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三十と一夜の短篇

天使とビー玉(卅と一夜の短篇第17回)

作者: 実茂 譲

 遠い南の空にやや季節外れの入道雲が湧き上がった。大崩壊前の人々は雲のことなどいちいち気にして生きたりはしなかった。人間の眉の下についた二つの目玉は〇・一秒の速さで更新されるネット配信動画や株式市場の浮き沈みを見つめるのに忙しく、空を漂う雲のことなど、どこか山奥の地方自治体が村おこしのつもりでつくった不細工なマスコットキャラクターのように寂しく無視していくものだった。しかし、大崩壊前の世界には不細工なマスコットキャラクターを専門に網羅するマニアはいたし、雲について言えば気象予報士を目指す人々がその動向に注目してくれていた。また漁師も雲をよく見る人たちだった。彼らは雲の形と色合い、雲の底の影の差し方を見ただけでその日どれだけの風が吹き、どのあたりで雨が降り、そして、どのくらいの魚が獲れるのかをかなり正確に予測できた。件の入道雲を見たら、漁師たちはどんな反応を示しただろうか?

 湿地帯に散在する水場を避けるために南西へ北西へとジグザクに歩いていた少年型戦闘用アンドロイド♯882の目にはその入道雲がいつも同じ大きさに見えていた。つまり雲と彼の距離は常に一定に保たれているということだ。日が暮れて、入道雲がハッとするほど深みのある美しい陰影を見せたとき、♯882は濃藍の水をたたえた池の岸辺を北西に、つまり雲に背を向ける形で移動していた。たとえ南西に移動していても♯882は雲を見たりしなかっただろう。というのも彼のすぐ横の池のなかにはマレー式蒸気機関車がほぼ完璧な保存状態で沈んでいて、彼の視線はそこに吸い寄せられていたからだ。その機関車は引っぱり出して、レールに置いて、石炭をくべてやれば、白い蒸気と黒い煤を噴き出しながらすぐにでも走り出しただろう。だが、今、蒸気機関車は池の中にあって、その煙突は黒煙の代わりに小魚の群れを吐き出した。小魚は西日が反射してきらきらしている水面のすぐ下をしばらく泳ぎまわってから、皮肉な文句を売りにする警句屋ですらうなり声をあげたくなるような銀の閃きを見せて、蒸気機関車の煙突へと舞い戻っていった。その様子のあまりにも美しく、そして面白いのに浮かれて、♯882は入道雲がじりじりと距離をつめ、しかも大きく膨らみながら東の空へ回り込もうとしているのを見逃した。

 次の日からは豪雨に見舞われた。灰色の空の下、灰色の雨が降り、湿地帯全体が灰色の水しぶきを上げるなか、♯882は相変わらずジグザグに西を目指していたが、そのうちついに行き止まりになった。水かさが増えて池と池同士がつながって、大きな淡水の海を作ろうとしていた。いまや彼の立っている場所は標高数センチの小さな島の丘に過ぎなかった。水が膝までくると、自分はアンドロイドなのだから、水のなかで呼吸ができなくても問題はないと自分に言い聞かせた。東から風が吹き始めてからはさすがに危ういかもしれないと思い始めた。戦闘用アンドロイドなのだから強度はある。だが、洪水にまともにぶちあたるくらいならまだ救いはあるが、水に押し流されて岩が飛んできた場合は多少の損害を覚悟しなければならなかった。彼は悔やんだ。あの入道雲めはきっと雲の世界の邪悪な司令官だったに違いない。いまは東にありったけの雨雲をかき集めて、ノアの大洪水の再現をやろうとしているのだ。

