、丁度いい頃だと思うよ」
「うん。アジアの方はあたしが調べておくね。日本の方、お願いね」
じゃ後でね、と彼女は嬉しそうにしながら、身を翻して事務室の方へと駆け出して行った。
美菜と過ごす時間が多くなってから、日常の景色がびっくりするほどに明るく色彩が豊かになったと、涼輔は感じている。彼があんまりにも淡白なせいで、いつもあれこれと世話を焼いたり企画したりしてくれるのは美菜の方である。最近になって、それに対してやや申し訳なさを感じる気持ちも少しづつ生じてきてはいるのだが、この表現の人一倍下手くそな男は、それをどうともすることが出来ずに、何となくうやむやになってしまっている。
が、この男が変に気を利かせるようになれば、美菜が却ってびっくりしてしまい、戸惑うに違いない。変化に乏しい涼輔と、明るく活発であれこれと気の付く美菜。そういう凹凸の帳尻が、この二人は上手いこと合致しているのである。
そんなわけで、夕暮れの道をてくてくと歩いて、涼輔は市の図書館へとやってきた。最近になって改装された、割と立派で綺麗な建物である。
古い新聞記事を調べようとそのコーナーへ行ってみると、何と今は電子化されていて、あれだけ大量のスクラップブックが、代わりにパソコン1台になってしまっていた。この文明の利器というものに対して疎い涼輔でも、授業で学んでいるから多少はパソコンの操作ができる。
調べる中身は、車社会ということについてである。
車についてデータベースを検索してみると、車の製造メーカーについての動きとならんで、圧倒的に交通事故に関する記事が多かった。これも車社会の一つの現象といえるであろう。
無造作にマウスを動かしながら、自然と事故の記事ばかりを見てしまう。
無数の悲惨な事故が目に飛び込んでくるのを、涼輔は淡々と流し読みしている。
どれくらい眺めていたであろう。
最近の記事から次第に古いものになっていき、日付が十数年前のものになっていた。
ある一つの記事が画面に出てきた途端、彼のマウスをクリックする手が、ふと止まった。
『飲酒運転で暴走、3人死亡』
記事そのものは、余り大きくスペースを割かれてはいなかったが、飲酒運転というショッキングな内容のためか、写真が掲載されて詳しく状況が書かれている。男が泥酔した状態で車を運転していて対向車線に飛び出し、折からやってきた対向車と正面衝突、男とその助手席にいた女性、そして痛ましいことに対向車を運転していた若い男性の3名が即死したという。原因は調べるまでもなく飲酒して運転した男である。記事は、飲酒運転して罪もない他人の命を奪った男の氏名を詳らかにしている。
涼輔の目線は、その一点を捉えて動かない。
「山岡、重木……か」
この事故、この「重木」という名前に、涼輔は聞き覚えがあった。
かつていつだったか、一度だけ祖父母が彼に語っていたことがある。
「――酷い、事故だったんよ。お酒飲んですっかり訳もわからないような状態で車運転してねぇ。反対側に飛び出して、向こうの車とぶつかって……こっちだけならまだしも、なんも悪くないあっちの車の人まで巻き込んで死なせてしまった。まだまだ将来のある、若い男の人だったのよ。後で聞いたら、もう少しで結婚するっていって、楽しみにしてたみたいだった、って。相手の女の人、事故の報せを聞いてから、すっかり立ち上がれなくなって、病院にまで入ってしまった。……何だって、最後の最後まで人様に迷惑かけて、人様の命奪うようなことして、どうするつもりだったんだかねぇ――」
彼の、実の父親の話であった。
彼の記憶では、確か母の墓参りの帰りだったように思われる。
ずっと何も語られることのなかった父親不在の理由について、多少詳しく聞いたのは、それが初めてであった。祖母が黙り込んた後、ぽつりと祖父が口を開いた。
「……本当に、飲んだくれてはお母さんに散々迷惑ばかりかけてな。涼が授かったというのに、事もあろうに暴力を振るって、出て行ってしまった。その後どこへ行ったかもわからんうちに、事故起こして死んでしまった」
自分達の大切な娘であるところの涼輔の母親をいいだけ苦しめた挙げ句に非業の死を遂げたという、その救いようのない、行き場のない暗い悲しみ。だが、その時の涼輔にとって知っておくべき話であったかどうか。人並みに両親のいない寂しさを懸命に押し潰す事で自分を守り抜いてきた彼にしてみれば、もはやどうでもよいといって良かった。生前の姿がどうであれ、何一つ彼の支えにも励ましにもなりはしない。ふてくされたような、開き直ったような、今の彼の根本の根本にあるのは、そういうものであるといって良かった。
ただ、そんなやるせない涼輔の心情を、寡黙な祖父母は口に出さねど、相当に察していた形跡がある。
何故なら、その先にも後にも、彼の両親の話は彼等から一度もされることがなかったからである。大切な孫の気持ちを尊重する余り、同じようにかけがえのなかった娘のことを封印するという行為には、どれだけの忍耐と覚悟を要したであろう? それは涼輔には想像のつくことではない。しかしごく最近になって、ようやく涼輔は祖父母の思いというものにまで気をかけることができるようになった。その背景には、美菜やその他様々な人の影響があるのだが。
だからこそ、故郷を離れた今も、彼らの娘、もとい母親の墓参のために戻ろうというつもりになったのである。
その余りにも重過ぎる何事かに思いを馳せる様にぼんやりと画面を眺めていた涼輔。
彼は、記事の文章を反芻していた。
「……山岡、重木。山岡、山岡、やま……おか……? 重木、だと?」
涼輔の思考は、パッと現実に切り替わった。
眉をしかめながら、何度もその部分を読み返す涼輔。
「……これって、記者のミスか?」
死んだ実父の名前は「山岡重木」と、記事に書いてある。
祖父母の名前、山岡厳、セツ。
これは一体、どういうことなのか。
祖父母は、確かに彼に告げた。自分の娘=彼の母親である、と。だが、この記事に間違いがないとすればどうであろう。祖父母の子供は涼輔の母親ではなく、実は父親ということになりはすまいか。
涼輔はもちろん、死んだ父親の名前が「重木」であることは承知していた。
そして、今彼が名乗っているところの「浅香」がその姓であると認識していたのは、当然の理屈である。祖父母も、そう彼に教えた。父親は道を踏み誤ったまま亡くなったが、涼は正しく真っ直ぐに生きてその名前を輝かせるように、と、最終的に孤児になってしまった、生まれて間もない彼の姓は「浅香」とされた。
そう、何の疑いもなく思い込んで生きてきた。
北海道へ行く前。
何気なく図書館のインターネットで古い新聞記事を眺めているうち、厳とセツの子供は実は自分の母親ではなく、父親ではなかったのかという疑問を抱く。
(父親の事故死と思われる記事。山岡重木名で載っていた。父親が事故死した件は、祖父母から聞かされて知っていた涼輔。その悲惨な事故の事実について祖父母は、彼に正直なところをかつて語っていたからである(自分の息子の素行を嘆き諦めていたとはいえ、子供を不憫に思う情がそれを言わせた)。浅香姓は父方で、生まれた涼輔にそのまま名乗らせたと祖父母から聞かされていた。
どうして父親が山岡姓になっていて、それを継いだはずの自分が浅香姓になっていることに不審を抱く)
夕暮れ時の古びた小さな部屋に、二人の男女がいた。
男の方が何やら一方的に怒鳴り散らし、それを黙って悲しそうに聞いている女性。情景だけはやたらと明瞭に見えるのだが、彼らが何を話しているのかがまったく聞こえてこない。
一瞬だけ見えた彼女の容貌はまだ大分若く、二十歳を過ぎて間もないように思われる。だが男の方はどういう訳か常に胸から上が影となり、その顔立ちが全く判らない。ただ、やたらとがっしりした体格をもっていた。
やがて、男が何か一言口にした途端、それまで辛抱強く黙っていた女性がはっとして顔を上げた。身を乗り出し、男に向かって必死に何事かを訴えかけ始めた。
が、いきなり男は女性の横面を力任せに殴りつけた。
女性は横倒しに倒れ、うつ伏せになっている。彼女に向かって、再び男が罵声を浴びせ始めた。
そこへ、背後のドアが開き、もう一人女性が入ってきた。やたらと目に付く派手な色のスーツを着て、高そうなバッグを振り回している。美人といえば美人の容貌かも知れないが、かといって、倒れている女性のそれほどの気高さも優しさもなかった。教養のない野卑な笑いを浮かべて彼女を冷たく見下ろしている。
男はややしばらく怒鳴っていたが、そのうち後から来た女性と腕を組み、女性に唾を吐き掛けて部屋を出て行こうとした。が、もう一度倒れている女性の傍らに立つと、そのまま腹部を強く蹴り上げようとした。
急に、カメラでズームにしたように女性の腹部がアップになり――やや膨らみを帯びていた。明らかに、彼女は妊娠している。
「――いけない、止めろ!」
小さな生命がいる彼女の腹部が今まさに蹴り上げられようとした瞬間、涼輔ははっとして目覚めた。
「涼君……?」
傍で美菜が驚いた表情のまま固まっている。
「……美菜……ちゃん、か?」
「悪い夢でも見たの? すごくうなされてると思ったら、いきなり叫んだりして」
夢であるにしては、余りにリアルすぎていた。無意識のうちに、涼輔は思わず叫んでしまっていたらしい。
思い出すと、ぞっとするような光景だった。あの男は、本気で妊婦の腹部を蹴り上げたのか。夢であるにせよ、相当性質の悪い夢である。
動悸が治まらず、背中で大きく息をしている涼輔。横から、そっと美菜が覗き込んだ。
「……大丈夫? 落ち着くまであたし、家に戻っていようか?」
少し経つと、ようやく呼吸が落ち着いてきた。美菜と話す余裕を得た涼輔は
「……ごめん、驚かせてしまったかい?」
「ううん、大丈夫よ。それより涼君、ひどい汗……よほど大変な夢だったのね。いつも落ち着いている涼君が、こんなに呼吸乱すなんて……」
何と答えて良いのか、言葉が出てこない。というより、口に出すのも憚られる位に忌々しく、そして腹立たしい内容の夢だった。
ふと時計に目をやると、午前八時になろうとしている。
涼輔は、無言でベッドから立ち上がった。
「……やばい、すぐに行く用意するよ。もう八時だ」
「涼君、今日は土曜日だから、学校はお休みよ。朝ごはん作ったから、今日は一緒に食べられるかなと思って……。もう少し、休んでいたかった?」
「――土曜日?」
うまく動かない頭で反芻しながら、何気なく美菜に目を向けた。
セーターにスカート姿。なるほど、休日の格好をしている。
「……あ、ああ、そうか。そうだった」
休日の朝にまで押しかけてきた強引さを思ったのか、美菜は申し訳なさそうにしている。
「いや、ありがとう。シャワー浴びて、それからお邪魔する。変な夢だったから、ちょっと動揺したよ。嫌な夢だった」
「少し疲れているのよ、涼君。あんまり食べないから、栄養足りないのよ。ご飯なら、いつでも食べに来ていいんだから。……じゃあ、待ってるね」
