窓の向こうの首吊り1
学生の身分でバイトをする目的は人それぞれ。大抵は金のためだろうか。学費を稼ぐなんてシビアな理由もあれば、とにかく遊ぶ金がほしいというという欲望に忠実な奴まで。
ちなみに高校生の僕、茅部尚は……どちらでもない。喫茶店を経営する知り合いから頼まれた、というただそれだけだ。
その日、僕は店長の津上さんから頼まれ、店番をしていた。僕の働くこの喫茶店『エコール』はカウンター席五、テーブル席三の小さな店だ。常連の客も多いので、いつも注文するメニューや顔や性格、特徴を覚えてしまえばこれほど楽なことはない。
今しがた出て行った客のコーヒーカップを洗いながら、テーブル席で雑談に花を咲かせているおばさんグループの様子を伺う。
いつものことながら長くなりそうだ。
と、入り口のドアが開く音がして僕はそちらへ視線を向けた。
「いらっしゃいませ」
「よう、尚ちゃん。マスターいないんだって? 帰ってくんのかい」
「今日は帰らないみたいですよ」
「なんだ、そぉか」
初老の男性……近所に住む今居さんだ。マスターとは飲み友達で、時々こうして昼間にもコーヒーを飲みに来る。
今居さんはカウンター席に座った。
「いつもので良いですか?」
「ああ、頼むよ。おっと、ちょっと待ってな」
今居さんはにやりと笑い、
「ほら、じいちゃんの隣に座んな」
今居さんばかり見ていて気づかなかった。入り口のドアからカウンターの方へ歩いてくるのは、恐らく小学生の女の子。どうやら今居さんと一緒に入ってきたらしい。仏頂面で物凄く不機嫌そうだけど、言うことを聞いて、今居さんの隣へ腰を下ろした。
「もしかして、お孫さんですか?」
今居さんの雑談にたまに登場する小学四年生の孫娘。この子がそうみたいだ。
慎重は平均的。笑えば可愛らしいであろう顔立ちをしている。服装はパーカーにショートパンツ、ストッキングにブーツを合わせ、長めの黒髪を編み込んで、バレッタで留めていた。
さすが、今時の小学生、お洒落だ。
「そう、孫の梨郷だ」
「そうなんですね。こんにちは」
友好的に笑いかけて見るも、不機嫌そうに視線をそらされた。一種の人見知りなのか。
いやでも、このご時世だ。知らない男にこんな風に声をかけられたら気持ち悪いよな。今時の小学生だったら普通の反応なのかもしれない。
まぁ、ここは保育園や小学校じゃないんだし、子供の反応に一喜一憂してても仕方ないか。
「お嬢さんは何にしますか」
なんか睨まれた。
「お嬢さんて、わたしのこと?」
斬新な返しをしてくる子だ。なんだか感心してしまう。
「そうですよ。ご注文は?」
「ふーん。お嬢さん、ね。ねぇ、わたしのこと何だと思ってるの?」
なんだと思ってるも何も常連客の孫の女子小学生、だろう。それ以外のなんだというのか。
「梨郷。ここでは普通にしてて良いんだよ」
ここでは? 気になる言い方だな。
「ふん。誰がお嬢さんよ」
「お孫さん、男なんですか?」
僕が今居さんにそう聞くと、今居梨郷が顔を真っ赤にしてカウンターテーブルに手をついた。
「し、失礼な」
「あっはは」
今居さんが他人事のように笑っている。口を挟んでくれて良いんだけどな……。
「やっぱりお嬢さんなんですね、よかった」
女装趣味の男子小学生なのかと一瞬疑ってしまった。
今居梨郷は顔を赤くしたまま、全力で睨んでくる。
「わたしが言いたいのは、子供扱いするなってこと」
「別にしてませんよ」
「お、お嬢さんて」
「ん……?」
どうやらお嬢さん呼び=子供扱いという認識らしい。解釈は人によるんだろうけど、なるほどね。
理由は不明だが、この子は子供扱いされるのがコンプレックスで、過剰反応しているのだ。
僕はペーパーフィルターをドリッパーにセットして中細挽きにしたコーヒー豆をスプーンで移していく。
僕はこの方法でしかコーヒーを淹れられないので(逆にこの方法なら太鼓判をもらっている)、店のドアにマスター不在という張り紙をしてもらっていたりする。
マスターのコーヒーが目当てなら入ってこないし、僕のコーヒーでも構わない人なら入ってくる、という具合だ。
僕は今居梨郷を見やる。
「それは失礼しました。お孫さんは何にしますか?」
「……コーヒー。おじいちゃんと同じコーヒー」
自分で処理できない見栄は張るもんじゃないと思うけど。
「かしこまりました」
本人が良いなら望み通り淹れてあげようじゃないか。
「梨郷、普段はコーヒーなんか飲まないだろう? 残すのは失礼だぞ?」
「だ、大丈夫」
結論から言って、全然大丈夫じゃなかった。
二、三口でノックアウト。仕方がないので、牛乳と砂糖でカフェオレにし、再加熱した。香りもくそもなくなったけど、風味くらいは楽しめるんじゃないかな。
「そうそう、聞いてるよ、尚ちゃん、山元さん達が凄く感謝してた」
僕は作業をしながら、
「ああ、山元さんちの切れた電球をつけ変えたり、松平さんちの犬の散歩を代わりにやったことですか? 代金もらってないですよ。ボランティアです」
「現物支給ってやつなんだろ? お年寄りの間で評判だよ」
「あんまり評判になられても困るんですが」
「あっはは。そりゃそうだ」
ふと気づく。今居梨郷がカフェオレのカップを傾けながら、じっとこちらを見ているのだ。
結局、今居さんに連れられて帰るまで、僕に話しかけて来ることはなかったんだけど。
○
いつもより一時間半ほど早い、六時半で閉めて、戸締まりをして、店を出たのは七時近く。六月の中旬だが、曇っているせいかすでに辺りは薄暗かった。日が落ちたためか風が冷たく肌寒い。
とは言え、自宅までは徒歩十分ほど。近いのが何よりの利点だ。
「ねぇ」
歩き出そうとした僕を呼び止める声が。振り返ると、帰ったはずの今居梨郷が相変わらず不機嫌そうな顔で立っていた。
「あんた、無償でお手伝いするのがすきなんでしょ?」
「一言も言ってないだろ、そんなこと」
梨郷はさらに眉を寄せた。
「さっきと態度違う」
僕は公私をきっちり分けるタイプなのだ。
今の僕はただのバイト帰りの高校生、他人の小学生に気を遣う必要はない。
「それで、なんの用だ。僕を待ってたんだろ」
「……首を吊ってる人を見たの」
「は?」
暗くて分かりづらいが、梨郷は体を小刻みに震わせていた。
「一週間前の夜。この近くのマンションの窓に影が映ったの。そのときは怖くなって逃げたんだけど、その日から今日まで、誰かがそのマンションで首を吊ったなんて話、聞かなかった。きっと」
梨郷は切羽詰まった様子で僕の顔を見た。
「きっと誰かが首を吊った人の死体をどこかに隠したのよ!」