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大嫌いは恋の始まり  作者: 氷室ユリ
第二章 いつの間にか育まれていたもの
75/215

15-(4)

引き続き、ユイのマンションにて。


「ピアノ、十数年ぶりって、言ってたよね…?」


 しかも、楽譜なんてこの部屋にはない。譜面を暗記しているという事になる。


「覚えているもんだな、自分でも驚いてるよ」

「…私のために、封印を解いて弾いてくれたのね」


 返事は当然ない。 

 私は横に座って、彼の肩に、そっと頭をもたせかけた。


「弾きたくなったら、いつでも来てね」

「ありがとう」今度は素直に礼が返って来た。


 けれども。


 こんな和やかなムードは、すぐに終了となる。


「最近、いつも時間が取れなくて悪いね」彼が腕時計を気にし出したから。


「これから発つんでしょ。相変わらずお忙しそうね、新堂先生は」

 私も慌てて姿勢を元に戻す。


「でもまだ、あと少しは大丈夫だ」横に座る私を見て言う。

「勢いついでに、もう一曲、弾こうか」


「嬉しい!」予想外の展開に、本気で喜んでいた。


 私は隣に座ったまま、彼の指が、再び鍵盤を滑るように動くのを眺めた。


 次に彼が弾いたのは、たぶんワルツ。

 たいていワルツというのは、楽しい曲のはず…。


「ねえ?どうすればワルツが、こんなに悲しい曲になる訳?」演奏を終えた彼に言う。

「悲しくなったのか?」


 彼の目を見て頷く。


「もうすぐ、しばしの別れだからな」今度はおどけた感じで返された。


 最近やっと覚えた。この人のこの言い方が、冗談だという事を。

 これまで散々、ドキリとさせられて来たセリフの数々!


「話をすり替えないの!そういう事じゃなくて…」


 ふいに彼が、私をじっと見つめて来た。

「な、何?」


「私がピアノをやめたのは…」彼がそこまで言って口ごもる。

「限界を感じた?」と代わりに続けて言う。


「そう。表現の問題だ。どうやっても、明るく晴れやかな表現ができない。それが、致命的だと言われた」


 やっぱり彼には、普通の人の感情というものが、ないのかもしれない。


 楽しい曲も、この人の手にかかれば、悲しみの曲になってしまう?

 それでも、私は思った。これはこれで、悪くないと。


「表現って、人それぞれじゃない?逆に言えば、これはあなたにしかできない表現って事よ。世界で、たった一つのもの」


「私は好きよ」最後の言葉だけは、彼を真っ直ぐに見て言った。


 本心からの言葉だから。

 彼にちゃんと伝わったかは不明だけど。


「…そろそろ、行かなければ」彼が立ち上がった。


 立ち上がった彼が、ポケットに手を突っ込んで、何かを取り出した。


「これ、ユイに、持っていてもらいたい」

「何?」


 差し出されたのは、部屋の鍵のようだが。


 それは、前に渡された事のある、宿泊用マンションの鍵とは違う。

 防犯対策を施した、最新式の型のものだ。


「どこの鍵?」薄々分かってはいたが、あえて尋ねた。


「私の部屋のだ」 

 やっぱりね、と思いつつも、「な、何で私が?!」と当然の反応。


「これからしばらく、留守にするので。何かあったら対応してもらいたい」


「何よそれ…。私、管理人って事?」

 部屋探しは手伝ったけれど、私は不動産屋じゃない!


「ある意味…管理人よりも、おまえの方が頼りになりそうだ」


 これまた意味不明な発言。褒められているのか、貶されているのか。全く不明!


「…ダメか?」


 そう言った新堂さんの表情が、何だか悲しそうで。

 私は、思わず首を横に振っていた。


「そんな事ない」

 両手を差し出して、彼からスペアキーを受け取る。


「私のも、あなたに預けてあるしね。分かったわ」

「助かるよ」


「でも、私だって不在がちだから、いつも対応できる訳じゃないからね?」

「ああ。分かってる」


「まあ…気が向いたら、郵便物くらいは、部屋に運んどいてあげるわ」

 彼は何も言わなかったけれど、笑顔だった。


 カッコいい…。そんな珍しい表情に、つい見惚れてしまう。


「では、もう行くよ」

「あ!ええ。気をつけて」不意打ち的な声を受けて、一人でドギマギした。


 そして彼はというと。


 いつものように、あっさりと部屋を出て行ったのだった。



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