第十話 最後のプレゼント
午後に医者から経過を聞かされ、退院の許可を得た。腹の刃傷の抜糸はまだだったが、頭の方は無事のようだった。MRI検査の結果にもなんの異常もなかった。しかし、僕の思考はちりぢりに乱れ混濁としてしまっている。
神田はテレパスを得るチャンスを失い、『彼女』は自我そのものを失った。そして僕は美しい雨と優しい里美さんと、そして大切な霧を亡くした。
なんてことだ。誰一人として報われていないじゃないか。
その夜、僕は病室のベッドでなかなか寝付くことができなかった。たくさんの人が自分一人のせいで死んだのだ。急に強烈な感情の波に襲われて、しばらくの間シーツを噛んで慟哭した。
すべてを失ってしまった。
何もない。もう僕には何も残っていない。
これから先、どうやって生きていけばいいのだろう。
わずかに明るくなった窓の前に女性が一人立っている。ほっそりとした長身に黒いストレートのロングヘアだ。真っ白のサマードレスを着ていた。彼女は僕に向かって静かに微笑んでいる。霧が帰ってきたのだと思った。いや、雨にも似ている。
そう言えば、彼女達はもともとよく似た姉妹なのだ。
彼女は僕に手を差し伸べて言った。
「透君。自分を責めないで」
雨なのか? でも僕の声は音にならない。
「あなたはあたしにたくさんのものをくれたわ」
彼女はそう言って自分の身体を抱きしめる。
「だからあなたにもお返しをしようと思うの」
伏せていた視線を上げると、濡れた睫毛の向こうから揺れる瞳が僕をとらえる。その目は笑っているように見えた。
そして僕は検温にきた看護婦に起こされる。
夢の中に出てきた『彼女』が言いたかったことは何だったのだろう。僕が『彼女』に与えたもの、『彼女』が僕に返すもの。それは一体何なのだろう。
退院の準備をしている間に、刑事が二人やってきた。初めて見る顔で、どうやら今度は本物の警察のようだ。
刑事の話によると里美さんの事件は犯人が自供したためそのまま起訴されるらしい。僕に対しての傷害についての話も出たが、今は何も考えられない。
霧についても聞かれたが、彼女の実家から連絡があって先に帰したと話した。本職の刑事に僕の嘘が通じたとは思えないが、幸いなことにそれ以上追求されずに済んだ。
ふと気になって、同じ病院に入院している里美さんの父親について聞いてみた。父親は事件の前後から意識不明の危篤状態に陥って、今も回復していないらしい。父親として娘の死を知らずにいられることは、はたして幸せなのだろうか。そんなことをぼぉっと考えていた。
病院の入院専用の会計窓口に顔を出すと、すでに治療費と入院費は支払われていた。カワダという人が払ったとのこと。あの河田のおばちゃんのふてぶてしい顔が目に浮かぶ。息子が犯罪者になってしまった今、あの顔も神妙になっているだろうか。
考えてみれば僕と霧があの写真館に転がり込まなければ、犯人があんな凶行に及ぶことはなかったかもしれない。そう思うと、自分のやったことの何から何までが悪い結果をもたらしたような気がしていたたまれなかった。
タクシーを呼んでもらおうとしたら、受付の女性から鍵を渡された。僕宛に預かっていたものだと言う。それは僕と霧が乗ってきたセダンのキーだった。入院患者専用の地下駐車場にあると教えてもらい、エレベーターで地下に降りると停まっているセダンがすぐに見つかった。
蛍光灯に照らされた車は、あちこちボコボコに凹んでいて、埃だらけだった。こんなに汚かったのかと改めて驚く。
夢に出てきた雨の『お返し』とはこれのことなのか。自然に笑みがこぼれる。事件のあと、初めて自分が笑っているのに気が付いた。
逃亡の旅に出発した時と同様、僕は長い長い真っ直ぐな道路を走り続けていた。
間宮写真館には立ち寄らなかった。置いたままになっている自分のカメラや機材もどうでもよかった。彼女達を撮ったデータは奪われてしまっただろうし、もう撮るものもない。
高速道路を走りながら、ふとこのままアクセルを踏み込んで空の彼方まで行ってしまおうかと考える。でも、うまく死ねなかった場合のリスクとか、他の車を巻き込んだ時の被害や賠償金を請求される親の事を考えたら、頭は冴えるばかりでどうにもその気になれなかった。
大人しく実家に帰ってしばらくのんびりしよう。通院できる病院を探さなければならないし、警察からも連絡があるだろう。
道の先にサービスエリアの看板が見えてきた。軽い空腹感に誘われてウインカーを出して側道に入る。こんな時でも腹は減るものらしい。
