僕の夏休み
名前の響きがその印象に与える影響は大きい。例えば「おっぱい」。ひらがな五十音の中で最も柔らかい「ぱ行」の音「ぱ」を心臓部に持ち、「お」と「い」という母音で挟む(ボインだけに)。そうして生まれた奇跡の響き「おっぱい」は、「おっぱい」を実際の「おっぱい」以上に「おっぱい」たらしめる重要な役割を担っている。その点我々「ゴキブリ」は酷い。文字列の過半数を濁点が占めるこのゲテゲテしい名称は、ただでさえ悪過ぎる我々のイメージをより悪くする原因になっている。「ぽわぽわ」とか「はにょはにょ」とかだったら、人間ともっと仲良くなれたのかなあ。
図々しくも古都京都のど真ん中に居座る総合大学から徒歩10分の距離にある、木造2階建て、家賃2万円、風呂トイレ共用、いや風呂「便所」共用の学生アパート。その一角に私たち一族の住処がある。私たちがここに住み始めてから約15年。4年から8年のサイクルで入れ替わる男子大学生はどいつもこいつも小汚く、そのおかげで一族は食うに困らず住むに困らず非常に快適で幸せな日々を過ごせている。しかし私たちは同居人に姿を見せてはいけない。人間というものはなぜかゴキブリを見ると人が変わったように殺しにくるからだ。自分たちよりずっと小さい私たちの存在を彼らは決して許そうとしない。私たちは彼らに害を与えるわけではない。噛んだり刺したりもしないし、変な病気をうつしたりもしない。まあご飯の食べ残しなんかをちょっとだけいただくことはあるのだが、そんなもの彼らのサイズからしたら微々たるものだ。彼らはなぜか私たちゴキブリをアシダカグモの様に嫌っている(彼ら人間は極めて嫌い、死んで欲しいくらい嫌い、勘弁してくれ、という時に「ゴキブリの様に嫌い」と言うらしい。失礼な話だ)。まあ、私は人間に見つかったことがないので、これも全て聞いた話なのだが。
盆地であることを最大限に活かした快適な蒸し暑さが京都を包み込む8月上旬。私を含めて3匹のゴキブリが家主の食べ残したポテトチップスコンソメパンチをありがたくいただいていた。
「焦らんと食べや。今日は家主さん帰ってきいへんからな」
3匹の内一際大きなゴキブリが父である。普段は大人しい印象のあるゴキブリで、一族の中でもおっとりパパとして舐められがちな父なのだが、実は一族で一番速くて強いことを私は知っている。一度私がアシダカグモに見つかって食べられそうになった時に、目にも留まらぬ速さで助けてくれたことがある。その時の父の勇敢な背中は私の憧れであり目標にもなっている。しかし、みんなを心配させてしまうからと、このことは誰にも言っていない。男同士の秘密なのだ。
「まだまだいっぱいあるからたくさん食べなアカンで。育ち盛りなんやから」
父に比べて華奢な体のゴキブリが母である。息子の私から見ても母は美しい。若い頃は街中のゴキブリが母見たさに部屋に押し寄せたものだ、というのはおしゃべりな伯母(母の姉にあたる)が酔っ払う(私たちゴキブリは酔っ払って眠った家主の飲み残しを失敬することがあるのだ)度に繰り返す自慢話だ(その時の家主は大変だったろうなあ)。そんな母が父と結婚すると聞いた時は京都中のゴキブリがひっくり返ったそうだが、おそらく母も父の本当の姿を知っているのだろう。
「こうやって家族3人で美味しいポテチをお腹いっぱい食べられるなんて、お父ちゃん幸せやわあ。家主さんに感謝せんとなあ」
「あんた、そんな甘いこと言ってたらアカンで。家主も人間なんやから。見つかったらすぐ殺されてまうんやで」
「まあまあそう怒らんと。家主さんは今旅行中なんやから、ピリピリするだけ損やで」
家主が大きなキャリーバッグを持って2日経つ。あの荷物の大きさなら1週間は帰ってこないだろう、というのが一族一の物知りである長老ゴキブリの見解だ。家主がいない間はクーラーも消しっぱなしなので、いつも以上に快適な室温が保たれている。
「こんな幸せな時間が一生続けばええのになあ」
袋の隅の一際美味しい部分を黙々と食べながら、「その通りだ」と私も思った。
家主が家を長期間留守にすることは珍しい。慣れない幸せに私は油断してしまっていた。そんな私を引き止めなかった両親も今思うと気が抜けてしまっていたのかもしれない。快適な真夏日の快適な真っ昼間。私は隣の部屋へ行ってしまった。