 東からまず水に押し出された空気が突風となって♯882に吹きつけられ、続いて一度に九本の雷が轟いたような音とともに全てを押し潰す圧倒的な質量の水が襲いかかった。

 水に呑まれた♯882が最初に感じたのは流れの激しさではなく、その水の温さと透明さだった。水が灰色に見えていたのはただ雲の色を映していただけで、洪水のなかは数十メートル四方を見渡せるほどに澄み渡っていた。湿地帯に散らばっていた池の水がうねりながら、洪水に合流すると池の底に沈んでいた過去の遺物――二階建てバス、五階建てビル、時価数千億円相当の宝石を保管した大金庫――が姿をあらわし、入道雲司令官を頭に頂く大洪水の軍団に加わった。

 魚たちも泳いでいた。いくつもの流れに分かれて泳ぐ魚の群れを見ていると、大洪水は一つの水の塊ではなく、何千何万もの太い水の束が組み合わさってできているのだということが分かる。赤い小魚と青い小魚の群れが泳いでいる二つの流れは時に接し合い、時に喧嘩別れしたかと思えば、一つの流れに合流し、赤と青の小魚が混ざり合って紫色の幻影を垣間見せることもあった。水の束は再び上下に別れ、青い小魚は底へ底へ、赤い小魚は上へ上へと突き進み、ついに赤い小魚たちは水面から次々と飛び出していった。赤い小魚たちは錯乱して隊列を乱すことなく着水し、数万本の水の束が作り上げる洪水の秩序に従って前へ前へと泳いでいった。空への挑戦を果たしたためか、赤い小魚の泳ぎぶりは青い小魚よりも自信に満ち溢れ、頼もしく見えた。

 そんな束状に流れる水の一つが例の蒸気機関車を走らせていた。水面と水底のあいだのちょうど真ん中を何一つ損なわれていない蒸気機関車が時速六十キロで流れている。運転室の窓の下には《9750》と銘打たれた金属のプレートがかかっていた。蒸気機関車にできることがアンドロイドにできないはずはないと思った♯882はただめちゃくちゃに流されるのではなくて手足を広げて水を切り、体を水の流れに抗うのではなくて合わせることによってバランスを取ることに成功した。すると空を飛んでいるような(あるいは人間大砲の曲芸師になったような)錯覚を覚えるほどうまく水の流れに乗れたので、嬉しくなった。彼の眼下には過去の遺物を吐き出して間抜けに口をあけたかつての池や沼たちがあり、彼の頭上には激しくしかし優雅に流れる水の束が幾重にも重なり、水の束の一つがちょうど右フックを打ち込む要領で空に切り込もうとしていた。そして、彼の右三十メートルやや後方にはナガスクジラのような蒸気機関車――環境保全や低燃費エンジンがはばをきかせた世界に抗い続けた気骨ある美術品――が機関士の到来を待っていた。水流の束は互いに近づき合い、マレー式蒸気機関車と少年型戦闘用アンドロイドもまた互いの距離を縮めていった。

 ♯882がまったく抵抗を受けることなく機関車の運転室にするりと滑り込んだ瞬間、その前方百メートルを流れていた特殊合金の棒がすっぽ抜けて大金庫の扉が弾け飛び、宝石が水中にばら撒かれた。大崩壊前、金庫製造会社のセールスマンは銀行の頭取たちを前にして、この金庫は一万年後の大洪水にだって耐えてみせると豪語したにもかかわらず、当の金庫は数世紀と経たないうちに白旗を上げた。今やロックフェラー財団やブルネイ王室の持ち物だったルビー、サファイア、エメラルド、ダイアモンドが際限なく流れ出し、マレー式蒸気機関車と少年型アンドロイドの進む航路に祝福の光を投げかけていた。

 デ・ビアス社が掘り出した中でも最も大きなブルーダイアモンドが窓のすぐそこを――♯882の目と鼻の先をゆっくり通り過ぎていった。その石はどの角度から眺めても、一度に百三十七の独立した煌きが目を射るようにと、最高の職人によってカットされていた。そのために♯882の心にかすかな哀しみが飛来した。なぜなら、この石を刻んだ人間が光と面と反射の全てを知り尽くしていたからだ。そして、その職人が光と反射に仕えるために犠牲にしたもの――家族や友人、穏やかな余生など――が百三十七の煌きのなかに映っていたからだ。