笑顔になってすっと消える美菜。すっかり転移が板についている。
「……」
涼輔はシャツを脱ぎ捨てながら、先ほどの夢をゆっくりと回想している。
なぜあんな夢を見てしまったのか、理由がわからない。夢は、その人の脳にある情報がランダムに組み合わされ、あるいは特にインパクトの強いものが映像となって見るものであるという。ドラマも映画も全くといって良い位観ない涼輔には、ああいう画像もシチュエーションにも遭遇した記憶はない。そもそも、人が傷つけあうような内容の物語は何より大嫌いだった。
それよりも、まるで自分がその場にいるかのような、あの不気味な程の臨場感は一体何だったであろう。蹴られる瞬間の女性の苦痛が自分の腹部にまで伝わってくるようで、思い返すたびに背筋に冷たいものが流れていく。
なるべく思い出さないようにと、涼輔は自分がするべき動作に集中した。
Tシャツやら溜まっていた洗濯物を洗濯機に次々放り込み、始動スイッチを押す。
コインランドリーに通うくらいならと、親戚のおばが用意してくれたものである。
彼は狭いユニットバスの中でシャワーを使い始めた。
シャワーノズルを壁にかけたまま給湯栓をひねり、しばらく黙って頭から熱い湯を被り続けた。
考えたくもないのだが、目を閉じているとやはりあの夢が断片的にフラッシュバックしてくる。
ちらりと見えた悲しそうな女性の顔、顔がわからないにせよ強烈な悪意に満ちた男の存在、そして夢が途切れる寸前突如アップになった女性の膨らんだ腹部……。さらに印象に残っているのは、妊娠しているにしては余りに若いと思われる女性の年嵩であった。
幾度となくそれらが脳裏に繰り返されるうち、涼輔ははっとして目を開いた。
シャワーを止めた。
ありうべからざる想像だった。ふと、一つのシナリオとなって彼の中でつながりをもったのである。
(……まさか、な。そんなことがあってたまるか)
あくまでも、あれは夢なのである。しかも、彼が現実に遭遇したことも聞いたこともない、言ってみれば作り話でしかあり得ないようなシチュエーションである。
が、一つ一つがばらばらの点に過ぎないのに、どうかすると一筋の線となって彼の前に現れてくる。一見別々の点同士が、明らかに有機的なつながりを見せている。
それでも涼輔は、夢だと思った。
幾ら不可思議な世界に身を置いているとはいえ、夢までが彼等の何事かを束縛したというような事柄は一度だってない。全て覚醒した彼等の目前の現実としてしか存在しなかった。
仮に、それが現実につながりのあることであったとしても。
今とその先に続く未来しか彼らには与えられていない。そして、それらは涼輔達がその実力をもってのみ、切り開いていかなければならないのである。偶然や想像、願望や夢といったものが何一つ彼等の助けになどならないことは、涼輔自身が一番覚知している。
(……そういうことだ。妄想に捉われてちゃいけない)
再び、シャワーを浴びる涼輔。思い切ろうとすれば思い切ることのできる自分であるというささやかな自負はある。そして、いつまでも根拠のないことにこだわり続けるような執着癖など、彼にはなかった。
しかし、漠然とした言い知れぬ不安が、まだ心のどこかにある。
「見送りに行ってもいい? あたしも行きたいの」
出発の前の日、美菜が遠慮がちに口にしたその頼みを、涼輔は承諾した。
本当のところ、彼女も一緒に行きたいのではないかと涼輔は察していた。二人が再会して以来、これといって二人で外出したこともなかったからである。命魔の襲来もそれだけ頻繁に起こっていたという理由もあった。
しかし今回の北海道行きは涼輔のごくプライベートに関わる動機であることを知って、美菜がそれ以上踏み込むのを躊躇ったに違いなかった。見送りに行きたいというのが、せめてもの彼女の自己主張であったろう。
相変わらず愛想のない涼輔だが、かといって美菜を思う気持ちがない訳ではない。
例の希望だって、躊躇い続けてようやく口にしたことも、彼は何となく気がついていた。だから、彼は即答した。
「ああ。……空港、遠いけどな」
表現の下手くそな男だから、そういう程度のことしか言えない。
実を言えば、とりとめのない不安と倦怠感を抱えての帰郷になってしまい、出来れば美菜に同行してもらってずっと傍にいてもらいたい位、自分の気持ちが頼りなくなっていた。
具体的に何故かは判らなかった。ただ、今まで自分が知らされずにいた真実に対する関心と不安と恐れと確証のなさが、先の見えない闇となって涼輔の心にずっと重く圧し掛かってきていた。そして――今まで何の関心も持たずにいたつもりだった両親の存在。体感に近いリアルなまでのあの夢を見るようになってから、彼の胸中に何事かを波立たせずにはおかなかった。
とにかく、断片だけが見えて真実全体が何も見えていないことが、そして自分だけが恐らく真実を知らされていないであろうという不可解さが、こうも涼輔を暗くさせていた。
それは早暁、重大な何事かに発展するのではないかという予感がちらりとしたが、あくまでも彼自身の個人的な推測に過ぎない。
ともかくも、涼輔の短い返答は美菜を喜ばせた。
「いいのよ、帰りは多少ズルするから。……ねぇ、早めに行って、飛行機の見える喫茶店でお茶にしよ? この前恵と四国行ったとき、そういうお店があったのよ」
「うん。じゃ、そうするかね」
美菜の笑顔に、何となく救われたような気がした涼輔。
そうして出発の日、二人は一時間以上早く空港に着くようにした。
晴れ上がった秋の空が、とても高く蒼い。
空港は連休を行楽地で過ごそうとする人達で多少混んでいた。
まずチェックインを済ませて戻ってきた涼輔に、美菜が微笑みかけた。
「搭乗拒否、されなかった? 転移が出来る人は乗せられません、て」
「本当はね、それが楽でいいんだけど。さすがに北海道までの距離じゃあ」
美菜の力とシンクロすれば、それも可能であったろう。が、そのことを今の美菜の前で口にしてはいけない気がして、涼輔はそれだけに留めた。
二人は、出発ロビーからフロア二つ上にあるという喫茶店に入った。
滑走路が見える窓側の席はさすがに家族連れが占拠してしまっている。やむなく二人は店内奥側の一段高い席に座った。そこからだと、遠目にでも飛行機を眺めることができる。
涼輔はコーヒーを、美菜は紅茶を注文した。
店員が去ると、涼輔が落ち着かなさそうに言った。
「……高校生で喫茶店って何か後ろめたい気もするんだけど、これって、田舎者の発想かな?」
喫茶店入りを禁じている学校など今時あるのかと美菜は思ったが、考えてみれば涼輔のような男が店で一人お茶を飲んでいるなど、とても想像出来ない光景であった。単純に、そういう習慣を持たなかったせいであろう。
美菜は可笑しそうに笑いながら
「別に、そんな校則はないわよ。和美ちゃんなんか、駅前のショップの店員やってるくらいなんだから。それに――」
顔を近づけて涼輔をじっと見た。
「……涼君、高校生には見えないわよ。その落ち着き方だって、その辺を歩いている大学生なんかよりもずっと重みがあるみたい」
「……老けてるからかな」
やがて、コーヒーと紅茶が運ばれてきた。
カップに口をつけながら、涼輔はちらりと外に目をやった。
日差しが目に眩しい。
灰色の滑走路の向こうに海があり、そのまま空へと続いている。
十一月も半ばだというのに、まだこんなにも暖かい。祖母の話では、北海道は今年は雪が遅れているようだった。それでも、内陸に位置している富良野はとんでもなく寒いであろう。毎年、屋外で震えながら墓参りしていたことを、涼輔は思い出した。
美菜は、小さなティーポットを傾けてカップに紅茶を注ぎ込んでいる。
朝の最も混む時間を過ぎているせいか満席にはなっていなかったが、店内は出発待ちやら出迎え待ちの人で、かなりざわついている。どこかの席で、子供が大声を出して親がたしなめているのが聞こえてきた。
「何だか涼君、ここのところすごく浮かない顔してるから。どうしちゃったのかな、って思って。ちょっと心配だったの」
「そうか。済まなかった」
彼は、心に圧し掛かっていた懸念の一端を、美菜に掻い摘んで話した。
「今まで、じいちゃんとばあちゃんの子が俺の死んだ母親だと思ってたんだ。でも、本当はそうじゃないんじゃないかっていう証拠を偶然見つけちまってね。……自分達の子でない人を、どうして子供だって言い張ってたんだろうって。俺にまでそんな事実でないことを吹き込んでさ――」
美菜はじっと涼輔の顔を見つめている。
再会して以来、この娘はいつもこうだった。相手の、というより涼輔の気持ちに関わる何事かを話していて即答し難い部分があると、黙って彼を見つめるのである。それは自分が次に何を言うべきかを探っているというより、涼輔の心の整理がつくのを見守っている、といった方が正確なのかも知れなかった。なぜなら、涼輔に注がれている彼女の視線は、いつも決まって優しく柔らかいのである。
だから涼輔は、美菜にだけは心の内を何でも話してしまう。
今も、そうだった。
「とうの昔に過ぎてしまった話だから、今となってはどうでもいいって言えば、どうだっていいんだ。それで何かが変わる訳でもないし。ただ――」
彼は無意識に視線を外した。
「……矛盾しているかも知れないけど、自分の出生がはっきりしないっていうことは、ひどく不安なことだなって、思った。俺一人のために、じいちゃんとばあちゃんが今までしなくてもいい苦労をしたかも知れないんだ。俺がいるっていうことは、思い出したくもない俺の母親と父親の間にあった何事かの延長線上かも知れないから。せめて、自分がどうやって生まれてきたかっていう事実くらいはっきりわかることが出来れば、少しは気が楽なんだろうなって……」
「あんまり、考えすぎなくていいのよ」
いたたまれなくなった美菜が、思わず言った。
涼輔という男は、ふとすると自分の存在を無用視してしまう嫌いがある。その果てに、ふた月以上も美菜の前から姿を消すということまで彼はやってしまったのである。あの時はお互いに何が何だか理解できないままだったが、今はその理由が美菜には良くわかるような気がした。
彼の生い立ちというものが、知らず彼の思想をそういうものに仕立て上げてしまっていたのである。傍で誰かが絶えず「涼輔の存在が必要だ」と言い続けてやらなければ、いつの日か彼はまた同じ事を繰り返し、黙って姿を消してしまうに違いなかった。それくらい、周囲は彼に彼の必要性を教え込んだりはしなかったのであろう。
お互い同じ様に閃きと成長を得て再会した筈なのに、男という生き物はそれでも物わかりが悪い存在らしい。ということまでは、美菜は考えなかったが。
「大切なのは、今とこれからをどうするかってことだと思うの。自分が居て良いのか悪いのかを考えたくなることもあると思うけど……」
そこまで言って、その後をどう言おうかと美菜は思った。