私たちは人間からご飯をいただいているのだが、年々強力な武器を揃える人間の前に姿を現すのは非常に大きな危険が伴う。だから私たちは、絶対に同じ人間の部屋にしか入らない。そうすることでその人間の生活習慣、クセ、隙などを学び、遭遇のリスクを減らしているのだ。数えきれない程のゴキブリが暮すこのアパートで毎年数十匹しか人間に殺されていないのは、徹底して人間から身を隠す、この用心深さの賜物である。
しかし、その日、私は好奇心が抑えきれなくて隣の部屋に入ってしまった。人間の怖さを忘れてしまっていたのかもしれない。ドキドキしながら未知の世界に乗り出した私は、そこで出会ってはいけないものに出会ってしまった。
懐かしい、というのが第一印象だった。隣の部屋はじめじめと蒸し暑く、昼間なのに薄暗かった。そして、土の匂いに包まれていた。その匂いは私の遺伝子の遠い記憶を刺激した。部屋の住民は留守らしい。昼間なので学校にでも行っているのだろう。触覚を凝らすと壁際に金属製のラックが設置されていることがわかった。土の匂いはラック積まれたプラスチック製の水槽から漂っていた。私はラックに引き寄せられた。
ラックを恐る恐る覗き込むと、そこには穴の空いた木が置かれていて、その上に美味しそうなゼリーが乗っていた。食欲と理性と好奇心と恐怖心に引っ張られて、進めも戻れもせずに立ち尽くす私は、穴の中から呼びかける声で我に返った。
「自分、誰? 何してんの?」
穴の中から出てきた姿を見て、私は最初ゴキブリかと思った。しかしゴキブリにしては頭から大きな角みたいなものが生えている。足の毛も少ない。しかし少なくともクモではないらしい。私は思い切って水槽の中に飛び込んだ。
「私は隣の部屋を縄張りにしているゴキブリです。あなたもゴキブリ……ではありませんよね……?」
「ああ、隣の部屋のゴキブリか。いっつも見るやつとはちゃうなあって思っててん。俺はゴキブリちゃうで。まあでも似た様なもんやし仲良くやろうや。これでも食べえ」
自分と瓜二つの茶色いやつは、頭の角でゼリーのカップを押し出してきた。
「良いんですか? こんな美味しそうなもの貰っちゃって」
「かまへんかまへん。人間が毎日置いて行くんやけど、あいつら量わかってへんねん。こんなでっかいゼリー食べきれるわけないやん」
「どうして人間がここにゼリーを置いていくんですか?」
土の上で保存しないといけないゼリーなのかな、と思って聞いた私に、角のやつは当たり前のように驚くべきことを口にした。
「どうしてって……。俺、人間に飼われてんねん」
ゴキブリに角が生えたような、この気前の良い虫は名前をカブトムシさんというらしい。ペットショップと呼ばれる場所で生まれ、この部屋の家主に買われたのだそうだ。
「俺らペットショップ生まれは人間に飼われることが当たり前やからな。そんなに驚かれるとは思わんかったわ」
自分たちゴキブリと同じような姿かたちをした虫を人間がわざわざお金を払ってわざわざ買い取って、わざわざ家に持って帰ってわざわざ育てるという話がすぐには信じられなかったが、信じられないくらい美味しいゼリーを初対面のゴキブリに何のためらいもなく渡すカブトムシさんの姿を見ると、あながち嘘とも言い切れない。こんな透明の箱の中で逃げも隠れもしないで生活しているのに殺されていない、ということが話の信憑性を更に高めている。
「人間が怖くはないんですか? 殺される心配はないんですか?」
当たり前の質問をしたつもりだったのだが、カブトムシさんは何も知らない子ゴキブリに素っ頓狂な質問をされたかの様に吹き出した。
「人間が怖い? そんなわけないやん。殺される? そんなもったいないことせえへんやろ。あいつら結構高い金払って俺らのこと買ってんねん。死んだりしたら泣きながら墓作りだすで」
私は今まで人間は怖いものだと思って生きてきた。見つかったらすぐに殺されるのだと思って生きてきた。だから私は人間と向かい合ったことがない。少しでも気配がすると隠れてしまっていたからだ。しかし、本当に人間は怖いのだろうか。見つかったらすぐにゴキブリを殺すのだろうか。ゴキブリそっくりのこのカブトムシさんという虫が幸せそうに人間に飼われている姿を見て、私は人間というものがわからなくなった。
「まあ人間もいっぱいいるからな。みんながみんな俺らのこと好きって訳じゃないと思うけど、おんなじ様に、みんながみんな俺らのこと殺すって訳じゃないんちゃう? 現に俺、生きてるし」
別れ際に聞いたカブトムシさんの言葉が私の頭と心を掴んで離さなかった。
カブトムシさんの部屋に行った2日後、家主が帰ってきた。朝方帰宅した家主はすぐに布団に潜り込み、今もまだぐっすり眠っている。