 一つのボイラー、一両の炭水車、二つの走行装置、十二の動輪を持つ蒸気機関車は♯882を乗せたまま、水流に押し上げられた。水流には機関車が飛び跳ねるほどの勢いはなかったが、それでも機関車はその上半分を水上に晒して、モーターボートのように水面を走ることができた。既に雨は止み、分厚い雲の切れ間からオレンジ色の光線が漏れ出していた。光線は雲から漏れ出したときが最も強く輝き、高度が下がるほどに光の強さは弱まっていく。しかし、水面にぶつかった瞬間、光は息を吹き返し、限りなく細かい泡の蒔絵を施したように水面を輝かせた。

 裂けた雲のあいだに星空が見えるころ、洪水が勢いを失い、徐々に水位が低くなっていった。魚たちはいずれ干上がるであろう水溜りに絶望的に取り残され、蒸気機関車は砂漠の丘の上にゆっくり静かに停車した。空気に晒された機関車は静かに錆びて土に返るだろう。

 ♯882は運転室から降りて、空の星を映す水溜りが散った砂漠を見渡した。そして、あるはずのないプラットホームとあるはずのない駅舎、そしてあるはずのない客車に想いを馳せた。あるはずのない夏の暑い日差しを感じながら、彼はあるはずのないパナマ帽で顔を仰いだ。風が心地よかった。あるはずのない世界では白いはずの彼の髪は黒く、紺色のはずの目はこげ茶色だった。彼は切符を手にしたまま客車の踏み段に足を乗せて、車内に入った。がらんとした三等席に数人だけ客が乗っていた。富山の薬売り、紺絣りを着た書生風の青年、角に真鍮をはめた革カバンをさげた山高帽の役人、年老いた高野聖、学生服の少年とその母親らしき女性。

 異星獣もろとも自爆して果てた#67B2もいた。窓際の席で赤煉瓦の駅舎を、何をするともなく眺めていたが、♯882に気づくと嬉しそうに微笑んで手をふった。彼女の着ていたものは風を受けると袖がたっぷり膨らむ白のブラウスにトルコ石のブローチ、紺のスカートで麦藁帽子はつばが膝に当たるようにして座席の上に置いてあった。彼女の髪も黒く、目はこげ茶だった。

 ♯882は彼女と向かい合う席に座った。彼の手には切符が握られていたはずなのに、今ではなぜか始めから彼女と出会うことが分かっていたかのように二本のラムネが彼の両手に握られていた。

「飲む?」彼はたずねた。

「いただきます」

 #67B2はラムネを受け取ると、ぺこりと頭を下げた。二人はポンと瓶の蓋を叩き、泡が吹き出す前に急いで、口をつけた。真夏のラムネはさわやかで全部飲んでしまいたいくらいおいしかったが、やめておいた。まだ中身の残っているラムネの瓶を窓際に置いて、日光の差す瓶のなかで気泡がくるくると上っていく姿を見たかったからだ。

 二人はラムネ瓶を窓際に置いた。そして、二人は汗をかいて木製の窓枠をじんめり湿らせているラムネ瓶を観察した。瓶の内側では小さな気泡が生まれては旅立ち、水面にぶつかってパチンとはじけた。その様子にうっとりしていると、お互いに相手が同じことを考えたのだと分かって、二体のアンドロイドははにかんだ。

 汽車が発車し、ガラスが震えだした。汽笛が見渡す限りの田舎風景に鳴り響き、案山子の腕にとまっていた雀が羽ばたいた。駅舎とプラットホームが遠ざかり、水田が跳ね返す光に溶け込むように消えていく。汽車は村落や森が散らばる山肌のなだらかな平野を進んでいった。