理屈を並べて押し通すことは容易い。
しかし、それではこの涼輔という現実認識の塊のような男は了解しないに違いないのである。彼にはもっと、具体的に彼自身の功績のようなものを伝えてやるのが相応しいのではないかと、美菜は思った。自分が知らないうちに他人に影響せしめたものというのは、本人に計り知れない自信を与えるものである。それをすぐ口に出来る程に、今の美菜は冷静で客観的だった。
彼女は一旦言葉を途切らせてから、また口を開いた。
「恵がね、とっても涼君に感謝してるのよ。あの子も早くにお父さんとお母さんに先立たれてしまって、あたしの家に引き取られてからもずっと悩んでいたの。自分がここにいていいのかって。それもあるのに、幻魔衆と戦う秘転の一人になってしまって、でも命復しか使えないからみんなの足手まといになってるって、思い込んじゃったりしてね。……でも」
美菜はにっこりと微笑んだ。
「涼君が来てからあの子、自分が何をすべきかがはっきりわかったって、嬉しそうに言ってたの。浅香さんが教えてくれたんだって。あの子は最初からあんなに元気だった訳じゃないのよ。今みたいに明るくなったのは全部、涼君が来てからよ。希香ちゃんにしても富野君にしてもそう。前向きに自分をしっかりもって戦う涼君が導いてくれたから、今があるのよ?」
「……」
「そういうのって、自分じゃ気付かなかったでしょう?」
自分の意外な点を衝かれ、涼輔はどういっていいのかわからない表情で美菜を見ている。初めて聞かされる自分の具体的な存在意義の話に、明らかな驚きがあったに違いなかった。
美菜の思うツボである。
「だからね」
紅茶を一口啜った。多少、冷めかかっている。
「自分で自分の存在の重さを量ってみても、正しい目方は出ないのよ。どっちかって言えば、重すぎたり軽すぎたりするんじゃないかしら。だから、みんなで一緒にいることって、大切だと思うの」
なるほどそういうものか、と、不思議な程の素直さで涼輔は聞いている。
思えば、これまで仲間という仲間が傍にいなかったし、それをつくろうともしない彼自身がいた。自分自身の存在意義を疑問視しつつも、逆に自分のみを頼ろうとする意識が絶えずどこかにあった。
それが今、美菜や他の仲間と一緒になることで、やや客観的に自分を眺めることができるようになっている。
手荷物検査場からその先は、見送りの人は立ち入ることが出来ない。
「……じゃ、行って来るから」
そう告げて歩き出そうとした涼輔に、美菜が声をかけた。
「――ねぇ涼君」
「ん?」
「北海道から帰ってきたら、また晩ご飯、食べにきてよね」
どこか冴えない様子の涼輔に、寂しそうな美菜。
「何だか、遠く離ればなれになるみたいじゃないか。墓参りが終わったら、すぐに帰ってくるよ」
「……必ず、よ?」
無言で笑顔をつくって美菜を片腕に抱きしめると、涼輔は検査場へと消えていく。
彼をじっと見送る美菜。理由のわからぬ切なさが、心のどこかにある。
――ところが。
何が悪かったのか、金属探知機に引っかかってしまった涼輔。ボディチェックを受けながら思い切りバツが悪そうに振り向いたその顔が、美菜を暗い気持ちに落ち込むことから免れさせた。
(いつもああいう風に素直に表現すればいいのに)
多少、恨めしくなくもなかった。
すっかり寒くなった北海道にて 墓参りをする厳、セツ、涼輔。
見渡す限り灰色の景色に立つ三人。
「……雪子さん、すっかり苦労かけたね」
墓碑の前で屈み込んで涙ぐむセツを見て、複雑な思いになる涼輔。
それは、真実を知ってしまった重みのせいなのかどうか、よくわからない。
その帰り、一人寄り道をする涼輔。彼の好きな丘に立つ、一本の桜の木。
美紅と彼が二人でよく来た場所。彼女を喪ってから一年。
この生命の世界で、人間でもない存在にずっと守られ続けていた自分が情けない。
そう思い込むしかなかった。
「……今となっては、だ」
「お姉ちゃん、雪よ。ほら」
なるほど、窓の外にはゆっくりとした間隔で大きな雪が舞い始めている。
「本当ね。いつもこんな時期には大して降らないのに」
雪というと、美菜はどういう訳か涼輔のことを思ってしまう。その涼輔を待ちわびる方に気持ちがいっているせいなのだろうか、口をついて出る言葉はどこか上の空なのであった。
ぼんやり窓の外を眺めて、涼輔の帰りを待つ美菜。
母親の墓参りだと告げる美菜と、それを聞いている恵。
(……そういえば涼君、自分の家族の事って、みんなに話したことがないんじゃないかしら)
幸雄のところへ行ってみる涼輔。
母親の胸に抱かれて眠る美咲を見ているうちに、ある決心をする。
(これ以上逃げていても仕方がない。訊くだけ訊こう)
また北海道を発つ前の晩。
涼輔はかねて言わなかった疑問を二人に訊く。
言葉に詰まる厳とセツを見て、彼は疑問を引っ込める。
「まぁ、どっちだっていいんだ、別に。俺がじいちゃんとばあちゃんの孫であることに変わりはないし」
本当は確かめたい気持ちがあった。が、それ以上に二人を困らせたくなかった。
黙っていた厳が徐に口を開く。
「……涼、お前にとって本当に大切だった人はお母さんだった人だ。儂等の子供である父親などは、その存在を知るだに値しない男だった。そういうことだ」
それだけでは肝心なことは何も知ることができなかった。が、祖父の言葉は涼輔の推測を正しいと言っているに等しかった。
ただ、涼輔の将来のために祖父が長い封印を今、少しだけ破ってくれたのだと彼は察した。今は亡き自分達の息子を、無念を堪え、強いて悪人として口にすることの辛さを思い、涼輔はそれ以上問い掛けようとはしなかった。
駅のホームでぼんやり風景を眺めている涼輔。
低い家並みが続く向こうに、晴れていれば十勝岳連峰が見える筈だった。が、今日は低く重い雲が一帯を覆っていて、山並みは隠れてしまっている。
つい先刻、家を出て歩き出そうとした彼に、祖父は言った。
「……本当のことを黙っていて、済まなかった」
祖父の心の何事かを察しつつも、どこか納得のいかない自分がいる。
親と子の絆というものは何なのか。
生まれてからずっと親と呼べる存在がいなかった涼輔にはよくわからない。
ぼんやりと空を眺めていた涼輔の目に、うっすら降り始めた雪が見えた。
遠くで汽笛が聞こえ、やがて気動車の耳障りなエンジン音が次第に大きく近づいてきた。
都心へ帰れば。
都心には美菜がいて、仲間達がいる。
それ以外に今の涼輔の心に行き先などないような、そんな気がした。
列車に乗り込みふと窓の外に目をやると、駅の隣の公園に佇む祖父の姿が見えた。
「……」
手を振ろうかと思ったが、彼の胸中の何かがそれを阻んでいる。
結局、黙ったままで列車は富良野を離れた。
弾けるような美菜の笑顔が、涼輔を出迎えた。
「涼君、おかえり!」
「……やぁ」
帰省中何かと気鬱だった彼は、救われたような気分になった。
自分の手をとって喜んでくれている美菜の存在だけが、今の彼の心を確かに支えてくれているような、そんな気がした。
「なんだか、一年も二年も待った感じで、この三日間がすっごく長かったのよ」
美菜は美菜で、沈みがちな涼輔を案じていたのである。素直な彼女の気持ちが、涼輔にはこの上もなく照れくさい。
「……命魔の連中、来なかったかい? みんなは?」
我ながら馬鹿な質問だと思うが、この男はそういう風にしか表現ができない。
「ううん、大丈夫よ。あれからなんにも。公司君も咲貴ちゃんも、今日はテストの勉強してるんじゃないかしら? テスト、近いしね」
そこへ、二階からばたばたと恵が降りてきた。
「まぁ浅香さん! お帰りなさい!」
「ただいま。さっき着いたんだ」
彼は手に提げていた大きな紙袋を差し出した。
「うちの畑のジャガイモだよ。今年は雨が多かったから、あんまり出来がよくなくてね、腐ってるところもあるかも知れないけど……」
「ありがとう。こんなに沢山、重かったでしょう?」
美菜が涼輔の手から袋を受け取ると、さらに恵がそれを姉の手から引き取った。
「お姉ちゃん、今日の晩ごはんは浅香さんも一緒ね。折角だから、これでなんか作ろう? ……いいでしょ? 浅香さん」
他人の家の晩餐に割り込むことは、あまり彼にとって気乗りのする行為ではない。
仲のいいこの一家についてはとりわけそういう気持ちも働くのだが、かといって断るような理由も必要性もまたないのであった。
第一、断ればこの姉妹は悲しそうにするのである。
「……うん。済まないね」
彼の返答に美菜もにっこり微笑み、
「早く上がって上がって。今パパもママも出かけてるけど、もう少ししたら帰ってくるから。涼君がいたら二人とも喜ぶわよ」
こんなに歓待されるようなことは、彼のこれまでには決してなかったことである。
帰ってきて良かったと、涼輔は心のどこかで思うともなしに思っている。
「――そうだったの」
美菜が入れてくれたお茶を飲みながら、涼輔は北海道でのあらかたを語ってしまっていた。勇を鼓して尋ねた質問と、それに対する祖父母の反応。
彼にとって、今度の帰省が要領を得た結果であった訳ではない。事の真相は依然として過去の闇の中にある。が、厳やセツの心底辛そうな表情を見ていたら、それ以上何も問うことが憚られた。
ただ一つ言えることは、涼輔の推測どおり彼等は決して母方なのではなく「父方」なのであった。それをなぜ今まで逆だと涼輔に言い含めていたのか、納得のいく答えは得られずじまいだった。
そんな事実やら心の奥の何事かを、涼輔はぽつぽつと美菜に打ち明けた。
今となっては、彼女だけが彼の唯一の理解者なのである。
恵は遠慮しているのか、奥の台所でジャガイモの皮むきに専念している。
「……」
あらましを聞き終わっても、美菜は何も発しない。
涼輔の不安な心境を思えば、軽々しく反応などできたものではなかった。しかも、普段なら自分の中に収めてしまって石のように何も語らない筈の涼輔が、彼女にだけはこうして全て話してくれているのである。
美菜としては、どこまでも涼輔の側にいたかった。彼女もそれだけ涼輔に信頼をおいている。が、経験則のないことに対して即答を出すべきでないことを思えば、自ずから言うべき内容が見つからないのである。
彼女はやや長いこと考えていた。
恵が手際よくジャガイモの皮を剥く音だけが、微かに室内に響いている。
やがて、美菜は涼輔の顔を覗き込むようにして、優しい表情で尋ねた。
「……涼君は、最終的にどうなればいいと思う?」
まるで母親が子供を諭すような態度である。
こういう時、男は誰しも従順になりうる。
涼輔はちょっと考え、言葉を選びながら
「……結果として、こうなればいいとか何とか、思っている訳じゃないんだ」
一旦区切られたあとの語調は、はっきりとしていた。
「ただ、本当のことを知りたいと思う。俺がどうしてこういう状態のなかにいるのか、どうしてこんな世界ができあがってしまったのかを、ね。何か強い理由があるんだろうとはおぼろげながら思っている。でもさ、何もわからないままでいたくないし、戦う理由を自分の中ではっきり納得することができたら――」
