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第三話 長女『雲』

 東京から東北方面に向かう特急でおよそ三時間。そこからローカル線に乗り継いでさらに四十分。到着した場所は無人駅だ。周辺にパチンコ屋、ハンバーガーショップ、レンタルビデオショップ、それに古めかしい喫茶店が見える。駅の裏側には大きな建物があるが、何の建物だかわからない。

 小さなロータリーにはタクシーが二台停車していた。クラウドさんのメールによると、ここからバスに乗るようだ。出発までまだあと三十分近くもある。梅雨が明け、東京でも真夏日を観測する日が増えてきた夏休みの中盤。ここI県でも、太陽は僕の頭上で燃え盛っていた。

 仕方なくバスが来るまでの間、冷房が効いた駅前のハンバーガーショップで遅めの昼食をとりながら、途中の車窓から撮った風景をチェックしていた。

 

 バスがロータリーに入ってきたことに僕はまったく気がつかなかった。それはどう見ても路線バスには見えない、ワンボックスカーだったからだ。ハンバーガーショップのおばさんが親切に教えてくれなかったら、乗り逃がしていたかも知れない。

 僕が車に近づくと、初老の運転手が気軽に声をかけてくれた。駅前のロータリーからは普通の路線バスも出ているが、目的地の谷津峰村に行くのはこの車だけのようだ。山を超えていくのでタクシーには嫌がられ、路線バスも通っていない陸の孤島らしい。運転手は元郵便配達人で、定年後に暇をもてあまして生活物資の配送などを請け負っているとのことだった。

 車内は適度にエアコンが効いていて快適だった。運転手の観光案内や自慢話に適当に相槌をうちながら、僕は眠気を感じていた。

 僕は旅があまり好きじゃない。小さい頃からどこかに遊びに連れていってもらった記憶はないし、親戚もいなかったから東京を出ることはほとんどなかった。中学や高校に入ってから、友達と夏の海に出かけたり、免許を取った仲間の運転でドライブに行ったりもしたけれど、旅行そのものが楽しいと思ったことは一度もなかった。

 ただ、住んでいる場所を遠く離れることに強い不安を感じるばかりで、そんな自分のネガティブな面を人に気取られないように、わざと頻繁に出かけたりもした。写真を撮るのも、ひょっとしたらそうやって出不精の自分を外に連れ出す口実だったのかもしれない。

 曲がりくねった峠道をいくつも越えて一時間ほど走ると、道路沿いに小さな商店と住宅が見えてきた。車はコンクリートの二階建ての建物の前で停車する。谷津峰村役場と書かれた建物だ。

 運賃はすでに支払われているらしい。運転手は香春崎かばるざきのお嬢様によろしく伝えてください、と言って去っていった。香春崎とはクラウドさんの本名だ。彼の妹達はこの辺りの有名人なのだろうか。たしかに美人姉妹なのだが。

 

 そんなことをぼんやりと考えながら待ち合わせ場所の村役場の前に立っていると、数分も経たずに一台の車が近づいてきた。銀色のドイツ車だ。運転席の窓が開き、中からボブカットの女性が僕に呼びかけた。


「トールさんですね。はじめまして、クラウドです」


 てっきり男性だとばかり思い込んでいたクラウドさんは、例の写真の左端に写っていた大人っぽい女性だった。今はブルーのノースリーブにクロップドパンツを履いている。

 指示されるまま助手席に乗りこんでシートベルトを締めると、車はゆっくりと加速をはじめた。


「クラウドこと香春崎かばるざきくもです。あんまり田舎なんでびっくりしたでしょう?」


 ほんとにびっくりしたのはクラウドさんが女性だったこと...なんだけど、そんなことは口には出さない。

 名前が雲だからクラウドということか。


「妹達も、来てくれるのを楽しみにしてたのよ。トール君の本名、教えてもらえるかな」


狩屋かりやとおるです。透明の透。雲さんて本名なんですか。珍しいですね」


「そうかなあ。昔から呼ばれてるからわからないけど……。妹は『あめ』と『きり』だもの。お天気姉妹だよね」


 曲がりくねった峠道を見事なハンドル捌きで駆けぬけながら、雲さんは微笑む。写真の知識といい、車の運転の腕前といい、見た目とは違って男っぽい人なのかもしれない。

 バッグからデジタル一眼レフをとり出し、窓の外に向けて何枚かテストショットを撮った。コーナーで左右に揺すぶられながら彼女にレンズを向けるタイミングを計っているうちに、車は舗装路を外れて砂利道に入ってしまう。それから目的地はすぐだった。

 目の前にそびえる洋館は、イメージしていたものよりずっと立派で荘厳だった。写真で伝わる情報などたかが知れているものだ。近づくにつれて迫ってくる圧倒的なディテールが、視神経に流れ込んで脳の中で飽和していく。

 これを写真に残すのが、今回の僕の仕事なのだ。

 辺りを見回して、無意識のうちに太陽の方角や周囲の樹木の位置を確認する。洋館の佇まいに気を取られ、ふと気づいて辺りを見回すと、大きなステンドグラスがはめ込まれた玄関の前で雲さんが僕を待っていてくれた。