「炭酸の泡が水面にぶつかって消えるのを見ると」#67B2は同意を求めるようにたずねた。「ほっとしますよね?」

 うん、と答えて、♯882は言った。「泡は水面にぶつかって消えたんじゃなくて、空気に迎え入れられたんだって気がしてくる。これまで炭酸水のなかで一人ぼっちだった気泡が水面から飛び出したことで窒素や酸素、他の二酸化炭素たちに仲間として迎え入れられたんだって思えるからなんだろうね」

「人が死ぬのもそんな感じなんでしょうか? わたしはアンドロイドだから分かりませんでしたけど、そうだったらいいなと心から思うんです。ガラスにくっついてた泡が離れていくように魂も体から離れて上のほうへ、水面のような天国へ上っていって、それまで死んだたくさんの人たちの魂に合流する。そこでは魂は先に逝った愛しい人たちと再会することができるし、振り返れば水面を通じて、まだ生きている愛しい人たちを見守ることができるんです」

「きみは相変わらず微笑ましくなるほどにロマンチストだね」♯882はからかうように、だが、心から嬉しそうに言った。

「そうやって馬鹿にしますけど」#67B2は少し拗ねたように言った。「たぶん♯882さんの影響ですよ。わたしがこんなふうになったのは」

「そうかな?」

「そうですよ」

「本当に?」

「絶対そうです」

「そこまで言われると、そうなんだろうね」

「ね、そうだったじゃないですか」

「うん、そうだったね」

 そう納得して、二人はまたラムネを飲んだ。ビー玉が瓶のなかでコロコロと鳴いた。

「この音はさしずめ天に昇る魂の鳴き声です」#67B2が言った。

「また妙なことを言うね」

「人の魂は銀色に光る猫のような形をしてるんです。だから、これから天に昇るのがうれしくて喉を鳴らしてるんですよ。コロコロって」

「#67B2はもし引退できてたら、保母さんか物語屋さんになっていたね」

「銀色に光る猫は♯882さんが教えてくれた話にヒントを得ました」

 ああ、あれか。♯882は以前、#67B2に吾妻鏡の逸話を話したことを思い出した。なぜ刀の鞘に銀の猫がプリントされているのかたずねられたので由来を答えたのだ。鶴岡八幡宮で出会った西行法師と源頼朝が歌や武道のことで話し合い、楽しんだ頼朝は褒美として西行法師に高価な銀の猫を与えたが、西行法師は館を出ると、そばで遊んでいた子どもにその銀の猫を惜しげもなく与えてしまった、という話だ。この逸話を聞いた人は普通ならそんなふうに無欲に生きてみたいものだと思うが、#67B2は銀色の猫はどんな声で鳴くのかとしつこくたずねてきた。銀色の猫は生きている猫ではなく、銀でできた置物だから鳴かないと教えると#67B2はひどくがっかりしたのだ。