彼はそこまで言って、遠くを見るようにした。
「……もっと強くなって、今まで以上に、みんなを守ることが出来ると思う」
美菜は少し泣きそうになった。
この男は、決して過去を振り返るために過去を探っているのではなかった。
この不可思議な世界に踏み込まざるを得なかった自分を納得させることで、戦う意志を今まで以上に何倍も強く持ちたいに違いなかった。みんな、という言葉はまさしくその通りであろう。ただ、本音の本音で守りたいと強く思っているのは、ただ一人の存在である。
いつのことだったか、涼輔がちらりと口にしたことがあった。ろくに守ることも出来ずに逆に守られてばかりいて、結局喪ってしまった人のことを。
彼にとって、過去などはどれほどの重要性ももってはいない。
ただただどうしても前を向いていたいのである。その動機を求めて、今は自分の出生や生い立ちに目を向けているに過ぎない。それにしても、振り返ってみるには彼の過去は余りにも曖昧で、そして悲しいものであった。
そんなやりきれないひたむきさが淡々とした涼輔から伝わってきた時、美菜はいたたまれなくなった。
彼女は、何かを言う代わりに、もう一度嬉しそうに微笑んだ。それ以外に、今の彼を納得させる何物もないように思われたのである。
それが全てを賛同するという意志であることは、涼輔にはわかった。
やっぱり戻ってきて良かった、と再び強く思った。
だが、何もかもこれからである。
彼が知りたいと望む真実に真っ向から向き合う時、思いもよらなかった何事かを呼んでしまうであろうと、それは漠然ながらも確かな予感として彼の胸中に常にある。
その時に凛として立ち向かうことが果たして出来るのか、そしてまた――今度こそ、美菜を守りきれるのか、そこはかとない不安はどこまでも拭い去ることができない。
あんまり考えすぎないで――そう言ってくれた美菜の言葉だけが、今の涼輔を辛うじて支えてくれている。
その夜、美菜と恵の両親は涼輔が戻ってきたことを喜び、案の定盆と正月が一度に来たような食卓を用意してくれた。北海道から涼輔持参の食材を父親はことのほか喜び、何度もうまいと激賞した。
そう言われることは、涼輔にとっても愉快である。
(今度、爺ちゃんと兄さんに教えてやろう)
命魔の出現によって正の生命の具現化した世界・遥空への扉が開かれ、ある日その遥空から少女・理抄がやってきて皆を驚かせる。彼女の薦めで一同は遥空へと足を踏み入れる。
「何だか、氷でできた宮殿みたいね。住んでいるのも氷の女王、とか」
そんな彼等のやり取りを聞いていた理抄がさも可笑しそうに言った。
「氷みたいに見えるかもしれませんが、残念ながら氷ではありません。ここは人間の生命の、もっとも純粋である部分の象徴ですから、このように空間全体が透き通ったものになっているんです」
それを聞いた咲貴が
「へぇ。じゃ公司みたいに腹の底から真っ黒な人間の生命の象徴は真っ黒になるんじゃない? きっと、あんたの生命からできた異空は、イカスミみたいになるわよ」
「何ィ? お前だって、他人のコト言えるのかよ? お前なんかバカだから、異空全体がこんにゃくみたいにぐにゃぐにゃしてんだぜ、きっと。顔だけお前の顔で、胴体がタコみたいな奴等がいらっしゃい、とか出迎えに来やがんの。ははは」
「何よ。バカ異空の主はあんた一人じゃない。人間の生命でも一番のバカの象徴なんだから、さすがに命魔の連中だって近寄らないわよ。踏み込んだら最後、バカになっちゃって、それまで。ああ、怖い」
「んだとォ?」
遥空までやってきて言い合いをしている二人。
こういうのが一番幸せかもしれないと、端にいた隆幸はふと思った。
理抄は恐らく初めて聞くであろうバカ議論に苦笑していたが、やがて真面目な表情になって一同の方を振り返った。
「着きましたよ、皆さん。ここが遥空の核部、中心です」
理抄と同じくらいの年かさの少女と、そして若く気品に満ちた女性とが、立って彼等を待っていた。
「――ようこそ、皆さん。よくいらっしゃいました」
誰もが息を呑んだ。
女性は長い髪を後ろに束ね、顔立ちが実に美しく整っている。肌が透き通るように白く、胸から下を真っ白く柔らかな布地でそっと覆っているその妖艶な姿には、普段はどんな異性にも表情を動かさぬ隆幸ですら度肝を抜かれたようだった。もっとも、それに気付いた来未が不愉快そうな顔をした。
そして何より、気高いながらもどんな生命の人間ですら暖かく包み込んでしまいそうなほどに優しげでいてすぐにも壊れてしまいそうなか細さがある。彼女の全身から絶えず立ち上る生命が結晶化した微かな光を、恵は眩しそうに見つめていた。
双転と秘転合わせて九人の一人一人をゆったりと見渡していた彼女は、静かに慎み深く頭を下げた。
「私は、この遥空の主、女天です。現界からはるばる、よくいらっしゃってくださいました」
女天と名乗った女性は、にっこりと微笑んだ。
完全に、といっていい程にどんな僅かな邪気すらもない、清らかな笑顔であった。
美しいばかりでなく接する者全てを暖かく包み込む彼女の雰囲気に、誰もが口を利けずに呆然と突っ立っている。
すると、その傍らにいた少女も笑顔になってお辞儀し、
「皆さん、始めまして。理抄と一緒に女天様にお仕えしている清香と申します」
よく見れば、理抄よりも若干年上、一同とほぼ同じ位である。この娘もまた、よく整った愛らしくも美しい顔立ちをしていた。
初めて見る遥空にはしゃぐ一同とは対照的に、涼輔は気分が落ち込んでいる。
(どこかで、会ったことがあるような……気のせいだろうか?)
女天をじっと見つめながら考え込む涼輔。が、どうにも思い出せない。
そんな彼を、心配する美菜。
「……どうしたの? ずっと元気ないのね?」
「……何だか、すごく切ない気持ちがね。どうしてなのか、全然理由がわからないんだけど」
二人のことを、離れて見ている女天。複雑な表情としている。
恵だけがそれに気付いたが、聞くことができない。
やがて、女天は異空のこと、命術のことを様々話して聞かせる。
異空の存在が誕生した理由に引っかかりつつも、涼輔は尋ねることをためらう。
「……女天様? どうかしましたか?」
「いえ、初めてあの子達に会うことができて嬉しい反面、大変な思いをさせてしまっているのかと思うと辛くて……」
考えた末、涼輔は伯母の早苗を訪ねた。
彼女は涼輔の姿を目にすると、大げさとも思えるような喜びの表情と仕草をして見せた。が、これがこの伯母の素なのである。そういう性格をして、友人知人を無数に量産している彼女に対し、涼輔は半ば敬服している。
「まあ、涼ちゃん、よく来たわねぇ。ささ、上がって頂戴」
「突然すみません。ちょっと、用があって」
伯母の家は、バスで十分ほどのところにある。娘である惑香を女手一つで育て上げた彼女はなかなか商売達者で、数年前に交通の便も環境もかなり良いロケーションにあるマンションを購入し、済んでいる。十五階にあるというその部屋は相当見晴らしがよく、都心の夜景も見えるらしい。かなり高額だった筈だが、それをも手に入れることが出来るほど、彼女は成功を収めたといっていい。
そして、そういう伯母ゆえに、経済的な部分で涼輔の生活をこれでもかとばかりにサポートしてくれているのである。半ば強引に携帯電話を買って持たせてきたのもこの伯母であり、また彼の部屋にある家電製品やら生活用品のほとんども用意してくれたのである。
何故そこまで面倒をみてくれるのか、多少戸惑う部分も少なからず感じる涼輔であったが、伯母は大袈裟に笑いながら
「あたしはねぇ、他人の面倒みるのがせめてもの道楽なのよ。他に趣味も何もないけどねぇ、こればっかりは好きだから止められないのよ。増して、涼ちゃんのことだもの、あたしにしてみれば、惑香と同じ、自分の息子みたいなものなのよ」
そういうことを、恩着せがましさを微塵も見せずに言うのだから、早苗の腹の太さは推して知るべしである。
部屋に入った涼輔は、正面にある大きな窓から、自分が住んでいる地域の方を眺めていた。今日は生憎の曇天で、多少煙って見える。晴れていれば、もっと遠くの高層ビルまで見える筈だった。
その窓が見えるように、これまた立派なソファが置かれている。
彼が静かに腰を下ろすと、ゆっくりと沈んで丁度いいところで腰が落ち着く。さぞかし高いものなのだろうと、彼は思った。
「それにしても、珍しいわねぇ。涼ちゃんが来てくれたのって、富良野から越して来た日以来かしら。もっと遊びにきて欲しいわぁ。惑香も、久しぶりに会いたいって」
コーヒーとケーキを運んできた早苗は、もう何年も会っていない親類であるかのように、涼輔をまじまじと眺めている。カチャリと置かれたコーヒーカップは、これまた変わったデザインのもので、彼が使っている百円のそれとは値段の桁が幾つか違うのではないかと思われた。
「早苗おばさん、どうしても知りたいことがあるんだ」
「なあに涼ちゃん? あたしにわかることかい?」
ややしばらくの間躊躇ってはいたものの、これ以上隠すことの無意味さを思ったのであろう。
膝の上に伸ばした左手を丹念に撫でていたが、やがて
「……あれはねぇ、まだ涼ちゃんが生まれる一年前だったかしら、もう十八年も前のことになるのかしらねぇ」
早苗はいつもの調子とは打って変わった様子で、しんみりと語り出した。
身寄りのなかった涼輔の母・雪子は札幌で身を粉にして昼夜働いていた。
ある時、涼輔の実父である重木と出会い、二人は同棲を始めた。が、女好きな重木は夜な夜な出歩き、雪子の稼いだ金を持ち出しては遊びに使った。たまたま事情を知った重木の両親・厳とセツが雪子の身を案じ重木に厳しく意見するが、その頃から重木は彼女に暴力を振るい始める。他に行くあてもない雪子は黙って耐え忍ぶしかなかった。
そして雪子が妊娠したことを知ってからというもの重木は帰って来なくなり、金がなくなると戻ってきて雪子から取り上げては出て行った。身重ながら生きるために働き続ける雪子は次第に体調を崩していくが、我が子を自分の手で産み育てるという望みだけを持ち続け、無理に無理を重ねた。
雪子の出産も近くなったある日、重木は彼女に出て行くように強要する。
出産するまでは、と哀願する雪子を殴りつけ、かつその大きくなった腹部を蹴り上げて重木は女と出て行った。動けなくなった彼女を隣人が発見し、厳とセツが富良野から急ぎ駆けつけてくる。雪子の容態は思わしくなかった。
我が子の所業を憤り、なんとか所在を突き止めて会いに行った厳に重木はさんざん悪態をつき、終いには両親の前からも姿を消した。そして一ヵ月後、彼等の元に飛び込んできたのは重木が飲酒運転で事故を起こし、帰らぬ人となったという報であった。
