第八話 まるで口付けするように
夕食の席で昼間撮影した写真を披露した。デジタル一眼レフでの撮影は、普通、RAWデータと呼ばれる特殊なフォーマットで記録される。明るさやカラーバランス、露出のダイナミックレンジのコントロールを撮影後にパソコンで調整できるのだ。この作業を現像という。もともとは撮影フィルムに行う処理を指す言葉だが、デジタルの時代になって内容は変わったのに、呼び名がそのまま使われ続けているのが面白い。
午前中に撮影した建物の写真は、記録写真というよりはアートに近い仕上がりに調製してみた。それがどうやら気に入ってもらえたようだ。とりわけ雨は全身で感激をあらわしていた。スゴーイ、キレーイ、カッコイイの三語を繰り返して飛び跳ねて喜んだ。
「あたしたちの写真は?」
洋館や森の写真にひとしきり感激したあと、待ちかねたように雨が口を開いた。
「まだ現像が終わってないんだ。明日見せるよ」
現像作業をしなくても、メモリカードに記録された画像は見せることができる。しかし建物ならともかく、経験の少ないポートレート写真を、自分でチェックする前に彼女達に見せる自信はなかった。今夜一人でじっくりセレクトして、色味やコントラストを調製してから見せるつもりだ。
ディナーのボルシチをスプーンでつつきながら、雨はちょっとだけ不満そうに頬を膨らませる。一瞬の表情を切り取る写真には、時々おかしな表情が撮れてしまう。まばたきをする瞬間とか口を開ける途中とか、写真に収めるとどんな美人も台無しになることもある。そんなものを雨に見せたらどれだけ文句を言われるかわからない。下手をしたら機嫌を損ねて、もうモデルをやめると言い出しかねない。
ロシアの家庭料理に合わせたのか、飲みやすくカクテルにされたウォッカが出たが、僕は少しだけ飲んで夕食の席を立つ。
「今日も一緒にお酒が飲みたかったのに、残念ね」
現像作業の事情はわかっているはずなのに、雲さんがそんな言葉を僕に投げかける。振り返って苦笑いで応じた。
部屋に置いておいたノートパソコンに撮影データを転送させる。午後から撮ったポートレートは数百枚に及んだ。転送にも時間がかかりそうだ。全部の写真を確認して良い写真をピックアップし、現像を完了するまで一晩かかってしまうかもしれない。ユニットバスに湯を張って、ゆっくり風呂に浸かりながら現像の手順を頭の中でシミュレートする。
それにしても雨を撮ったときのあの興奮は一体なんだったのだろうか。
初めてこの部屋で出会ったときの彼女を思い出す。初対面の男に無防備に近づいて、まるで娼婦のような妖艶な表情で僕の目を覗きこんできた雨。
あんなタイミングで一目惚れされるなんてことはないだろう。彼女は僕をからかっていたのだ。そんなことはわかりきっていたのに、ドギマギした自分が情けなかった。
今まで女性と付き合ったことがないわけじゃないけれど、美人に目の前で意味深なセリフを言われたまま、それに合わせることも受け流すこともできない。完全に僕の負けだった。
彼女は僕に嫌われるとは思わなかったのだろうか。おそらくは自分の容姿に絶対の自信があったのだ。彼女の顔は鋭利で流麗な曲線で構成されている。そのボディラインは、無駄な贅肉をそぎ落としたファッションモデルのようだ。まだ出会って一日半ほどしか経っていないが、性格も明るくて感情豊かで悪いところが見当たらない。
だからこそ……だ。だからこそ、そんな彼女に迫られると、本気であるようにはとても思えない。
そう、彼女は慌てる僕の姿を見て楽しんでいたのだ。一気に不快感が全身を被う。美人だからといって、やっていいことと悪いことがある。
今度近づいてきたら僕は怯まない。逆に彼女を押し倒してやる。相手の反応を見て楽しんでいるような女だったら、即座に手のひらを返して怒りだすか、泣きながら逃げ出すことだろう。
もしそれでこの洋館を追い出されるハメになっても構わない。どうせ大した報酬がもらえるアルバイトでもないのだ。
そう決めて、僕は湯船からあがった。バスタオルで体をぬぐい、腰に巻きつけたままの姿でバスルームから出ると、机の前に雨が座っていた。
雨は僕のノートパソコンを操作して、昼間に撮った自分達のポートレートを見つめていた。
「……」
絶句した。ドアにはカギをかけておいたはずだけど、一体どこから入ったのだろうか。
「ノックしたけど返事がなかったから入っちゃった。そこのドアから」
そう言って隣の部屋との間のドアを指差す。
「これ本当にあたしなの? スゴーイ! 綺麗!」
そう言って無邪気にはしゃぐ彼女。それを見ていると、勝手に部屋に入られたことなんかどうでも良くなってくる。少なくとも雨が怒り出すような写真はなかったようで安心した。
落ち着いてきたら、いたずら心が芽生えてきた。このまま黙って近づいて、後ろから雨に抱きついてやったら驚くだろうか。
もし彼女が怒ったら、冗談だと言って笑ってごまかそう。これは昨日の仕返しだ。
雨はモニターに写る自分の水着姿を食い入るように見つめている。
そんな雨に背後からゆっくりと近づき、両腕を彼女のうなじに回し。
そのまま抱きしめて、頬を彼女の右頬に。
まるで口付けするように。
雨は驚いて声を上げ、僕の腕を振りほどいて椅子から立ち上がる...はずだった。
だが、彼女は首にからみついた腕を捕まえると、振り向いて僕に口付けをした。まるで、ごく普通の恋人同士のように。あるいは僕の行動が最初からわかっていたかのように。
驚かされたのは僕の方だった。彼女は唇を重ねたまま上半身をひねって僕に抱きついてきた。柔らかな胸の感触が、薄い生地に包まれて僕の胸に強く押しつけられる。背中には彼女の腕が蛇のように巻きついてくる。
こんなはずではなかった。彼女は悲鳴を上げて飛びのくか、目に涙をためて僕を非難する予定だったのだ。僕は雨のそんな反応を期待していたのに。そうでなくてはいけなかったのに。
彼女の肩をつかんで乱暴に引き離した。
そこで僕は見てしまった。彼女の上気した表情に浮かんだ微笑みを。
僕は部屋を飛び出した。
廊下を走り、階段を駆け下りて食堂に入り、リビングのソファーに崩れるように座り込んだ。
美しい女性と抱き合ってキスをしたばかりだと言うのに、幸せな気分などどこにもない。
彼女はどうして。どうしてあんな真似をするのだろうか。
雨はそんなにも僕を嫌っているのだろうか。
僕はそんなにも彼女に嫌われているのだろうか。
まるで運命のように巡り会えた最高の被写体を、こんなことで失うわけにはいかなかった。
一瞬の逡巡。
このまま部屋に飛んで帰って仲直りしよう。文句を言われるかも知れないし、簡単には応じてくれないかもしれないけど、僕はもっともっと彼女を撮りたい。
雨の機嫌をとるための、とっておきの魔法の呪文を頭の中で反芻しながら階段を上がりドアをあけると、もうそこに彼女の姿はなかった。