「♯882さんの銀の猫はコロコロと鳴くんですか?」#67B2はラムネの瓶を左右に軽く傾けてビー玉を鳴らした。

 違う。♯882の銀の猫はシャーッと鳴く。抜き様に異星獣を斬ろうと刃が鞘走り鉄がこすれたときのようにシャーッと鳴くのだ。

「そうだね」

 #67B2が仲間をかばって自爆する直前に見せたほっとしたような笑顔を思い出し、♯882は嘘をついた。

「嬉しくてコロコロ鳴くんだ」

 #67B2はそう聞くと嬉しそうに瓶の中のビー玉をコロコロと鳴かせた。

 ♯882はほっとした。安堵のあまり自分の強化骨格がガタガタに緩みそうなくらいだった。彼は嘘をつきながら、自分のついた嘘のせいでこの幻影がガラガラと音を立てて崩壊するような予感に襲われていたのだ。予感はむしろ確信に近かった。だが、何も起こらなかった。ビー玉にヒビが入り、空にヒビが入り、#67B2の嬉しそうな顔にヒビが入り、ガシャンと音を立てて大崩壊後の世界があらわれて、彼をマレー式の蒸気機関車と一緒に夜の砂漠に取り残していくようなことは起こらなかった。機関車は草原を走っているし、彼のビー玉は汽車がガタゴト揺れるたびに光を跳ね返しながらコロコロと音を立てている。そして、黒い髪でこげ茶色の瞳をした#67B2は幸せそうに目を細めている。ただ彼女の胸に飾られたトルコ石だけは、彼らの本当の瞳が何色か思い出させようと哀しげに光っていた。


 汽笛が鳴るたびに小さな森や雑木林から鳥たちが狂ったように飛び立った。それがわかっていたから機関士は汽笛を鳴らす前に鳥たちの王のごとく、おごそかに咳をした。王が広間にあらわれて、ゴホンと咳をすれば、おしゃべりする延臣たちを黙らせることができるのだ。事実、機関車が来ると、鳥たちはまだ鳴らぬ汽笛の予感に身をすくませ、飛び立つ準備をするためにさえずるのをやめた。汽笛が鳴らなくても飛ぶ臆病な鳥もいたが、彼らは汽笛よりもシリンダーの音や絶え間なく吐き出される黒い煙を恐れて飛び立つのだ。

 やがて、日が暮れて夜がやってきた。機関車の煙突が夜空に煌く全ての星を自分が吐き出す黒煙で覆い隠すという狂おしいまでに絶望的な目標を立てて努力しているあいだ、♯882は、#67B2の寝顔を見ていた。彼女はスリープ状態になっているのではなく、本当に眠っているのだ。最初はうとうとしていたのだが、やがて窓枠に頭をもたせて、目を閉じた。すると規則正しいリズムで胸郭が動き、小さく開いた口からは静かな寝息が漏れるようになったのだ。♯882は世界で初めて顕微鏡を使って雪の結晶を眺めた人のように驚きと憧れをもって、彼女の寝顔を見ていた。彼は彼女の目を覚まさないよう小さな声でつぶやいた。

「どんな夢を見てるのかな?」

 #67B2は自分が天使になった夢を見ていた。コロニーに住んでいる少女たちは無宗教でありながら仏壇のある家に住み、仏壇のある家に住みながら天使に憧れた。彼女たちは、天使とは肩から白い羽根が生えた美しい存在で分厚い雲のあいだから斜めに差す光の階段とともにあらわれるものだと信じていた。少数派だがミッション系の学校に通い、聖書にも一通り目を通したクリスチャンの少女たちは天使について、ラッパを吹いて世界を破滅に導いたり堕天して地獄の親玉になったりする恐るべき存在として認識していた。#67B2の天使は彼女たちの天使とは少し違った。白い羽根が生えているところまでは一緒だったが、彼女のなかでは天使は愛と歌、歌と幸福を司っていた。幸福無き愛を悲しみ、愛無き幸福を哀れみ、愛と幸福を結びつけるべく歌を授けてまわるのだ。天使となった彼女は歌を小鳥のさえずりや小川のせせらぎのなかにそっと織り交ぜ、愛と幸福がきちんと結びつけられるよう世界を見守っている。やろうと思えば、彼女は鉄鋼所や証券取引所の喧騒にも歌を織り交ぜることができた。すると、全ての作業と取引がぴたりと止む。真っ赤に焼けた鋼板を造ったり、殺到する売り注文を捌いていた男たちが歌に打ち震え、何もできなくなるのだ。歌を聴いた男たちは家族を愛し、そこに幸福を感じることだろう。世界が愛と歌、歌と幸福に満たされると、天使は宙へと上っていく。人が、建物が、山が、海が、地球が見えなくなるまで上っていき、最後に自分の愛と幸福を結びつけるための歌を唄うのだ。

