第六話 おはよう。よく眠れた?
気配を感じて目を覚ますと、目の前に雲さんの顔があった。
「おはよう。よく眠れた?」
昨夜はTシャツにパンツ姿のまま眠ってしまったのだと認識するまで三十秒ほど費やし、再び雲さんの顔を見る。僕の脳細胞はまだ実用回転数まで上がっていない。
「あ、おはようございます」
「朝ご飯ができてるから食堂に来てね」
そう言い残すと、雲さんは素っ気なく部屋から出ていってしまった。
ひょっとして下着姿で寝ていたのは失礼だったかもしれない。でも彼女だってキャミソールにショートパンツで起しにきたのだからお互い様だ。
そんなとりとめのないことを考えながらジーンズを履いて食堂に入ると、すでに三姉妹はテーブルについていた。
霧ちゃんは昨日と同じような清潔なサマードレスを着て、昨日と同じ可愛らしい髪型だった。そしてうつむいた無表情までも昨日と同じだ。
今朝の雨も、わりとおとなしい格好をしている。髪をポニーテイルに結っていて、服だって肩こそ出ているものの妹と同じような真っ白なワンピースだ。彼女だって清楚な格好をして大人しく座っていれば一端のお嬢様に見えるのだ。
そう思ったのもつかの間、窓から刺しこむ朝日の中でよく見ると、布地が透けてブルーの下着が見えていた。いや、あれは水着なのだろうか。でも朝食の席に水着を着てくるものなのか。
そんなことを考えながらぼおっとしていたら、視界に雨の瞳が入った。無意識のうちに雨の正面に座り、彼女を眺めていたようだ。雨はウインクしていたずらっぽく笑った。
「いま何見てたか当ててあげようか」
心の中を透視してしまいそうな瞳を僕に向けて、雨は首をかしげる。彼女の瞳が、唇が可憐から妖艶に一瞬にして切り替わるその刹那を目の当たりにして、まるでスタンガンの電流が、尾てい骨から背骨を這いあがってくるような衝撃を覚える。
彼女は、その武器の破壊力をわかって使っているのだろうか。
「これでしょ?」
そう言って彼女は胸元をずり下げるとブラに包まれた胸の谷間を見せた。百二十五分の一秒だけ凝視して僕は目を伏せる。
からかわれた。
一瞬にしてわき起こった怒りと恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じる。
「あははははははははは。透くんってシャイなんだー」
そう言って笑う彼女。
雲さんが雨の頭に拳を落とす。
「いたーい!」
雨が叫ぶ。喧噪の中、霧ちゃんは黙って分厚いトーストをかじっていた。雨のこんなノリは日常茶飯事ということらしい。
食事を終えた僕は、早々に食堂を出る。恥をかいた現場から早く逃げ出したかったし、撮影に向けて洋館の周囲の散策もしてみたかった。
玄関を出て前庭にまわると、割と背の低い木がたくさん植えられていた。下向きに垂れ下がったラッパのような花をつけている。その木の横で作業をしている男性に声をかけた。
「綺麗ですね。なんだかすごく大きいけれどアサガオですか?」
「キダチチョウセンアサガオです。夏の花というのはどれも大輪で見事ですよね」
こちらを振り向くと、日焼けした肌に長髪が似合う、彫りの深い顔立ちをした中年男性だった。
「昨日からお世話になっている狩屋と言います。洋館の写真を頼まれまして」
「聞いてます。ここへ時々庭の手入れにやってくる渋谷です。
この洋館は歴史のあるすばらしい建物です。ぜひ奇麗な写真に残してください」
この人もこの洋館が好きなのだろう。花を見るのと同じ、優しい表情でレンガ壁を見上げる。
「建物の周りはあたしが案内するわ」
振り返ると雲さんが立っていた。両手によく冷えてそうな飲み物を持っている。
「はい、渋谷さんご苦労様。熱射病にならないようにね」
一つを彼に、もう一つを僕に渡す。レモンを一切れ浮かべたアイスティーだった。
「ありがとうございます。お嬢様」
ああ、彼女達はやっぱりお嬢様なのだと改めて思う。僕はこれまでの人生で、お嬢様なる人種との接点がまるでなかったからいまいちピンと来なかったけど。
そういえば昨夜飲んだワインもきっと高級品だったのだろう。それがどれだけ良いものだったのか庶民の僕には残念ながら想像もできない。
せっかくなので、そのお嬢様に手を引かれて、建物のまわりをぐるっとまわってみることにした。
背の高い広葉樹に囲まれた土地なので、夏の強い日差しがさえぎられ柔らかな陰影を形作る。光の効果で、乾いたレンガ壁がまるでしっとりと濡れているように見える。その見せかけの湿度にカメラを向けてシャッターを切る。空気の温度が低く、画面は青みがかって写った。
何度もペンキを塗り重ねられた鉄製の窓枠。その上に張り出した特徴的な軒。玄関ポーチの飾り屋根。それら洋館を構成している要素の一つ一つを、さまざまな角度から丁寧に写真に収めていく。
同じ被写体を同じ方向から撮っても同じ写真にはならない。撮影者の主観が被写界深度を、シャッタースピードを、構図を、ホワイトバランスをそれぞれ調整するフィルターとなって作品に影響を与える。
頭の中で組み立てたシナリオに従って、夢中でシャッターを切りつづける。気がつくと太陽は真上に来ていた。
「もうお昼過ぎたわ。恵理子さんのおいしいランチが待ってるわよ」
雲さんは、僕の集中力が途切れる絶妙のタイミングを待って声をかけてくれる。僕の意識が現実の時間の経過を認識し始めると、途端に胃袋が空腹感を訴え始めた。
昼食は、家政婦の恵理子さんがオーブンで焼いた、自家製のピザとシーザーサラダだった。
オリーブオイルと細かく刻んだバジル、荒挽きコショウを使ったピザに食欲を大いに刺激され、腹いっぱいになるまで食べてしまった。