その助手席にはまた別の女がいたという。重木が起こした事故ゆえ警察やら事故相手との交渉、補償問題で厳もセツも心労を重ねていく。
悲嘆に暮れつつも、残された雪子を懸命に世話する厳とセツ。が、雪子は病院に入ったまま一向に回復せず、とうとう無理を押して出産する。が、それが彼女の寿命を完全に縮めてしまい、出産後には起き上がる事すらままならなくなる。
そして出産後間もない秋も深まったある日、彼女はたった一つの願いであった我が子・涼輔をその腕に抱くこともできないままこの世を去った。まだ二十四歳であった。
厳とセツは早苗の手も借りながら、何とか涼輔を育てた。
我が子を想いながら必死に生き、そして逝った母のためにせめて、彼等は涼輔に母の姓「浅香」を名乗らせた。
「……あのろくでなし、死んで良かったんだよ」
吐き捨てるように早苗は言った。が、その目に涙が溜まっているのを涼輔は見た。
その父の生い立ちも、決して恵まれたものではなかったらしい。事業に失敗した厳とセツは、渋る親類に借金をして農業を始めた。何一つ余裕のない貧しい生活を余儀なくされた上に、心の行き場のない厳が重木に辛くあたっていたという。
「そもそもが、父さんと母さんだったのよ。下手な商売に手なんか出さなければ、あんなことにはならなかったのよ」
自らもまた被害者であるところの伯母は、そんな言い方をした。彼女の気持ちは、多少の色彩を帯びて涼輔にも伝わった。涼輔もまた、被害者の一人だからである。
しかし、今となっては、何も戻ってくる訳ではない。
伯母は、最後にちらと付け加えた。
「……ただ、だからといって、涼ちゃんのお母さん、って、雪子さんのことね。彼女に対して重木が仕出かした仕打ちは、あたしも同じ女性として、許せることでないと思ってるし、せめて、あたしに何かできることはないかって、考えたの」
ゆっくりと、早苗は涼輔に視線を移した。
「幸運なことに、仕事が上手くいって、こうやって経済的に何の苦労もない生活を手に入れることができたのね。だから、雪子さんが遺した涼ちゃんが、不自由しないようにしてあげたいって、思った」
だが、彼女はこうも言った。
「けど、誤解しないでよね。それもあるけど、やっぱりあたしは世話好き。これは嘘じゃないの。だから、何もただ申し訳なさだけで義務的に涼ちゃんに何かしている訳じゃないの。本当に、あたしの道楽。これだけは判って欲しいのよね。どうかしら?」
もちろん、伯母の好意には疑うべき何物もないということを、涼輔は承知している。そうでなければ、ここまで彼女が社会で成功することはなかったであろう。彼は静かに微笑しながら
「……伯母さん、判ってるよ、それくらい。俺がこうやって暮らしていられるのも、みんな伯母さんの道楽のお陰だって。ただただ有り難いって、思うんだ」
ほとんど冷めてしまったコーヒーを、一口すすった。
いかにも高そうなカップだけあって、カップは口当たりがいい。
「……伯母さんのそういうところ、尊敬してるよ。俺も、いつかそういう風な人になりたいような気がする」
それを聞いた早苗は、たちまち表情をパッと明るくした。
「まあ! 尊敬だなんて、すっごく照れくさいわね。でも、涼ちゃんがそう言ってくれて、すごく嬉しいわぁ。率直に喜んでもらえると、あたしも一緒に嬉しくなるから、それが止められないのよね。お金じゃないのよ、人の生き方の、結局って」
最後の伯母の言葉が、涼輔の胸に強烈に響いた。
金と女しか眼中になかった自分の父親と、本当にこの伯母が姉弟だったのかと、疑わしくなる。
人間は結局、望む方向へ方向へと生きてしまう。
早苗のマンションを後にした涼輔。
バスに揺られていると、ぽつぽつと窓に雨粒が当たり出した。
次第に濡れていく街の景色を呆っと、虚ろに眺めていると、持ち直した筈の気持ちが再び暗くなっていくような気がした。
彼等山岡家の苦しみの先に、涼輔がいる。
全ては、彼の中で一本の線につながった。あの奇妙な夢も、不愉快な夢も、今まで明かされなかった彼にまつわるありとあらゆる過去が。
が、だからといってそれが何になるのだろう?
これから彼が生きていくこと、そして繰り返されていく命魔との戦い、突如つながってしまった異空と遥空の関係。あの不可思議な女天の存在。それらと彼の不幸な過去とにどういう意味があるのか、涼輔にはよくわからない。
ただ、彼が生まれそして母が未練を残してこの世を去った日からこの忌まわしい(と彼は思っている)全てが始まったらしいということはわかる。
(どうしようもない一族だな。山岡家も、俺も、みんな……)
やり場のない暗い気持ちが涼輔の胸中暗雲のように立ち込めている。
すっかり夜の帳が降りた街に、いつ止むともなく雨が降り続いている。バスを降りたそのままの場所で、涼輔はしばらく天を仰いでいた。
【どうやら、過去の父親と母親が一連の事態のきっかけであるらしいと気が付き、苦悩する涼輔。美菜や仲間達が常時命の危険にさらされかつまっとうな学園生活を送れずにいるのは自分のせいでもあると思い詰めてしまう。いい思案もないまま皆から距離を置き始めるが、いちはやく美菜が異変を察する】
「――涼君? いないのォ?」
悲しげに呼ぶ美菜の声だけがこだましている。
これでもう五日目。毎朝来てはみるが、常に涼輔の姿はない。
思い切って行ってみた先に、果たして彼はいた。
何を見ているでもなしに、ぼんやりと遠くを眺めたまま動かない。
涼輔はぎょっとした。
美菜の目が、涙で潤んでいる。
しゃくりあげながら、美菜は一言一言、
「あたしなんかじゃ、涼君の辛い気持ちわかってあげられないけど、でも、せめて……そばにいてあげたら、少しは涼君、一人ぼっちじゃないって……思って、くれるかな、って」
(……クソ親父の過ちを繰り返すつもりか、俺は)
思わず彼女を抱きしめた涼輔。美菜は声も立てずに彼の胸の中で縋り付いて泣いている。この娘は、彼の痛みをを理解してやれていないと思いこみ、自分で自分を責めているに違いなかった。
両腕にありったけの力を込めながら、いつしか涙が一筋、頬を伝って流れた。
一筋である。
美菜に申し訳がなくてか、自分の悲境を思っての涙なのか、彼自身にもよくわからなかった。
ただ、弱い自分が無性に情けなかった。
涼輔が皆とはぐれがちになっていることに、咲貴は気が付いた。
美菜の方を見やると案の定、椅子にもたれたまま、悲しげに目線を床に落としている。
(……やれやれ。まだ、引き摺ってるな?)
一見人並み外れてアバウトそうな咲貴だが、他人の気持ちを感じ取るということに関しては他の面々よりもずっと敏感なのである。
二人の間で何が支障になっているのか、どちらも何も語ってくれないので咲貴にはわかっていない。
わかっていない、が――彼女には一つの信念がある。
本気でぶつかってやれば、それなりに何とかなることがたくさんあるのだ、という。
夕暮れの屋上に佇んでいると、背後に気配がした。
「……おー、いたいた。とんずら少年」
咲貴であった。
「……とんずら、か」
それきり、涼輔は沈黙してしまった。
「言いにくいと思うよ。だけど、独りで悩んでいても、ずるずる落ちていくだけじゃない。それに、今のみんなはきちんと受け止めてくれて、一緒に悩んでくれるよ?」
「それはそうなんだが……」
煮えきっていない。
男のこういう状態が、咲貴は何よりも我慢できない。
「あのさ」
彼女は声を張り上げた。
屋上の開けた空間に、彼女の声は一際大きく響き渡った。
「あたしにもわかってあげることできないし、何も言えた義理じゃないけどさ、でも」
咲貴はキッと涼輔を見つめた。
「……美菜の気持ち、わかってあげてる? 自分だけ辛いって思ってたら大間違いだよ」
「……」
「あのコ、心の底から浅香君のことが好きで、いつも傍にいて力になりたいって、本気で思っている。自分がどれだけツラい状態になっていたって、自分の好きなコのことくらい、何とか守りなよ! すっかり自分を責めてしまって、美菜、可哀相じゃない。また浅香君が独りでどっかに行ってしまうんじゃないかって、すっごく不安になっているのよ? それでいいわけ?」
涼輔は何も言い返せない。咲貴の言い分に完全に承服するつもりもないが、美菜を不安がらせているのは何でもない、自分のせいであることは百も承知している。
「……」
そこから始まった彼の沈黙は、ほとんど記録的であった。
陽はみるみる地平線の向こう側に落ちていき、午後五時だというのに辺りは暗い。遠くに町の灯りがはっきりと見えている。この学校は、中心部からそれほど離れていない。
もう十一月だけに、外は寒い。
寒くはあったが、咲貴は背後にじっと佇んだまま動かない。
この男の自浄能力というものに賭けている。
賭け、というよりも、ほとんど祈りに近い気持ちである。
信じるという行為が、ここまで勇気を要するものだったのかと、思うともなしに思ったりした。
やがて――ゆっくりと涼輔は振り返った。
「……君の、言う通りだ」
視線がまっすぐに咲貴に向けられている。
彼女も逃げずに、真っ向からそれを受けている。
「明日、みんなに昼でも放課後でも集まって欲しい。きちんと、伝えよう」
やっと、咲貴が表情を緩めた。
「……オーケー。約束よ?」
しばらく黙って言葉を選んでいた涼輔だったが、やがて意を決したように口を開いた。
「みんなには本当に、悪いことをしたと思う。俺は自分のことしか考えてなかったよ」
「ただ、少し時間をくれないか。俺は何でこういうことになっているのか、俺の生い立ちと何が関係あるのか、それをはっきりさせたいと思っている。今更思い出したくもないことばっかりだけど、きちんと真っ向からぶつかったら、何かがはっきりしてくると思うんだ」
すかさず、咲貴が頷きながら
「……きちんと言ってくれてありがと。それでいいと思うよ。ね、そうでしょ?」
にっこりと承諾の微笑を送る希香や恵、霞美。
腕組みをしたまま口元だけでにやりと笑ってみせる公司。
「俺も微力だけど力になります」
力強く言い切る隆幸。来未はそれに便乗して
「あたしも同じく。だけど高いわよ?」
と冗談を言った。
そして――自分の心のうちをさらけ出してみんなと協調をはかることを誓った涼輔の姿を嬉しそうに見つめている美菜がいる。
命魔衆を一掃した直後、強烈な邪気を感じて身構える涼輔。
「久しぶりだな。いや、初めてか。浅香涼輔」
「どちら様だね? 俺はあんたの顔は初めて拝むよ」
「ハハハ、そりゃあそうだ。何せ、俺はお前が生まれる前に死んじまってたんだからなァ、お互いに顔なんか知るわきゃねぇわな」
一呼吸おいて、男はにやりと笑った。
「……俺は、お前の父親さ」
「……!?」
涼輔はわが耳を疑った。
「お前が……? 俺の……父親だと?」
「なんなら全部話してやったっていいんだぜ。あの馬鹿な母親との一部始終をよ」