 #67B2の寝顔は愛くるしく、幸せそうだった。

 汽車が停まった。車掌が駅の名前を告げて各車を歩いてまわった。駅の名前は聞いたこともない名前だったが、自分はここで降りなければいけないことだけは分かっていた。

「おやすみ、#67B2。いい夢を」

 彼は#67B2を起こさないように、静かに席を立ち、汽車を降りた。汽車が動き始めると、灯油ランプに照らされた窓際ではビー玉が瓶のなかで動いていた。ガラス窓が閉まっていたから、音は聞こえなかったが、きっとコロコロ鳴いたのだろう。

 コロコロ。

 それは風に乾かされた石が砂丘を転がる音。

 コロコロ。

 それは機関車のボイラーで宝石が転がる音。

 コロコロ。

 それは一人の少年型戦闘用アンドロイドが夢から覚める音。

 ♯882は瞼を開いた。そして、愛と幸福を歌でつなぎとめる#67B2そっくりの天使を夜空に探した。

 だが、天使はいなかった。

 天使のいない星空はただただ眩く、ただただ静かで、ただただ残酷だった。


 夜明けとともに機関車を捨てて西にかすかに見えていた山脈を目指して歩き始めた。数日後、砂漠は唐突に終わり、♯882の眼前には雪渓の裾が広がっていた。雪渓は切り立った崖に挟まれていたが、左の崖では椰子林が密集し、右の崖ではもみじが赤く色づいていた。砂漠と雪渓の境目に立った♯882は左手で砂漠の砂をすくった。砂は焼けるように熱く、もう一方の右手ですくった粉雪は凍てつく冷たさだった。両方の手を合わせると、ジューッと音を立てて白い湯気が立ちのぼり、常温の湿った砂団子が出来上がった。中空に初夏の太陽が輝き、左側から熱帯の風が、右からは枝を離れた紅葉混じりの秋の風が、そして雪渓の奥のほうからは冷たい冬の風が吹き降ろしてきた。

 大崩壊は様々なものに終止符を打ったが、四季の移ろいもその一つに数えられるかもしれない。母なる大自然は春夏秋冬をトランプのように切って、好きな場所にばらまいてしまった。

 しかし、こんなめちゃくちゃな気候を見せられても、♯882は、この世のどこかで桜がきちんと花を咲かせているという確信を抱き、歩を進めることができた。暦が狂いきったこの世界にはきちんと彼のための桜が用意されているし、彼がその花の下で動きを永遠に停止するときは必ず満月が上ってくるのだ。

踏むと膝まで沈み込む柔らかい雪の渓谷を♯882はゆっくり辛抱強く上り続けた。彼は気まぐれに体を粉雪のベッドに投げ出し、大の字型を残したり、固めた雪玉を転がして、それが徐々に大きくなり雪崩へと成長しないかわくわくしながら見守ったが、雪玉はたいていバスケットボールくらいまで成長すると、椰子の崖から吹き降ろしてくる熱風にもろにぶつかってしまい、割れて溶けてなくなってしまった。

 雪渓を挟んだ崖はお互い遠ざかったり近づいたりしていて、だいたい雪の谷間の幅はいつも五十メートルから三百メートルくらいになっていた。♯882はそのちょうど中間を歩くようにして進んでいた。だが、時には申し合わせたように椰子の葉と紅葉の枝が重なり合うくらいにまで崖が近づくことがあった。そこまでいくと雪渓は切り通しと名を変えた。刻み目のような崖の狭間からは常に向かい風が吹き、ひゅうひゅうと不気味な音で鳴きながら、粉雪を吐き続けた。来るものを拒むようなその様相にもかかわらず、♯882は切り通しの雪道に足を踏み入れた。恐ろしげな音を立ててまで侵入者を追い払おうとする何かがあると確信したのだ。すると、まず白い雪の道で、紅葉と椰子の葉の形に切り取られた眩い木漏れ日が彼の目を楽しませた。そこに風が巻き上げた粉雪が頭上の紅葉にぶつかると、冷たい空気で気がふれた紅い落ち葉が舞い落ちて白く輝く木漏れ日の上にひたりひたりと重なっていった。こうして雪と氷の切り通しは水晶の宮殿のように輝き、飾られていった。冷たさは気にならなかった。彼は今の時点でこんなに美しいのなら、夜明けや日の入りにはこの雪渓全体がどんなふうに色づくのか想像し、ため息をついた。

