窓の向こうの首吊り3
五階フロアで降りて、通路を奥まで進むと、その部屋が見えてきた。表札は白い紙が差し込まれている。つまり、名前はなく、そこが空き部屋だということを示している。
管理人さんが鍵を開け、ドアを開くと、玄関から奥へと続く通路を含め、真っ暗だった。生活臭というか、人の匂いが全くしない。
「裏手から見えるのはこっちの部屋さな」
管理人さんが明かりを点けてくれた。当たり前だが、電気は通っているらしい。となると、誰かが忍び込んでイタズラしてもおかしくない……か?
「あの、この部屋の鍵って、そのマスターキーだけなんですか?」
梨郷も同じことを考えたようだ。
「いいや、住人用にもう一本あるな。言いたいことはわかんだが、持ち出されたことなんぞ、ないぞ。鍵は毎日確認してっからな」
そうこうしてるうち、マンションの裏手から見える窓がある部屋にたどり着いた。そこは四帖半ほどの小さな部屋だった。中扉からリビングへと繋がっていて、開け放つと、少しだけ広く感じる。
僕は例の窓を開けて、外を覗き込んだ。
確かにさっき僕達が立っていた場所だ。窓枠に肘をついて身を乗りだし、左右の壁を確認する。特に何もなしか。ベランダもないし、ここから侵入はできなさそうだ。
「ちょっと、見えないっ」
僕の脇で、梨郷が必死につま先立ちをしていた。それでもどうにか覗ける程度で、彼女自身には夜空しか見えていないだろう。
「すみません、なんか台とかないですか?」
「んあー。俺の部屋に戻ればあるんだがなぁ」
「台なんていらないっ、そういう子供扱いやめてよ」
人が親切で聞いてやってるのに。
「そうだ、尚が台になれば良いんじゃない? ほら、四つん這いになんなさいよ」
その物言いにイラッときたので、僕は梨郷の腹と腰の間に手を伸ばし、一気に持ち上げてやった。
「きゃあああ」
これで窓の外が見えるだろう。
「せ、セクハラッ、訴えられたいの!?」
「ぐだぐだ言ってないで早くしろよ」
「うぐぅ」
梨郷は仕方なくと言った様子で窓の外を覗き込んだ。
「……ねぇ、ここ五階なのよね」
「エレベーターで上がってきたんだからそうだろ」
「なんか……ちょっと高いような気がする」
「外から見た窓と比べて?」
「うん」
僕は梨郷を床に下ろし、もう一度覗き込んだ。
そう言われれば、そう、か?
「ちなみに首吊りの影はどういう風に見えたんだ?」
「えっと、真っ正面じゃなくて……そう、そこの壁に影が映ってて、だから部屋の中央に吊られてたのかも」
壁に映った影か。確かにマンションの裏手から部屋の中央、そして入り口側は死角になって見えない。
「おーおー、本格的な捜査みてぇだな」
僕達の様子を見ていた管理人さんが面白がってそんなことを言う。
「んー……。あ、そうだ。この上の階と下の階に人は入ってます?」
「ああ、下の階は、ほら山元さん」
「なるほど、そういえば」
先日お邪魔したばかりだから、なんとなく覚えてる。
ん? 下の階? 待てよ。僕達が乗ったエレベーターは業者用で、住人用は別にあるんだったな。
「どうしたの、尚」
「外から見た時、確か一階にも窓があって、そこから五番目の窓だったんだよな?」
「うん。ていうか、一緒に数えたじゃない」
僕は管理人さんへ視線を向ける。
「もしかして、実際の一階は管理人さんの部屋ですか?」
「実際?」
梨郷が眉を寄せる。
「ああ、そういうことなんか」
「何がですか?」
梨郷は管理人さんを見やる。
「このマンションの一階は入り口を入って階段を上ったところでな。エレベーターの表示も一階になってんだ」
「え、え?」
僕は窓を閉めて、腕を組んだ。
「つまり、管理人さんが住んでる一階は一階じゃないんだ。このマンションの階数にカウントされない。つまり、実際の二階が一階。僕達が外から見て五階だと思ってたのは四階だったんだよ。下から上まで数えればわかったはずだけど、わざわざそこまで確認しなかったからな」
「じゃ、じゃあ、下の階の人が」
ここまで来ると察しがついてしまった。ていうか、下の階って山元さんだし。
「んじゃ、行ってみっか」
○
四階に移動した僕達は山元さんの家を訪ねた。
しかし、インターホンを押しても中々出てこない。梨郷の目撃情報もあり、心配してしまったが、
「はーい。あらあらまあまぁ、管理人さんに尚ちゃん。どうしたの?」
六十代半ばの女性、彼女こそが山元さんだ。
「あーその、この子が例のアンティークランプを見たいらしくて」