「あいつが何がなんでもお前を産むってきかないもんだから、こんなことになってんだよ。あの馬鹿女さえ、自分の我儘をひっこめりゃこんな訳のわからんことにはならなかったんだぜ? お前だって、双転なんてどうしようもない宿命を背負わずに済んだんだ。もっとも、あの女が堕ろしていれば、お前なんかこの世にいなかったんだろうけどな」
微かな推測をしつつも、まだ涼輔には重木の言う意味が呑み込めない。
「あなたという人は! 自分の行いを棚に上げて何を言うのですか? この子の父親らしい何もしなかったくせに、今更父親だなんて、よく顔を見せに出てこられたものですね!」
「死んでもそのやかましい性格は変わってねぇなぁ、雪子。お前がそのガキを産まなけりゃ、何でもなかったんだろうが」
「あなたのような人に、母親の気持ちがわかるものですか! 子供を親のエゴで生かしたり殺したりするなんて、人間としての心があなたの中に少しでも備わったことがあったのですか? 私はこの子が授かった――」
「うるせぇ女だ。お前に俺の何がわかってたんだ? ああ?」
一瞬だった。
重木、否命魔の放った巨大な悪意の塊は涼輔と女天の身体を弾き飛ばして四散した。
「お前らを殺したら、あのクソ爺と婆をぶっ殺すさ。……それで全て終わりだ」
「涼輔……」
「これは一体……何の話なんですか、女天様? あなたはさっき、俺の母親だとか何とか、そういう風に聞こえたような気がしますけれど」
女天は悲しそうに俯いていた。
しばらくして彼女は意を決したように顔を上げてまっすぐに涼輔を見つめた。
「……ええ、間違いなく、私はあなたの母親です」
覚悟していた一言ではあったが、真っ向から言われてみるとさすがに気持ちが穏やかではいられない。
波濤のように揺れ動く自分の気持ちを静めようと懸命になっている涼輔。
「あなたを産んですぐに死んでしまって、私は母親として――」
「そんなことはどうでもいいんです」
涼輔の口調は、自然に女天を責めていた。
「俺が知りたいのは、どうして死んだ筈の両親がこうして目の前に現れることになったのか、どうしてこんな訳のわからない世界にみんなを巻き込まなければならなかったのか、ってことです」
黙って涼輔の怒りを受け止めている女天。
「つまりは女天様、あなたがこの世界を生み出した張本人だってことですかね? あなたが俺に会おうと思うばかりに、こんな事態を招いたっていうことですか?」
女天は両手で顔を覆って泣いている。
その涙の意味を、混乱している涼輔が理解できる筈もなかった。
「でも、これだけはわかって頂戴。私は、決して、あなた達をこんな――」
「物は言い様ですよ。今となっては結果しかない。俺は、みんなをこんな苦しめるようなことになったことは許せない。それは全部女天様、あのクソ親父のせいかも知れないが、結果としてはあなただ。あなたさえ、そんな――」
普段の涼輔にはあり得ないことながら、かなり感情的になっている。
こんな訳のわからない世界を創り出した母親を、決して許す気にはなれない。
「これだけはわかって欲しいの! 私は、母親として、あなたのことが――」
「今更何を言われても、後の祭りでしかない。俺には――」
腹立ちやら哀しさやら、自分の内に蓄積されたものが一気に迸り出てしまった以上、もはや止められない。よほど言わないでおこうと思っていた言葉まで、気が付くと口を衝いて出ていた。
「母親なんか存在しないんだ。父親だって。みんな手前勝手ばっかり並べて、結果としてこうなってしまったんじゃないか!」
あなたは母親なんかじゃない、そう口先まで出掛かった。
が、何故かそれだけは言うべきじゃないような気がした。
涼輔は振り返ることなく、転移して姿を消した。
後には、今にも泣き出しそうになったまま立ち尽くしている女天だけがいる。
「女天様……?」
座りこんだまま寂しそうにうな垂れている彼女を見て、理沙はいたたまれなかった。
「でも、あの子は何も悪くないのです。悪いのは、何も後先なく、こんな世界を創り出してしまった私にあるのです。あの子にどんな辛い思いをさせてしまったかと思うと、私は切なくて……」
彼女は堪えきれずに泣き出した。
遥空のだだっ広い空間に、彼女の嗚咽する声が殷々と響き渡っている。
親であることの気持ちを押し付ける余りに招いた事の大きさに、彼女は成す術ももたなかった。
何より、我が子の辛さを受け止めてやれないでいる自分が辛かった。
気配に気が付いてはっと目を覚ますと、ベッドの傍に涼輔が佇んでいた。
彼が転移を使ってこの部屋に、しかも美菜が就寝した後でやってくるなどということは、今まで一度もなかったことである。
といって、取り乱したりはしない。
自分が誰よりも心を許している存在である。
ふと視線をやると、涼輔はすっかりとやつれきっていた。こんなにも疲れ果ててしまった彼の姿をみたことのない美菜は、眠気など忘れてずきずきと胸が痛くなった。
「……どうしたの? 涼君」
ベッドに上にペタリと座りなおし、美菜は微笑んだ。
「……」
頼りなく立ち尽くしたまま、涼輔は動かない。
「いいよ。気持ちの整理がついたら、話してみて。あたしは待っているから」
咲貴の苦言と、彼女が教えてくれた美菜の気持ち。
辛うじて、涼輔は逃げずに踏み留まれた。それは、率直に言って彼女らのお陰であろう。
だが、この期に及んでも、何かが蟠っている。
蟠りの原因が何だか分からないでいるだけに、涼輔はどうすることも出来ない。僅かにでも方向性さえ見えれば、後は持ち前の一部の狂いもない天秤のようなバランスで上手く力点を見出していけた筈だが、今度という今度ばかりは、勝手が違いすぎた。
違い過ぎただけに事の急所が摑めないばかりか、出口のない箱に入れられたネズミのように、右往左往することしかできなかったのである。普段滅多にないだけに、そのうろたえようたるや、見ていて美菜はただただ苦しかった。
「涼君……」
「俺はさ、別にいいんだ。親父と母さんが生きている時にどういうことがあったって、それは仕方がないと思っている。だけど、みんなを苦しめるようなこんな世界を生み出してまで俺に会おうとするなんて、どうかしてるよ。自分勝手じゃないか」
「……」
ようやく、涼輔の心の奥にある何かが見えたような気がした。その何事かをして、こうまで冷静な涼輔を惑わしめていたのであろう。女天が単に自分が生まれて此の方以来の不幸な生い立ちを造ってしまった張本人であるということなのではない。そんな単純なことで行動が支離滅裂になる程の恨み辛みを溜め込むような男でないことは、美菜が一番知っている。
自分を産んだまま未練を残してこの世を去り、その強烈過ぎた思いの強さによって本来あるべきでない世界を創り出し、その副作用として、自分もさることながら美菜を初めとして仲間達をも巻き添えにしてしまったのだと涼輔が思い込み、それゆえに女天に心を許す気になれないでいるのだと、美菜は彼女なりに理解した。
もっともであろう。
自分が産んだ我が子に会えないのが無念だといっても、だからといって計り知れないリスクを承知で我が子と邂逅することを選んだのだとすれば、それはどう言い逃れしようと彼女の身勝手と位置づけられてしまっても、庇い得る余地はない。
未確認な事柄が多すぎて必ずしもそう言えたものかどうか美菜には判断がつかなかったが、少なくとも、涼輔が背負わざるを得なかった諸々の過去や思いという面から捉えるならば、彼が女天を許せないということは、決して不合理なことではない。
それすら腹に収めてこの不可解な難局に真っ向から立ち向かい、ここまで仲間や自分を守り戦ってきた彼の姿勢というのは、手放しに認めるべきであろう。
が、聡明なこの娘は、その一面だけで片付けてしまえる程単純な事態でないことに、とっくに気付いている。
仮に、もし涼輔の思っていることが全てだとして、この世界が現出したきっかけが女天一人に帰せられるのだとすれば――恐らく、彼女は女天どころではない、命魔衆の最重要人物になっていたといって間違いない。なぜなら、それこそが、人間の持つあらゆる自己本位の中で、もっとも美しい形をした、もっとも本能に近いところのものだからである。
本能は、人間が生きていく上で自然に会得されていった、あるいは体質化していった生理現象のようなものであり、これを否定し去ることは、人間として生きていく以上、あり得ない。否定した時点で人間であることを放棄したようなものであり、同時に、生きていくことをも止めると宣言したようなものである。
それ位、人間にとって本能というものは重い。
歴史の中でこの課題に真っ向から取り組んだ者は無数にいる。
しかしながらその誰もが普遍的な回答に到達することができなかったように、ありとあらゆる人間の行動は、本能に起因している。子を産み、育てることが根本の根本に備わっている女性という存在に生まれついたならば、それを抑制することが果たして、例え状況的に非であるとしても、善あるいは正であると、一体誰が断言できるであろうか? 人間という存在のどこをどうピックアップすれば、決して動かしえない根拠を見出せるというのか。
「でも、あたしは女天様の気持ちがわかるような気がするの」
名状しがたい表情で美奈を見つめている涼輔。
「あたしはお母さんになったことがないから、偉そうなことは何も言えないけど」
「お母さんが我が子を思う気持ちって、誰にも止められないくらい強いんじゃないかしら。きっと、女天様は涼君を抱っこしてあげられないまま死ななければならなくって、それって――」
女天の胸中の切なさを思ったのか、美菜は涙声になった。
「この世のどんなことよりも悲しいことよ。きっと、あたしも同じことになったら絶対に耐えられない。お母さんて、そういうことだと思うの。女天様、本当は涼君が元気に大きくなった姿を見て、何よりも嬉しかった筈よ。だから、本当はお母さん、て涼君に――」
そこまで言いかけて、美菜は首を振った。
「……ごめんなさい。今のあたしの言葉に涼君の気持ち、何にも入ってなかったね」
涼輔は胸がきゅっと苦しくなった。
この世のどんなことよりも、悲しいこと――美菜のその一言は、涼輔の胸を激しく抉った。
そっと、涙を拭う美菜。
美菜がいてくれるから、辛うじて涼輔は自分の気持ちを抑えていることが出来ているのかも知れなかった。
そういう感情表現の下手な男だから、言葉が出てこない。
黙って彼は美菜の頭に腕を伸ばして抱き寄せると、そのまま両腕で彼女を抱きしめた。美菜は黙って涼輔にされるがままになっている。
両腕に強く力をこめる涼輔。
「……ありがとう。また、自分に負けてしまうところだった」
「いいのよ。だから、あたし達は支え合って頑張るんじゃない」
やがて離れると、彼女はじっと涼輔の目を見つめた。
「……今度こそ、一緒よ? 一人でカタつけようなんて思わないで頂戴。いい?」
涼輔も長い前髪の下から美菜の目を見つめ返すと、強く頷いた。
静かにそして優しく微笑んでみせる美菜。
一体、この笑顔に何度救われたことだろう?