 切り通しを出るころになると、山頂の向こうへ陽が沈み、陰った雪渓では冬の支配がいっそう強まった。夏の空気と秋の空気がそれぞれの崖へと押し戻されると、粉雪はいっそう軽やかに舞うようになった。

 ♯882は空の残照がなくなるまで歩いて、そこで止まった。周囲五十メートルにはただ雪だけがあった。銀の削り屑のような月が宙にかかっていた。空に配置された無数の星々を眺めていると、時おり灰色とくすんだ真珠色の雲の塊が彼を包み込み、そして離れていった。

 形を変えながら遠ざかっていく雲をぼんやりと見ていた♯882は突然立ち上がると、自分の感情コードがえぐられるような喪失感と正義が実行されていないときに沸き起こる不公平さを感じていることを発見した。そして、気がつくと両手で粉雪をすくえるだけすくい、力いっぱい息を吹きつけた。飛び散った粉雪は星空から降る柔らかな光を跳ね返し、ほんの一瞬だけ風にたなびくカーテンのような像を結んだ。像はあっという間に崩れ、粉雪は煌きながら、舞い降りて消えていった。

「違う。そうじゃない」

 ♯882は何度も雪をすくっては息を吹きつけた。そのたびに光に照らされた粉雪は王冠、イルカ、梯子、取っ手つきのアラビア式コーヒー鍋、イタリアの刀匠が作る錐のような短剣の形をした像を結んでは消えていった。それらは彼が見たい像ではなかった。彼は納得せず、雪をすくい続けた。

 一晩、彼は雪をすくっては吹きつけ、宙にきらめく粉雪をじっと見ては違うとつぶやいて、まるでそこに見たいものが隠されているかのように雪をすくった。東の地平線に光がにじみ始め、星空が宙空の頂上へと追いやられ始めたが、彼は星空に向かって雪を吹くのをやめなかった。

「頼む。見せてくれ」

 何に祈ればいいのか分からないまま、彼はそうつぶやき、雪に息を吹きつけた。その瞬間、まるで歌うような風が吹き、粉雪が曙光の筋に重なった。雪渓を杏色に染めた光と歌う風に乗った粉雪が出会って初めて見えた。それは天使だった。

 #67B2そっくりの美しい天使が羽根を広げて、歌いながら宙へと舞い上がろうとしていた。

 粉雪の煌きが結んだ像はほつれるようにして消えた。

 だが、♯882は空から目をそらさなかった。

 彼には確かに見えていた――愛と歌、歌と幸福を司る天使が薄れつつある星空へと昇っていく姿が。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 美術館の絵画を巡るようなきれいなお話でした。 #882や#67B2の思いや心、求めるものが、きれいな情景描写と相まってとてもきれいな万華鏡のようでした。 とても面白かったです。
2017/09/04 10:34 退会済み
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[一言] #882の幻想的で孤独な旅路ですね。彼のアンドロイドらしからぬ物想いや、脳内再生されるカラフルな映像がたまりません。大崩壊に至った経緯や#882のこれからに想像が膨らみます。……玉三郎が感じ…
[良い点] 洪水のような怒涛の表現、それを構成する語彙力がすごいです。綺麗な大量の文の嵐が水の描写を際立たせていたと思います。 [一言] ただ、個人的な好みの問題ですが、文章の密度も若干過剰な気がしま…
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