 

 案内されるままに洋館の中に入って、吹き抜けになった玄関ホールの天井を見上げる。円筒形に湾曲した壁に沿って配置された階段を登ると、そこは二階の廊下だった。等間隔でドアが並んだ廊下には毛足が長い絨毯が敷かれてまるでホテルみたいだ。

 雲さんは階段に一番近い部屋に入っていく。靴を履いたままの彼女に習って、僕も土足のままついて入った。


「疲れたでしょう。夕食までまだ時間があるから、ゆっくりしてて。七時になったら一階の左側の食堂に来てね。食事しながら撮影のお話をしましょう」


 そう言って微笑むと、彼女は部屋を出ていってしまった。

 腕の時計を見る。スイス製の機械式クロノグラフが、四時を少し回ったところを指していた。もう写真を撮っても構わないのか聞きたかったのだけど。

 僕にあてがわれた客間は、寝室にしては広い作りだ。少し大きめのベッドと机、小さいテーブルと椅子が二脚。入り口以外にドアが二つある。一つを開けてみるとトイレ付きの浴室だった。各部屋に風呂とトイレがあるのはさすが洋館だ。もう一つのドアはロックされていて開かなかった。

 部屋にはLANコネクタや無線LANどころか、電話さえも無かった。インターネットへの接続はあきらめるしかなさそうだ。

 窓を開けて部屋の空気を入れ替える。ガラスのサッシの外側に木製のよろい戸がついていた。よろい戸を左右に開くと、眼下に広大な芝の裏庭が広がっていた。真っ白なサマードレスを着た少女が花壇に水を撒いている。

 高い位置で左右にわけたツーテールの黒髪。ノースリーブから出た白い肩は、セクシーさよりも幼さを強くアピールしている。中学生くらいだろうか。雲さんの写真に写っていた少女だ。

 そう思った瞬間、彼女はなんの前触れもなく振り返ってこっちを見上げた。大きく見開いた瞳がまっすぐ僕を見つめる。そのまま三秒。持っていた散水ノズルを放り出すと、彼女は振り返ったときと同じくいきなり駆けだして見えなくなってしまった。

 驚かせてしまったようだ。雲さんの妹だろう。彼女に似て整った顔つきにはまだあどけなさが残り、まるで……。


「まるで天使のよう?」


 独白の続きを言い当てられて、心臓が止まりそうなほどびっくりした。

 振り返ると少し開いたドアの隙間から、片目がこっちを覗いていた。その光景にまたびっくりする。僕の驚きようを見て、片目は満足そうに細められてクスクスと笑う。

 雲さんかと思ったが、雰囲気が少し違う。ゆっくりとドアが開くと、ストレートロングの黒髪の女性が現れた。ピンクのキャミソールにデニムのショートパンツを履いている。顔は雲さんに似ていた。

 サンダルを履いた細くて白い脚に目がくぎ付けになっていると、上目使いに微笑む顔が視界に入る。かがんだ彼女の少し開いた唇から、ちょっとだけ舌先が覗いている。


「窓から何を見ていたの?」


「庭の花壇を見ていたんだ。ひまわりがたくさん咲いているね」


「あら、そう」


 彼女の目がすぅーっと細められる。なんだか心の中まで覗かれているような気がして、ちょっとだけひるんでしまう。


「狩屋透です。君は、雲さんの妹さんかな?」


「次女の雨です。庭にいたのは三女の霧よ」


 うーん。僕が何を見ていたかどうして彼女にわかったのだろうか。


「ねえ、あなたのカメラを見せて」


 急に彼女は僕に近づいてきた。

 いったいなんて言った? 僕の何を見せろって?

 心臓が急激に回転数を上げる。

 僕のカメラやレンズはベッドの上に置いてあるけれど、彼女の目はそんなもの見てはいない。

 あっと言う間に二人の距離はもう五十センチを切ってしまった。

 彼女の両目は僕の瞳を覗きこんで小刻みに揺れる。

 耐えきれなくなって目を伏せると、今度は彼女の唇が視界に飛び込んできた。ピンク色のグロスが僕の視神経に深く突き刺さる。

 彼女の胸が僕の胸に押しつけられる。もう唇は目の前だ。

 再び彼女の目に視線を戻す。あと二十センチ。

 彼女の細い腰に僕の両腕が無意識のうちに伸びていく。


「透くん、夕飯の用意ができたわよ」


 廊下から雲さんの声がした。驚いてドアを振り返る。


「透くん、寝てるの?」


 ふと我に帰った僕は、しびれたようになっている頭にむち打って状況を整理する。


「着替えてないよね? 開けるよお」


 そう言ってドアノブがゆっくりと回り始める。

 これはひょっとしてヤバい事態なんじゃないだろうか。いや、僕は自分の部屋にいるだけで何もやましいことはしていないはずだ。

 無意識のうちに雨を隠そうとして僕の両手が空を掻く。視線を戻すと、彼女は跡形もなく消えてしまっていた。

 同時にドアから雲さんが顔を見せる。僕の背中には冷たい汗が流れていた。


「透くんどうしたの? びっくりした顔して。何してたの?」


「いえ、まだ何もしてません」

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