額と額が触れ合わんばかりの距離で、二人は視線を絡ませている。
「……涼君。今日はもう、独りになっちゃ駄目」
吸い込まれるようにして、両腕を差し伸べた美菜の懐に涼輔はすっと倒れこんだ。
――そうして美菜は、再び涼輔を強く抱きしめたまま、離さなかった。
離してしまえば、二度と会えなくなってしまうような、そんな予感が消せども消せども胸のどこかにふっと浮き出てきてしまう。だから、彼の身体が砕けるほどに強く強く抱きしめているしかなかった。離したが最後、どこかへいったまま彼は消滅してしまうに違いない。
「……もう、いいからね、涼君。これ以上、何も、考えちゃ駄目。涼君が望むなら、十日でも半年でも、あたしはずっとこうしていてあげる。――ううん、違う、あたしからのお願いよ。もう、ここから、あたしの前から居なくならないで……お願い」
胸に抱きしめた涼輔の頭に愛おしく頬を寄せながら、何度も呟く美菜。呟きながら、涙が込み上げてきて止まらなかった。
彼女の渾身の祈りであった。
幸いであったのは、彼女にとっての神が、彼女の背に両腕を回して力を込めてくれたことである。痛いくらいであったが、もはや美菜にとってはそれでよかった。例え背骨が砕けようとも、涼輔が消えてしまわなければ、安い代償であるとすら思える。
「……こんなに情けなくて、ごめん。でも、でも、俺は――」
涼輔の鼓動と苦悩が、美菜の身体に直に伝わってくる。
今一度、彼女は両腕にありったけの力を込めた。
「謝らないで。謝ったら、駄目。涼君がいつまでも苦しむのは、あたしが受け止めてあげられていなかったから――」
何よりも大切な人にいだかれた状態で、やがて疲れ切っている涼輔は静かに眠りに落ちた。
涼輔は、今までで一番素直に美菜を頼ってくれた。
「……」
掴みどころのないふわりとした、けれどとてつもない規模で大きな安心感に包まれながら、美菜もまたそっとその目を閉じた。
考え事をしながら歩いていた涼輔。
向こう側から来た人とぶつかりそうになり、咄嗟に身体をひねってかわしながら
「あ、すみません」
謝ると
「いいえ、大丈夫ですよ」
相手は事も無げに答えた。
若い女性である。
まだ一歳かそこらであろう幼い子を腕に抱いていた。
「……」
遠ざかっていくその背中をじっと見つめている涼輔。
(なるほど、な)
暗い部屋で一人腕組みをしたまま、じっと思案を続けている涼輔。
このままでいいのか、と思ったのである。
美菜をはじめ、伯母や、仲間達が「力になる」と言ってくれた。そのことは彼にとって何よりも嬉しかった。が、問題は彼自身、このあとどうすべきかである。母である女天に対して、そしてひょんなことから姿を現した、父・重木。しかしながら彼はもはや父親と呼べる存在ではなく、正確に言えば、死んだ父親の濁りきった生命が、彼の人格を模して命魔となって現れてきたものである。
合間見えた僅かな時間に、涼輔はその力のただならぬことを悟った。
うかうかしていると、自分はおろか、美菜や仲間達すら生命を消し去られかねない。それだけ、凶悪な生命の結晶体であるということを、彼は知らされてしまった。
かといって、山に篭って修行するとか、超絶した実力を有する師匠がいるとか、そんなテレビアニメ的な現実ではない。自分で、どうにかする以外にないのである。
ただし、一つのカギはある。
母という存在。
厳密には、
「……気が進まないが、今はそれしかない、よな」
「今回だけ、甘えさせてもらおう」
「まぁ!」
涼輔の話を聞いた途端、美菜は弾けるように笑い出した。
といって、嘲笑ではない。
彼が散々真剣に考えた挙げ句に思いついたアイデアの中身が、いかにも突拍子もなく、涼輔が一人でそれをうんうん考えている姿を想像して笑ってしまったのである。
「……でも、いいと思うよ。すごく大事なことじゃないかしら」
ただし、涼輔には一つだけ懸念がある。
そのことを、美菜に伝えると
「あたしなら、大丈夫。だから、心配しないで行ってきて頂戴」
きちんと相談すべきことを相談できている。
であるから、今回は大丈夫だろうと思った。
同じ過ちを繰り返すような愚かな男でないということは、誰よりも自分が一番知っているつもりである。
「――あいつ、どこいったんだ? またフケてんのか?」
涼輔がいないことに気が付いた公司が騒ぎ出した。
ばりばりとスナック菓子を食べながら来未が答える。
「あら、公司君知らなかったの? 浅香君なら修行に行ってるわよ? ねぇ?」
「そうそう。修行になるかどうかは知らないけど」
合槌を打つ咲貴。
「修行だぁ? どこへ? 何しに?」
「……一つ物事に集中したいんだと。そういう部分が自分に足りないってさ」
咲貴がそう言ってふと公司の方を向いた。
「あんたも行ってきたら?」
その頃涼輔は、白銀の世界となった故郷富良野にいた。
使った後の食器をくるくると手際よく洗っていく。
こういうことは幼いころからやってきているから、少しも苦にはならなかった。
が、さすがに冬の北海道では、水道の水が切るように冷たい。春以来北海道を離れていた涼輔には、なんとなく懐かしい感触ではある。
「……ごめんなさいね、涼輔君。何だか、申し訳なさすぎるわ」
後ろから幸雄の妻・奈々が声をかけてきた。
朝、すっと出かけて行っては、夜になって戻ってくるという毎日を繰り返している涼輔。彼の行動についてほとんど何も言ったことのない祖父母であったが、それなりに心配であるらしい。
ある日、遅い夕食を摂っている彼に、セツが
「……涼ちゃん、学校、まだ休みじゃないんでしょう? 大丈夫なのかい?」
と、問うた。
ご飯をほおばり味噌汁を流し込みながら
「ああ。いいんだよ。大丈夫だから」と、いい加減に返事した。
セツはお茶を淹れ始めた。
「奈々さんから電話が来てたのよ。毎日毎日色々と手伝ってくれてるって。だけど、こんな時期にずっと富良野にいて、本当に大丈夫なのかって、心配してたよ」
本当なら、とても大丈夫である筈がない。黙って何日も休めば、その先に退学が待っているであろう。
しかし、時間の大流が停止してしまっている今、どうせ放っておいても次の年もまた高校二年生がやってくるのである。それを元に戻すために彼らは必死に戦い続けるのだが、それを逆手にとって利用するくらいのことがあってもいいと彼はタカをくくっていた。
周囲の環境や世界が同じ時の流れを繰り返してしまうにせよ、自分達だけはそれを認識することができる。つまり、他人よりも豊富な時間(といっても、その間にどうにか元に戻さねばならないにせよ)を有しているということであり、その時間を利用して勉強したり何かを学んだりしたことは、全て彼らの中にきちんと残る。
そして涼輔はある決心をして、再び富良野へ戻ってきた。
それが「修行」であり、その中身は美菜にしか伝えていない。
ただ、時の大流が停滞しているなどという説明をしたところで祖母や幸雄の妻の奈々が理解できる筈もなく、そういう意味では、彼らは覚知することのできない常人であるに過ぎない。
そんな机上の学問よりも、今実地に学んでおかねばならないことがある。
「ボランティア自習っていうのがあってね。テーマを決めて一定の期間、それに取り組むんだ。授業に出なくても、それが単位になるから大丈夫」
お茶をすすりながら、涼輔は淡々と説明した。
が、無論嘘である。そんなものはない。あれば、咲貴や来未などは適当な理由を構えて真っ先に登校しなくなるであろう。
他人を傷つけることのない嘘なら、それは方便としてありだと思っている涼輔。
案の定、人のいい祖母はころっと騙されてしまった。
「へぇ、そういうのがあるのかい。今の学校って、変わった事やるんだねぇ。時代も進むものだ」
しきりと感心している。
涼輔はそれ以上何も言わずに立ち上がると、食器を片付け始めた。
台所の窓から外を見ると、密度濃く雪が降っている。今夜も積もりそうだった。
(明日の朝は早く行かないと、兄さん、除雪大変そうだな)
短い冬休みが来た。
美菜と恵、咲貴が富良野までやってきた。
結局、三人。
あとの連中は金がないとやらで後日決行ということになってしまっていた。
三人は、涼輔の勧めで厳とセツの家に泊まることになった。そのことは何となく憚られるような気がしたが、今の涼輔の様子なら大丈夫だろうと、結局厄介になることにしたのだった。
咲貴は素直に喜んだ。余計なホテル代もかからず、スキー場までは幸雄が連れて行ってくれるという。彼女の大きな目的は、北海道でスキーを満喫することにあった。このシーズンはホテルに泊まると非常な出費となる。
旭川空港から路線バスで富良野へやってきた三人。
幸雄と涼輔が、黙って待っていた。
「――やっほー。きたよー」
最初にバスを降りてきた咲貴。続いて恵、美菜と姿を見せた。
幸雄に挨拶をしている咲貴と恵。
ゆっくりと最後に降りてきた美菜はバスから二、三歩離れて立ち止まり、涼輔を見てにっこりと微笑んだ。白い細身のコートがよく似合っていて、久しぶりに彼女を見た涼輔には、この上もなく新鮮な感じがした。
乗客を降ろし終えたバスが戸閉めをして発車して行く。
二人の間の空間にあった何事かが、バスと一緒に流れていった。
「……元気だった?」
「……ああ。順調、かどうか、わからないけど」
着いた早々、三人は涼輔の案内で富良野の外れにある幸雄の家に立ち寄った。
北海道の暮らしを初めて目の当たりにして珍しがっている咲貴と恵。
その対応を幸雄に任せておいて、涼輔はせっせと除雪や家事を手伝っている。
奈々が気の毒がって言った。
「……涼輔君、折角女の子達が来てくれたんだもの、もういいのよ? 色々案内してあげて頂戴」
「ええ、大丈夫です。俺より、兄さんの方が面白がっているし」
家の中で大きなストーブを焚いたり、窓が二重になっていたり、北海道の暮らしは防寒中心になっているから本州のそれとはまるで異国のように違う。驚いている恵や咲貴相手に、幸雄は止め処もなく北海道の生活についてレクチャーしているのだった。
涼輔の祖父母の家に着くと、夕方だというのに既に辺りは真っ暗になっていた。
彼女らに一室をあてがうと、涼輔は夕飯の買い物に行ってしまった。
多少ひんやりする部屋に荷物を投げ出して落ち着くと、咲貴が思い出したように美菜に問うた。
涼輔が幸雄の家で家事仕事を手伝っていることに対してである。
「……美菜、いいの? あれで。意味あるようでないような気がするけど」
「いいのよ。涼君は自分で自分を鍛えることを忘れてたんだって、そう気が付いたみたいなの。だから、目先のことに翻弄されてしまったって、そう言ってた」
「それと家事仕事と、何かつながりあんの?」
「そうね……」
美菜はしばらく言葉を選んでいた。
「……仕事そのものが目的じゃなくて、子育てをするお母さんの姿を見たいんじゃないかしら?」
「へぇ……」
予想もしなかった答えに、咲貴は感心したように声を上げた。
恵は点火中の大きなストーブを物珍しそうにいつまでも眺めていた。
寒い日は空気が澄み、星が綺麗に見える。
真っ暗闇の中で二人は黙って宙を仰いでいる。
涼輔はふと、自分の防寒着を脱いで美菜の肩にそっと着せた。
「……ありがとう」
そっと微笑む美菜。
何も言わなかったが涼輔の横顔が何となく穏やかなように、彼女は感じ取った。
