15-(4)
引き続き、ユイのマンションにて。
「ピアノ、十数年ぶりって、言ってたよね…?」
しかも、楽譜なんてこの部屋にはない。譜面を暗記しているという事になる。
「覚えているもんだな、自分でも驚いてるよ」
「…私のために、封印を解いて弾いてくれたのね」
返事は当然ない。
私は横に座って、彼の肩に、そっと頭をもたせかけた。
「弾きたくなったら、いつでも来てね」
「ありがとう」今度は素直に礼が返って来た。
けれども。
こんな和やかなムードは、すぐに終了となる。
「最近、いつも時間が取れなくて悪いね」彼が腕時計を気にし出したから。
「これから発つんでしょ。相変わらずお忙しそうね、新堂先生は」
私も慌てて姿勢を元に戻す。
「でもまだ、あと少しは大丈夫だ」横に座る私を見て言う。
「勢いついでに、もう一曲、弾こうか」
「嬉しい!」予想外の展開に、本気で喜んでいた。
私は隣に座ったまま、彼の指が、再び鍵盤を滑るように動くのを眺めた。
次に彼が弾いたのは、たぶんワルツ。
たいていワルツというのは、楽しい曲のはず…。
「ねえ?どうすればワルツが、こんなに悲しい曲になる訳?」演奏を終えた彼に言う。
「悲しくなったのか?」
彼の目を見て頷く。
「もうすぐ、しばしの別れだからな」今度はおどけた感じで返された。
最近やっと覚えた。この人のこの言い方が、冗談だという事を。
これまで散々、ドキリとさせられて来たセリフの数々!
「話をすり替えないの!そういう事じゃなくて…」
ふいに彼が、私をじっと見つめて来た。
「な、何?」
「私がピアノをやめたのは…」彼がそこまで言って口ごもる。
「限界を感じた?」と代わりに続けて言う。
「そう。表現の問題だ。どうやっても、明るく晴れやかな表現ができない。それが、致命的だと言われた」
やっぱり彼には、普通の人の感情というものが、ないのかもしれない。
楽しい曲も、この人の手にかかれば、悲しみの曲になってしまう?
それでも、私は思った。これはこれで、悪くないと。
「表現って、人それぞれじゃない?逆に言えば、これはあなたにしかできない表現って事よ。世界で、たった一つのもの」
「私は好きよ」最後の言葉だけは、彼を真っ直ぐに見て言った。
本心からの言葉だから。
彼にちゃんと伝わったかは不明だけど。
「…そろそろ、行かなければ」彼が立ち上がった。
立ち上がった彼が、ポケットに手を突っ込んで、何かを取り出した。
「これ、ユイに、持っていてもらいたい」
「何?」
差し出されたのは、部屋の鍵のようだが。
それは、前に渡された事のある、宿泊用マンションの鍵とは違う。
防犯対策を施した、最新式の型のものだ。
「どこの鍵?」薄々分かってはいたが、あえて尋ねた。
「私の部屋のだ」
やっぱりね、と思いつつも、「な、何で私が?!」と当然の反応。
「これからしばらく、留守にするので。何かあったら対応してもらいたい」
「何よそれ…。私、管理人って事?」
部屋探しは手伝ったけれど、私は不動産屋じゃない!
「ある意味…管理人よりも、おまえの方が頼りになりそうだ」
これまた意味不明な発言。褒められているのか、貶されているのか。全く不明!
「…ダメか?」
そう言った新堂さんの表情が、何だか悲しそうで。
私は、思わず首を横に振っていた。
「そんな事ない」
両手を差し出して、彼からスペアキーを受け取る。
「私のも、あなたに預けてあるしね。分かったわ」
「助かるよ」
「でも、私だって不在がちだから、いつも対応できる訳じゃないからね?」
「ああ。分かってる」
「まあ…気が向いたら、郵便物くらいは、部屋に運んどいてあげるわ」
彼は何も言わなかったけれど、笑顔だった。
カッコいい…。そんな珍しい表情に、つい見惚れてしまう。
「では、もう行くよ」
「あ!ええ。気をつけて」不意打ち的な声を受けて、一人でドギマギした。
そして彼はというと。
いつものように、あっさりと部屋を出て行ったのだった。




