夏に咲くたんぽぽ
私が初めてその花を知ったのは、いつごろのことだったろうか。
細くて固い、筋張った茎に、たんぽぽを一回り小さくしたような花。夏に咲くその花を、自分勝手な理由で私は嫌っていた。たんぽぽに似ているくせに、たんぽぽじゃないから嫌い。茎が固くて、子どもには摘むのがちょっと大変だから嫌い。摘んだら摘んだで臭い汁が指につくから嫌い。密集して生えているときは、細い茎がもじゃもじゃと絡まっていて、なんとなく触りたくなくなるから嫌い。――どうでもいいような理由がたくさん集まって、小さな私はその花が、いつの間にか嫌いになっていた。
まあ、最近は悪くないなって思ってるよ。そう呟きながらも私は、摘んできたもっと好きな花――たんぽぽを花瓶に挿した。腐りやすいし虫がつきやすいから部屋に置くには向かないのだけど、それでもこの、底抜けに明るい色が大好きだ。ふわっと広がる花弁が、チアガールのぼんぼんに似ていて、そこに居てくれるだけで、応援されているような勇気を分けてもらえる。
たんぽぽに虫がつきやすいのは、きっと、こんなに可愛いからに違いない。茎は結構青臭くて、生命力も高くたくましい、したたかさを隠し持った花なのだけれど、それでも単純な虫は可愛さに釣られて寄ってくる。
だから、たんぽぽみたいに明るくて可憐なお姉ちゃんに、虫がつくのも必然のこと。
お姉ちゃんは菊池家に春に生まれた子どもだから、菊池春日。夏生まれの私は菊池千夏。春に咲く菊だなんて、お姉ちゃんはまさしくたんぽぽだ。
「お姉ちゃん。今日、駅前通りで彼氏と歩いてた?」
「もうバレた⁉」
「近所で一緒に歩いてたら、そりゃ見つかるじゃん」
お姉ちゃんは良く食べる。おやつに、ジャムを塗ったトーストを食べている。イチゴジャムの、人工的な鮮やかさの赤が口の中に消えていくのを、私はキッチンに立って見ていた。冷蔵庫からプラスチックのボトルに入ったミントティーを取り出した。ミントティーは茶葉が高いけど、お母さんが大好きなので、好きなだけ飲めるように麦茶で使うような大きなボトルで淹れているのだ。コップに注ぐと、鼻に抜けるでもない中途半端でちょっと優しい清涼感が広がった。
お姉ちゃんは口に入れたものを飲み込むと、なんでもない風に言う。
「まあ、もう別れるつもりなんだけどね」
「え、なんで? 遠目に見た感じだと、イケメンだったと思うんだけど。それに、誠実そうな雰囲気だった」
「絶対遠目じゃなくて、近くで見たっしょ」
もちろん、至近距離から見た。私は顔立ちや背格好はお姉ちゃんに似ているんだけど、お姉ちゃんより遥かに目立たない。地味で暗くて存在感が薄いのだ。だから、人ごみに紛れ込んでいれば家族にすら気づかれなかったりする。そのせいで、高校の口さがない人たちからは「陰キャ」と言われることもあるのだけれど。服装が地味で、人見知りで、大声でしゃべったりせず、友達が片手で数えられるくらいしかいないだけなのに。
お姉ちゃんは小さくため息をついた。
「まあ、カッコいいのは認めるよ。でも、見た目だけでしたわ―。わたしのこと、外見しか好きじゃないのが丸わかり」
「うわー、どっちもどっちだね」
「じゃかぁしいわ!」
どこかの方言で突っ込んで、お姉ちゃんはけたけたと笑った。
「まあ、なんていうの? こう、粘着系の人だから、別れるのにも苦労しそうなんだけどね。プライド高いし」
「へぇ。ずいぶんとまあ」
そう言っておきながら、お姉ちゃんは全く深刻そうな表情は見せなかった。妹の私には、多少ぶっちゃけた話はしてくれるし、ぐだぐだしている姿も見せてくれる。それでも、心配になるような姿を見たことはない。いつも、たんぽぽみたいにまっすぐに上を向いて、鮮やかに咲いている。でも、どうしてだろうか。さっきのトーストの色が、頭にこびりついて離れない。
「どうして、果物の色は美味しそうに見えるんだろうね?」