今頃咲貴と恵は凍えて布団に包まっているであろう。初めて体験した冬の北海道の厳しさが身に沁みているに違いなかった。
「涼君、何だか、変わったね」
無表情で美菜の方を向く涼輔。手が悴むので、ポケットに手を突っ込んでいる。
「そう、かな。よく、わからない」
「……全て片付いたら、今度こそ二人で来たいの。約束よ?」
「……うん。絶対に」
数日にわたって冬の北海道と寒さを十分満喫して、三人は帰って行った。
富良野の駅前まで見送りに行く涼輔と幸雄。
引き続き富良野に残る涼輔に対して、美菜は何も言わなかった。
帰る前の晩、彼女はただ一言だけ言った。
「……あたし、待ってるからね?」
本当は、一緒に帰れることを期待していたのかもしれなかった。が、依然として答えが見つからずに模索し続ける涼輔の姿を見て、そう切り出すことが出来なかったに違いない。
正直なところ、彼女と共に今の彼にとっての平穏な日常へ戻ろうかと、この数日でどれだけ考えたか、彼にも解らない。そうやって美菜という存在を大切にすることの方が、もしかすると何よりも重要なのかも知れないのである。
しかし。
何の答えも見つけられず、彼自身が強くなれずに戻っていくことに、何よりも涼輔は耐えられなかった。どうあっても強くならなければ、この後美菜や他の仲間を守っていくことなど出来ないであろうと、焦りにも似た気持ちが絶えず彼の中にある。
そしてその答えの在り処は、そう遠くないところにある。
もう少し。ほんのもう少し、近づくことが出来れば。
だから、彼はそのまま富良野に残ることを選んだ。
バスを待つ間、咲貴と恵、幸雄は雪玉をぶつけ合ってふざけていた。
すっかり馴染んでいる彼らを見て、静かに微笑んでいる美菜と涼輔。二人は簡素なバス停の傍で佇んでいる。バス停は錆び付き、うっすら雪が積もっている。
お互いに何かを言おうと思いつつも、気の効いた言葉が出てこない。
が、答えが見えてくるということは、そういうものかも知れないと、聡明な美菜や思慮の深い涼輔には解っている。
解っているだけに、たかがこれだけの見送りと別れが情緒的で、どこか寂しかった。
厚い雲から、大きな雪がしんしんと落ちてくる。かといって大雪ではないから、彼女達を運ぶ飛行機は遅れずに飛んでくれるであろう。
年末の午前中だというのに、富良野の駅前には人気がない。
三人のはしゃぐ声と、列車の発着を告げるアナウンスだけが駅前広場に響いている。
やがて、旭川空港へ向かう路線バスが、ロータリーを回ってやってきた。
二人の前で停車すると、ドアが開いた。
着いてすぐがもう発車時刻である。
遊んでいた咲貴と恵もやってきて、それぞれ自分の荷物を拾い上げた。
「じゃあねぇ、浅香君。早く戻ってきなよ」
「浅香さん。待ってますね」
二人は寒さから逃れるように、そそくさとバスに乗り込んだ。
後には、美菜が残っている。
「……」
彼女も、自分のキャリーバックに手をかけた。
一瞬下に目線を落とし、その後涼輔を見た時、美菜は笑顔になった。
「……すぐに帰ってきてよね? 待ってるから」
そのまま踵を返してバスに乗って行った。
涼輔は表情を消してそれをじっと見守っている。
美菜はこちら側の座席に座り、窓越しに涼輔を見つめていた。
バスのドアが閉まった。
前の席で派手に手を振る咲貴と恵。彼女達に応えるように、幸雄もバスの外で盛大に両腕を振っている。
そんな彼等を見て可笑しそうに笑いながら、美菜もまた手を振った。が、彼女が向いているのは、窓下に突っ立っている涼輔である。
彼は不器用に手を振り返そうとした。
相変わらず、雪が絶え間なく視界に入ってくる。
バスが動き出した。
見る見るバスは離れて行き、やがて後には涼輔と幸雄だけが残った。
「いい子達だったなぁ。また呼びなよ、涼」
感慨深そうに、幸雄が彼に言った。
「……」
首を小さく縦に振りながら、なぜか涼輔は口が利けなかった。
胸のどこかが、疼くように痛んでいる。
そうして、その年は暮れていった。
年が明けてまだ幾日も経たないその日、涼輔はいつものように幸雄の家を訪れてあれこれと手伝いをしていた。
夕方になって、外で除雪をしていた幸雄が、玄関から涼輔を呼んだ。
「……涼、ちょっといいかい?」
「あ? うん」
洗濯物を干す作業を中断して、涼輔は外へ出た。
年の暮れから妙に雪が多く、彼も幸雄も外で作業することが多くなっている。
若い夫婦が暮らすにはやや広い家の庭は、幸雄が除雪したばかりで綺麗になっていた。
北海道の冬は、日の落ちるのが早い。
四時だというのに、早くも暗くなりかけていた。
「何か、摑むことはできたかい?」
「……」
今の今まで何も言わなかった幸雄が急に問いかけてきたことに、涼輔は咄嗟の答えを用意していなかった。
「理由があったんだろう? わざわざ学校を休んでまでこうやって手伝いに来てくれて、俺も奈々もすごく助かっている。でも、涼があの子達と離れてしてまで富良野にずっといるのが、すごく気がかりだったんだ」
涼輔はふと、この間美菜達を見送りに行った時のことを思い出していた。
「すぐに帰ってきてよね? 待ってるから」
笑顔で空港行きバスに乗り込んだ美菜。
窓側に座った彼女は、いつまでも手を振り続けていた。が、バスが離れる瞬間の寂しそうな一瞬の表情を、涼輔は見逃さなかった。
確かに、今の行為には大きな理由がある。
だが。
山陰に、残光が消えていこうとしている。
辺りはすっかり闇に包まれていた。
黙っていた涼輔が、口を開いた。
「……理由はあるよ。すごく重大な理由なんだ」
母の胸に抱かれ、美咲がすやすやと安らかな寝息を立てている。
呼吸に合わせるように奈々の手がぽんぽんと赤ちゃんの身体を優しく叩いている。
そんな母子の姿を正面で、正座をしてじっと見ている涼輔。
「私もね、この子を産むまでは母親になるってどういうことなのか、よく判ってなかった」
「親になるっていっても、誰からもどういう教育もないし、資格試験がある訳でもないし。親であろうって心がけが大事なのかもしれないけど、それだって結局、そう考えてみるだけで心とは別のことなのよね。この子がこうやって生まれてきてみて、わかったの」
身じろぎもせず、固唾をのんで聞いている涼輔。
「幸雄さんと私の血肉を分けてこの世に生を受けて、何も疑わずに私達が傍にいることに安心してくれている。こんなに愛おしい存在って、ほかにあるかしら? そりゃあ、幸雄さんのことも好きだけど。親子の愛情ってまた別のことなのよね」
奈々はちらりと幸雄の方を見た。
にこにこして何度も頷いてみせる幸雄。
「ただ愛おしいって思うこと、親に必要なのはそれだけだと思うの。どうやって育てるとか将来どうしたいとか、そういうのは親の打算。親としての愛情だけが子供には伝わるのよ。でもそれって、とっても素敵なことじゃない?」
奈々の言葉を何度も反芻している涼輔。
ただ愛おしいって思うこと、親に必要なのはそれだけー―親もなく親でもない彼にとって、実感が湧く何物もない。
が、この言葉の響きは、何という説得力をもっているのであろうか。
母の雪子が自分に残された余力を省みず、一片の躊躇いもなく涼輔を生んだことがどういうことであったのか、ようやくそれを理解できるための何事かが彼の中で結晶しつつある。
生活や自分の状況をみて、授かった子供を堕ろしてしまう母親は世に数限りなくいる。意図的であれやむを得ないことであれ、我が子との縁を切るという行為そのものが、既に親としての愛情を失ってしまった結果であることに変わりはない。
きっと、彼女のその後が僅かでも健在であれば、今の奈々のように涼輔をその腕に抱きしめ、清らかな微笑を向けながら優しくあやしたことであろう。
それというのは、親の打算に属することかもしれないが、愛情ゆえの打算であり、この世のどんな理由に換えても妨げられるべき何物もあろう筈がない。たった一つのその願望すら遂げられずに逝かなければならなかった、母の悲しみがどれほどのものであるのか、いや、悲しみであるということにすら涼輔は解らずにいた。
美菜はそのことを
『それって、この世のどんなことよりも悲しいことよ』
と、表現した。
そうかも知れない。
今だから、涼輔は思うことができる。
そう思えるようになったそのこと自体が、既に彼の強さになっているに違いなかったが、この時点の彼はまだ、そのことに気が付いていない。
「涼にとって知りたかったことが何なのか、とりあえず俺は聞かない。聞いて欲しいなら聞くけどさ。ただ、こういうことじゃなかったのかな、っていう気はするけど」
涼輔は何も言わない。
厳密に言えば、ここに来たときから何となく答えの目処はつけていた。
ただ、裏づけが欲しかったに過ぎない。
その裏づけは十分に得られたように思われる。
あとは――自分が、何を、どうすべきなのか――ということなのだろう。
それとて、答えがまったく五里霧中という訳でもない。つまるところ、あとは彼の行動にかかっているといっても良かった。
ふと目を覚ました美咲がぐずぐずと泣き始めた。
「よしよし、目が醒めた? 泣かないの。パパもママもいるでしょ?」
奈々は美咲をあやし始めた。自然に切り替わった母親の表情。慈愛に満ちたそれは、何物よりも神聖で、神々しいように思われた。
それを機に、涼輔はすっくと立ち上がった。
「ありがとうございました。十分、答えが得られたと思います」
力強く礼を言う涼輔に、幸雄が微笑みかけた。
「何かの参考になれたかね? こんな片田舎の若夫婦でも」
涼輔は苦笑しながら
「俺もその片田舎で育った人間だよ?」
「違いない」
二人は笑った。
玄関を出ようとした涼輔に、幸雄がふと
「……帰るつもりなんだな? あの子のところへ」
涼輔は微かな笑みと共に頷き、
「うん。俺がいられるのは」
くるりと、背を向けた。
「――もう、あの街しかないから」
そう言って歩き出した涼輔の心中は複雑だった。
いつもいつも黙って彼を支え続けてくれた幸雄。しかし、もはや幸雄が支えるべき対象は彼ではなく、奈々や美咲であるということは、百も承知の筈だった。敢えて今回だけ、無理に甘えたようなものであったが――これが本当に最後になるであろうと、涼輔は思った。
もう、ここに帰ってくることはない。帰ってきてはならない。
というよりも、帰ってこなくていいようになりたかった。
なれたかどうか、彼自身にはよくわかっていない。
ただ、その胸中にたぎる決意だけが、その何事かを象徴しているのであった。
すっかり夜の帳が降りている。田舎町の夜は、都会のそれからはとても想像できないほどに暗い。
暗いながらも仄かに青白く光る雪明りの路を、涼輔は一歩一歩踏みしめていく。
と、突然背後から、幸雄の叫ぶ声がした。
「――また、来いよ! あの子と一緒に!」
少しの間があってのち、さらに幸雄は
「――ここは、お前の、故郷だ! いつだって、帰って来い! いいな!」
いつになく強い調子で呼びかけてきた。
あたかも、涼輔の胸中のなにもかもをわかっているかのよう、といっていい。
「……」
一瞬、うっと詰まりつつも、涼輔は黙って歩き続ける。
もう兄貴と呼ぶことのできない幸雄。それでも、いつでも帰ってこいと呼びかけてくれた気持ちの有り難さに、ちょっとだけ、目頭が熱くなった。
振り向きたくても、振り向けなかった。
振り向いてはいけないような、そんな気がした。
そうして涼輔は次の日、富良野を後にした。