「帰ってきちゃったなあ」
「いつもの生活が戻ってきただけやねんけどな」
父も母も寂しそうな顔をしている。逃げも隠れもしないで好きなものを好きな時に好きなだけ食べられる生活はやっぱり楽しかったし、できることならずっとそんな生活を続けていたい。それは父と母だけではなく、この部屋を縄張りにしている一族全員の思いであるはずだ。もしかしたらまたあの幸せな生活に戻れるかもしれないんだよ、というのはまだ私ひとりの心の中にしまいこんでいる。みんながみんな優しいわけではないが、みんながみんな怖いわけでもない、というカブトムシさんの言葉を聞いてから、私は心に決めていることがあった。家主と仲良くなることだ。それさえ実現できればもう私たちは逃げも隠れもしなくていいし、人間の食べ残しを、恐る恐る、命がけで食べに行く必要もなくなるのだ。そのためには今の家主がどちら側の人間なのか見極める必要があった。確率が高いのか低いのかはわからない。しかしゼロではないことだけは確かだった。じっくりと時間をかけて見極めてやる。そう思っていたのだが、事態は思いのほか早くに動いた。いや、動いてしまったと言うべきなのかもしれない。
家主が帰ってきた日の夜だった。私は押し入れの隙間からじっと家主の姿を見つめていた。家主が私たちを受け入れてくれるのかどうか、判断できる材料を絶対に見逃さないでいようと思っていた。夜の7時を回った頃、けたたましいアラーム音が鳴り響き、家主がのっそり起き上がった。布団をたたみ、押し入れに片付けた。押し入れを開けた時に目が合ったと思ったが、家主は何事もなかったかのように部屋の片付けを始めた。目が合ったのは気のせいだったのだろうか。それとも家主は私たちを殺さない側の人間なんだろうか。心の中で期待が一瞬顔をもたげた。
部屋を片付け終わった家主は部屋の真ん中に折りたたみ式のテーブルを出して、その上に白くて大きな箱を置いた。箱を開けて中を覗く家主の顔は幸せそうに微笑んでいる。中に何が入っているのか。ここからでは全く見えない。私はそっと押し入れから抜け出して壁を登った。あぐらをかいてニヤニヤ笑う家主の顔が真正面に見える高さまで登った時、箱の中身を見ることができた。私は壁から落ちてしまう程の衝撃を感じた。期待が確信に変わった。箱の中には赤黒い色をして、足がたくさん生えている、巨大な虫のような生物の死体が入っていた。テーブルの上をよく見ると、箱の隣には鍋が置いてある。家主はこの巨大な虫を食べるつもりなのだ。もう間違いない。家主は私たちを受け入れてくれるはずだ。こんな巨大な虫を嬉しそうに眺める家主が私たちのようなちっぽけな虫を恐れて殺すはずがない。私は勝利を確信した。父と母の幸せそうな顔が頭に浮かんだ。そういうことなら善は急げだ。私が家主と話を付ける。私は思い切り壁を蹴って、一族の幸せな未来を思って羽ばたいた。羽ばたく音で私の存在に気づいてくれた家主がこちらを見ている。私は家主の側に降り立った。家主の顔はまだ笑顔のままだ。
「家主さん、私はゴキブリです。あなたに危害を加えることはありません。噛みませんし刺しません。変な病気を移すこともありません。ただ少し、少しで良いんです。たまに食べ物をわけていただきたいのです。決してご迷惑はおかけしませんので、私たち一族をあなたの部屋に置いていただけないでしょうか」
私は叫んだ。祈るように叫んだ。父のため、母のため、一族のため、そしてこれから生まれてくる全てのゴキブリの未来のために、力の限り声を届けた。
しかし思いは届かなかった。届いたのかもしれないが、決して受け入れられなかった。突然降り掛かった白い霧を吸い込んだ私の体は痺れ出し、呼吸がどんどん苦しくなった。どうしてこうなってしまったのか。薄れゆく意識の中で私は必死に考えた。家主は虫が嫌いではないはずだ。私たち一族は家主に快く迎え入れられて、安全で幸せな日々が始まるはずだった。しかしそれは夢だった。私の儚い妄想だった。もうほとんど動けない私の体に、家主はいつまでも白い霧を吹きかけ続けた。
「あ、もしもし? 俺俺。なんかうちにゴキブリ出ちゃってさあ。もう凍ったわ。悪いんやけど場所変えてくれへん? なんかまだどっかにいる気がしてさあ。大丈夫大丈夫、カニは無事やから。とりあえず鍋とカニだけ持ってお前んち行くから。こっち来てから初めて見たわ。1匹おったら100匹おるんやろ? 怖いわあ。明日バルサン焚かなあかんな」