冷たいプラスチックのカップを手に、友達とショッピングモールを歩く。中に入っているのは、イチゴやらなんとかベリーやら、よくわからない細々とした果物が入った、フラぺなんとかだ。なんとかベリーのなんとかかんとかフラぺなんとかの、グランなんとかサイズ。覚えて、さらに噛まずに言わなければならない。メンタルが弱い私は、店員さんの前で噛んだりしたら恥ずかしくてたまらないので、完璧に言えるようになるまで、何分も看板を凝視することになった。私の中で、世界で一番手に入れるのが難しいドリンクだ。苦労した甲斐あって、ドリンクは甘酸っぱいのにクリーミーで、飲んでいるだけで幸せになれる。
「うーん、どういう意味?」
私は聞き返した。
土曜日のショッピングモールは暇そうな人であふれていて、通路では母親の手を離れた小学生が走り回っている。まだ春なのに、人間が出している体温の独特の暑さがあった。平日も暇だろうに、老人たちまで手持無沙汰な様子でうろうろとしている。空いているベンチがあったので、そこに二人で腰かけた。
「紫のブドウも、赤いイチゴも、緑のキウイも、黄色のみかんも、どれも美味しそうだよね。不思議じゃない? 果物以外だったら、美味しくなさそうなのに。紫のお米や黄色のお肉があっても、私はぜったい食べない」
「あー、なるほど。見慣れてるからじゃないかな。生まれたときから紫のお米を食べていれば、きっと、紫のツヤとかで『美味しそうな紫だなぁ』とか言うようになるよ。きっと」
「まあ、そうかもしないけど」
エレベーターを眺めながら益体もない話をする。
「そういえばさ。この前動画サイトで関連動画サーフィンしてたらさ、中国のエレベーター事故の動画があってさ。なんか人が降りてる途中で」
「おいやめろ」
食欲がなくなる話題の気配がしたから、事前に止めておいた。
「こうしてエレベーター眺めててさ。不審者とか幽霊とか降りてきたらビビるよね」
「だからやめろ」
「チカって、ノリ悪いよね」
「それこそが私の個性だからね」
「切な……」
彼女は頭にくる発言が多いが、それでも、一番大事なところをちゃんと押さえてくれるから好きだ。千夏じゃなくてチカって呼ぶあたりとか。この微妙なイントネーションと、その意味をわかってくれる人は少ない。説明しても、納得したようなしていないような、曖昧な笑みを浮かべられる。たぶん、理解されていない。
エレベーターのドアが開いた。二階に入っている本屋さんの袋を下げた、見覚えのある顔の男性が降りてきた。彼の視線は私の表面を滑って素通りし、そして、振り返って私を見直した。驚いた様子で、こちらに一歩近づく。
「春日?」
そう言われ、気づいた。お姉ちゃんの元カレ予定だ。未来形で元カレとは、ややこしい。現在系に直すと彼氏なのだけれども。
スポーツをしていそうな、爽やか系の顔で、身長も顔面偏差値も申し分ない。ただ、顔つきになんとなく、教室で声が大きい偉そうな連中と共通点があるような気がした。
「いえ。姉のお知り合いですか?」
そう言うと、彼は驚いた顔をした。
「なんだ、妹さんか。春日によく似ているんだね」
それから彼は、お姉ちゃんの友人だと自己紹介した。何を思ってのことか、わからない。
なぜか、交換することになったメールアドレスから、着信が来た。無駄に明るい文面に視線を落とす。
――彼も、お姉ちゃんとの終わりを感じているのかな。
なんとなく、そう感じた。根拠はないけれど、そんな気がする。
私が嫌いだった花。
夏に咲く、見間違えるほどタンポポに良く似た、同じキク科の花。
名前はブタナという。
誇り高くて、真っ直ぐ空を目指すダンデライオン。
そんなたんぽぽになりたくて、なれなくて、でも見てくれだけは良く似たブタナ。
たんぽぽが去った後、綿毛との別れを惜しむ人を慰めるように、黄色の花を咲かす雑草が、私は嫌いだった。
たんぽぽの劣化版にしか見えない、その花が嫌いだった。
夏に咲くブタナも、夏に生まれた千夏も嫌いだった。
私は、なんか甘い言葉を囁いているメールに、お姉ちゃんの代わりじゃないんだよって返信をして、ケータイの画面を消した。
まぁ、でもさ。
最近は悪くないと、思ってるんだよ、ブタナもさ。