「まぁ、そうなの。尚ちゃん、妹さんがいたのねぇ」
「いや、妹じゃな」
「姉です!」
「お前、ちょっと黙ってろ」
玄関先でそんな騒がしいやり取りをしたにも関わらず、山元さんは快く迎えてくれた。
「すみません、忙しいところに。お邪魔します」
「大丈夫よー。今、キリメちゃんが出てたからテレビの前から動けなくてね」
「おう、そうか、新曲のお披露目は今日だったんか」
サクラキリメ、最近人気の中学生歌手兼アイドル。演歌からJポップまで幅広く曲を出していて、老若男女問わずに人気を獲得している。
密かに年配の方々の間で人気爆発中だとか。
「はい、どうぞ」
問題の部屋の前で山元さんが誇らしげに言って、ドアを開けた。
どうやら書斎として使っているらしい。本棚が置かれ、机とテーブルが配置されている。その部屋の天井から下がっているのは傘の部分が膨らんだ珍しい形のアンティークランプだった。柔らかい、オレンジ色の光を放っている。
「わ、可愛い形」
梨郷が思わずと言った様子で呟くと山元さんは嬉しそうに手を合わせた。
「ありがと。最近見つけてお気に入りなのよ。そうだ。今、お茶いれるわね」
山元さんが軽い足取りで部屋を出ていったので、僕は壁を指でさした。
「見ろ、あれが首吊りの影の正体だ」
「あ」
壁に映り込んでいるのはアンティークランプの影だった。引き伸ばされて、ショートヘアの女性の頭のようにも見える。天井に縄をくくって、首に巻き付け、自身の体を吊っているかのよう。ここから見ても少し不気味だ。
「そう、だったんだ。じゃあ、首を吊ってる人なんていなかったのね」
「ああ、そう言うことになるな」
「お見事。やるじゃねぇか、尚」
「ええ、わかってよかったですよ」
「お茶入ったわよー。リビングに来て」
山元さんの声に梨郷は息を吐いた。
「よかった」
「一件落着か。俺も気味悪かったんで助かったさな。んじゃ、お茶でも頂いてくか」
「そうですね」
せっかく用意してもらったわけだし、このまま帰るのも悪いだろう。
部屋の中扉からリビングへと向かう僕達。最後に出た僕は、背後で、妙な音を聞いた。
キィ……。
まるで縄が軋むような。
「どうしたの、尚」
僕と梨郷が後ろを振り返るのは同時だった。
書斎の天井から下がっていたアンティークランプの代わりに、だらんとして力なく吊られている人形のような何か。
「ひっ」
「ふぁっ」
しかし……瞬きをした瞬間にはそれは跡形もなく消えていて、アンティークランプが揺れているだけだった。
○
山元さんの家を後にした僕と梨郷は、梨郷の家へと向かっていた。今居さんに連絡を取り、送っていくと伝えてある。
「さっきの、なんだったの」
「二人揃って幻覚を見たってことにしとくしかないだろ。考えても仕方ない」
「んー」
暗い道しばらく無言で歩く。やっと大人しくなったか。
「尚」
「どうした」
「はい」
「ん?」
思わず受け取ってしまったが、手渡されたのは長方形の箱だった。
「なんだこれ」
「現物支給なんでしょ。それ、お礼。とっといて。ありがとね」
やっぱり微妙に上から目線なんだけど。まぁ、ちゃんとお礼を言ってくる辺り、しつけはきちんとされているようだ。
「あ? これ結構高いだろ」
それは有名ブランドのチョコレートだったのだ。
「別に。ファンの人に大量に、もらったから。余り物」
「ファン?」
「サクラキリメってわたしのことだから」
「は……はぁ!?」
あの人気アイドルの? 
「いやいや、全然違うだろ。それにサクラキリメは中学生って」
「身長誤魔化すのは簡単よ。靴に仕込めば良いんだし。素性とか全部隠して都合の悪い仕事は受けないようにしてるの。髪はかつらなりエクステなり使えばいいし、ヘアカラーはシャンプーで落ちるものをつかってるの。メイクで大人っぽくしてもらえるし、今時は声の高さを変えられる方法もあるしね」
「……へぇ……」
サクラキリメは金髪に近い茶髪のロングヘアがトレードマークだ。そのときによって髪型は変わるようだが。メイク次第で顔が変わるなんて、今時は凄いな。 
「そういうわけ。誰かに言わないでよ? 後、ネットに書き込むのもNGね」
「てか、なんで僕にそんなこと話すんだよ」
「……良いじゃない、別に」
「何が良いんだよ……」
と、鼻先に水滴が落ちたような気がして、空を見上げた。
どうやら雨が降り始めたようだ。
「ほら、走らないと濡れるでしょ」
僕は仕方なく、梨郷の後を追った。