15 ピアノの音色(1)
二日後。
長い長い夜が明けた。
使い慣れた自分のベッドの上で、目を覚ました。
「新堂さん…」
私はなぜか、この人の名を口にしていた。
彼が視界に入ったのではない。
側にいてくれたらいい、と、強く思ったから。
「申し訳ない、起こしてしまったな。気分はどうだ?」
新堂さんは、リビングのグランドピアノの前にいた。
蓋を閉じる音だけが聞こえた。ピアノを、弾いていたのだろうか…?
彼が私の方にまっすぐやって来る。
この部屋は、リビングと並列で続き部屋になっている。
扉は付いているけれど、たいていは開放してある。
私はどうも密閉空間が苦手のようで…。それで車もオープンカーなのかもしれない。
それはさて置き。
こんな広過ぎるリビングに、最近新しいインテリアを新調した。
それが、この真っ白なグランドピアノ。
習うつもりはなく、飾るため。
声の方に顔を向けた途端、鈍い痛みが左胸を走って、思わず顔をしかめる。
「しばらくは痛むだろうが…」彼が、私を見て言葉を切った。
続きを待っていると。
「私のあの時の傷よりも、遥かに損傷部位は小さい。それに何しろ、この私が処置をしたんだから完璧だ」
いきなり自慢話になった。あ~、はいはい!そう心の中で答える。
やはり、この人から優しい言葉をかけられる事はなさそうだ。
気を取り直して、心境を告白する。
「あの時は、…何が起きたのか、分からなかった」
仕事中に、こんなケガを負ったのは初めてだった。死までも覚悟した。
どうもアイツが絡むと、冷静さを失う。
そんなだから、こんなケガをしてしまったのだ。
キハラ師匠に顔向けできない…!
そんな事を思って、唇を噛んでいると。
「やっと、恩返しの第一弾、だな」彼が微笑んで、静かに言う。
「え?」
シャツを腕まくりしたその左腕に、針の跡を見つけた。
血を分けてくれたようだ。
私達は、世界に数人しかいない特殊中の特殊、ナルという血液の持ち主。
「もう…。あなたって案外、義理堅いのね」
過去に私が、二度ほど血を分けていたから、その恩返しという訳か。
そんな彼の顔色は、どことなく優れないように見えた。
「ねえ?無理しなくても良かったのに…。新堂さん、何だか具合悪そう」
「心配には及ばない。献血量としては、ごく一般的な範囲だ。単なる疲労さ」
自分の額に手を当てて言う。
彼が、海外から帰ったばかりだった事を思い出す。
「…ごめんなさい。また、巻き込んでしまって」
「謝る必要などない。おまえは悪くないだろ」私の頭を軽く叩きながら言う。
そんな彼と目が合う。久しぶりのこのシチュエーション。
気のせいかもしれないけれど…。
以前の、凍えるような視線とは違う、気がする。
「ところでユイ。あのピアノ、どうしたんだ?」
彼がここへ来るのは、二ヵ月ぶりになるだろうか。
だから、あのピアノとは初対面だ。
「この間、衝動買いしたの。ステキでしょ、白のグランドピアノよ!」
「ベーゼンドルファーか…懐かしい。思わず触れてしまったよ、十数年振りに」
「え?新堂さん、ピアノ持ってたの?」
「私が持っていた訳ではない。まあ、いろいろあってね。それにしても、あれはかなりの上物だぞ」
ピアノの方を振り返って言う。
「そうなの?ピアノについてはあまり詳しくないの。そうすると、私の見る目は正しかったって事ね!」つい嬉しくなって自慢げになる。
そして。嫌味攻撃を予想して身構えた。
けれど、彼は何も言って来なかった。
肩透かしを食らった私。
「新堂さん?」何の反応もない彼に、思わず呼びかける。
「ああ。済まん。ちょっと考え事を…」そう言って、私の方に向き直った。
「ねえ、そう言えば。義男のヤツに万年筆でどうとか言ってたのは、聞き違いかしら?」
ふいに、あの時の光景を思い出す。
「ああ、言ったよ。何しろ武器を持ち合わせていなくてね。これならザクッと行くかな?って思ったのさ」
高価そうな万年筆を内ポケットから抜き取って見せてくれる。
「それって、まさかその投げたヤツ…?」見たところ、血は付いてないようだ。
「そんな訳あるか、別のだ。あれも気に入っていたんだけどな…」
「一体、何本持ってるの…?そんな高そうな万年筆!」
冷やかしのつもりだったのに、「ああ、高いぞ。これは確か、十万くらいだったかな」と、あっさり返されてしまった。
「まあ、ステキ!だけど。敵が皮手袋でもしてたら、通用しなくってよ?」
拳銃の弾はともかく、万年筆は刺さらないと思う。
「今度はメスの一本でも、懐に忍ばせておくのね」
「ふざけるな。メスは武器ではないと言ったろう」
この時、彼は本気で怒っている様だった。
「金輪際、敵を仕留めろなどという、無理な要求はしてくれるなよ?」
そう続けた時の表情は、いつもの彼だったけれど。
「あら、ごめんなさい。で、十万の万年筆は、武器としてどうだった?」
しばし目を合わせた後。
新堂さんが両手を広げて首を振った。
「さて。私はちょっと出て来る。おまえは絶対安静だぞ、いいな?」
「体が固まっちゃうじゃない。ストレッチくらいさせてよ」
「私の指示を無視するなら、もう一度、応急処置をさせてもらった、あっちの病院へ放り込んでもいいんだぞ?」顎でその方角を示しながら言う。
現場近くの病院で処置をした後。
病院スタッフの反対を押し切って、自宅へと連れ帰ってくれたらしい。
私が病院を嫌っているから…などという事はないだろう。
たぶん、自分の都合だ。
何せ、無免許医が一般の病院に、長居できるはずがない。
「あ~!それだけは勘弁!分かった分かった。大人しくしてます!」
彼は無言で無表情のまま、部屋を出て行った。
「…新堂に優しさなんて、求めてないし!」
わざと声を張り上げて言ってみる。
何を考えているのか、一向に分からないもどかしさを、紛らわすため。
そして。彼に惹かれつつある自分を、牽制するために。




