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すぐにシャワー室に駆け込んで、ドアを固く閉じる。
沈黙に耐えられない…。蛇口を開いてお湯を出し、急いで音を立てる。
これで、自分の心臓の音だけを聞かなくて済む。
そのうち温かい湯気に包まれ始めて、ようやく気分が落ち着いて来た。
驚くほど体が冷えていた事に気づき、しばらくは体を温める事だけに専念した。
およそ二十分後。
服がびしょ濡れだったので、仕方なくバスローブ姿で男の前に出て行く。
彼はソファに深々と身を沈め、寛いだ様子でブランデーを味わっていた。
姿を見せた私に気づき、手招きをしている。
固まる私。
「さて。ではまず先に、君の値段を聞こうか」
「私の、値段…」
予想はしていたけれど、こんなにも直球の質問に黙り込むしかない。
「そういう目的で、ついて来たんじゃないのか?」
間近で見下ろされる。
その目はまるで、獲物を狙っているタカのように鋭かった。
こんな状況にも関わらず、こういう目、結構好き!などと思う私は、やっぱりどうかしているのだろうか?
目の前に停まったリムジンが、どこか別の世界から来たカボチャの馬車に見えた。
このうんざりする世界から、私を連れ出してくれるかもしれないと。
そう訴えたかった。でも、こんな考えは子供じみている。
沈黙をかき消すべく、意を決して口を開く。
「…五万」それは文字通り、蚊の鳴くような声だったはず。
「おいおい!自分を安売りするもんじゃない。遠慮はいらないぞ?」
「え…?」
この時自分は、相当間の抜けた顔をしていたに違いない。
「五十万でいいな。キャッシュで払うよ」
沈黙していた私をよそに、彼は勝手に金額を決めてあっさりと言って退けた。
平静を装いたいのに、どうしても全身の震えは止まってはくれない。
動こうとしない私に、彼の方が近づいて来る。
「震えてるじゃないか」彼が耳元で囁く。
「髪がまだ濡れてるから…」
とっさに誤魔化そうと、半乾きのセミロングの髪に手をやる。
「おいで」
彼がゆっくりと近づき、私を抱き寄せる。
バスローブが肌蹴て肩が露わになる。
その時、私のバッグが床に落ちた。
中から、あろう事か学生証が飛び出しているじゃない!
音に反応した彼。視線を移し、落ちた物を拾い上げる。
学生証には、紺のブレザーにライトグレーのネクタイを締めた制服姿の自分が、不機嫌そうに写っている。
「君は、高校生か…」やや驚いた様子で告げられる。
「だったら何?」バレた…。
私の答えに、彼は目を閉じた。
「ふふ…。あと四年ほど経ってから出直して来い」
「なぜ?どうして今じゃダメなの」
「女子高生と寝る趣味はないんだ」私に背を向けて言い放つ。
「子供扱いしないで。私はもう大人よ、ちゃんと一人で生きてるわ!」
私の答えを聞いて振り返った彼を、真っ直ぐに見上げる。
「金のためか」頭上から、冷たい視線が注がれる。
「そうよ。軽蔑でも何でもしてよ」
「あんな所で、何をしていた」男が話題を変えた。
「雨宿り。傘、持ってなかったから」
「雨宿りがてら、未成年が堂々と喫煙か!」
「まだ…吸ってなかったけど?」
何しろ火を点けた直後に、ダメにしてしまったのだから。
「まあいい。金が欲しいなら、親にねだればいいじゃないか」
「あなたはそうできたかもしれないけど、私には頼れる親はいないの」
「フフ…!俺か。確かに、体は売った事ないな」笑いながら言う。
「私だって!」
「良く言うよ。あっさり俺の誘いに乗ったくせに」間髪を入れずに言い返される。
「あなたがお金持ちなら、何かいい話をもらえるかと思っただけよ」毅然と返す。
「いい話って?」
「だから…、仕事先とか。とにかく、お金になる話よ!」
「そんなに稼いでどうする。大方、遊ぶ金だろ?」
見下すような言い様に、「遊ぶ暇なんてない。学費に生活費、諸々よ。それと、母の入院費用に手術代」とすぐさま答える。
「全部、君が払うのか?学生の君が!」
「おかしい?世の中、こんな生活を送る女子高生もいるの!」
そう声を張り上げつつも、私はまだ震えていた。
しばらく彼は、私を眺めていた。
「受け取るといい」
やがて財布から金を取り出すと、ベッドに放り投げた。
「え?でも…」
交渉は決裂したはずなのに。混乱した頭でその理由を模索する。
「君は服が乾くまでいるといい。俺は帰る」
彼は私を残したまま、部屋を出て行った。
閉まったドアを見つめて、しばらく呆然と立ち尽くす。
「本当に、貰っちゃうんだからね」
独り言を呟きながら、驚くほどスプリングの利いたベッドに乗り、散らかった札束を拾い集める。
集め終えて、窓の方に目をやる。
その時はじめて、眼下に広がる、見た事もない夜景に気がついた。
それは本当に、見た事もない程に眩い景色だった―――
王子様は、カボチャの馬車には乗りません?