駐車スペースを見つけてエンジンを止めると何か異音がするのに気がついた。
何かを叩く音がする。耳を澄ませてみると、声のようなものも聞こえる。周りを見渡すが何もおかしい様子はない。まさか……。
僕は急いで車を降りると、トランクを開けた。
するとそこには、黒いゴシックロリータのドレスを着た少女が横たわっていた。
毛布とタオルケットが何枚も丁寧に敷き詰められたトランクの中は、まるでコウノトリが運ぶバスケットのようだった。
彼女は眩しそうに目を細めて僕の顔を見上げると、突然火がついたように泣き出した。そして僕に向かって助けを求めるように両手を伸ばしてくる。
僕は思わずその手をとってしまった。少女の背中に腕を回して抱き起こしてやると、彼女はトランクルームの床に立って僕の首にしがみついてきた。
この娘は雪なのか? でも雪は病室で死んだはずだ。それに双子のもう片方も霊柩車を運転して事故死したはずだ。あのとき霊柩車に乗り込んだ人影は、これとまったく同じ黒いドレスを着ていた。
ついさっきまで、罪悪感と後悔の念に押しつぶされていた脳が新たな答えを模索して回転を始める。
この娘は何らかの理由によって死んだように見せかけられた。そして今この娘は泣きじゃくり僕にしがみついている。それはつまり……。
僕は自分の出した結論に驚愕する。果たして、そんなことが可能なのだろうか。でも、これ以上、理論的な解答は思い浮かばない。
「ずっとここにいたのか?」
僕は彼女の頭を撫でながら聞いた。
彼女は泣きながら答える。
「そぉーだよー。とーるがあけてくれないからちょぉーこわかったのぉー。とーるのばかばかばかばかぁ!」
信じがたいことだが間違いない。これは霧だ。双子の片方の体に霧の人格が宿っている。まるで鮮やかなマジックを見せられているような気分だった。奇跡という言葉は好きではないが、使うなら今をおいて他にない。
見た目が少し幼くなった霧を抱き上げ、おでこをくっつけて熱がないのを確かめる。そのまま頬ずりすると、くすぐったそうにして両手のひらで僕の顔を押し返そうとする。ああ、僕は何も失ってなどいなかった。霧をふたたび抱きしめて、僕はこのすばらしいプレゼントに感謝する。
霧は、売店の女の子が差し出すソフトクリームを両手で大事そうに受け取ると、口を開けてかぶりつく。
さて、ここで僕は考える。手品師の正体は一体誰か。奇跡の種は果たしていかなるものだったのだろうか。
「なんであんなとこに入ってたんだ?」
ソフトクリームで口の周りをべたべたにした霧にたずねる。
「ゆきちゃんがはいれって。いったの。ここにはいってたらとーるがきてくれるよぉーって。いってた」
「いつごろトランクに入ったの?」
「とらんくってなーに?」
「さっき霧が入ってたとこだよ」
「わかんない。ねるまえ?」
この娘をセダンのトランクに入れたのはどうやら『彼女』のようだ。双子と同じように霧も死んだと思わせたかったのだろう。騙す相手はもちろん神田だ。霧の中に産まれた人格を双子の片方に移し替えて車のトランクに隠し、オリジナルの霧の身体を破壊する。どんな方法を使ったのか。それが成功する勝算がどのくらいあったのか。それらを確かめる術はもうない。でもそれは成功し、『彼女』は神田の手から霧の人格を守って僕の元に届けてくれた。
それはどのような動機によって行われたのだろう。僕に対する義理立てだったのだろうか。あるいは、自分から切り離された身体に産まれた自我に共感したのだろうか。しかし、村人一人一人の命さえ、『彼女』にとっては爪の先ほどの価値しかないのだ。僕がもぎ取った指先に新たに人格が芽生えたとしても、それに『彼女』が知的好奇心以上の思い入れを持つとは思えなかった。
世間と隔絶された村で暮らしていた『彼女』の想像を絶する孤独を理解できなければ、その行動の理由などわかるはずもないのかも知れない。
「あつぅーい!」
霧がわめき始める。
抱きしめていた僕の腕を振りほどくと、暴れるようにしてドレスを脱ぎだした。黒と白のレースがたくさんついた漆黒のドレスは見るからに暑そうで、脱ぎたがるのも無理はない。早く脱ごうと暴れる霧をおさえて背中のファスナーを降ろしてやる。
ドレスを脱いだ霧を見て再び僕は驚いた。現れたのは上下とも黒レースの下着とガーターベルトだ。この身体の年齢は十三歳前後だろうか。そんな幼い身体にこんなセクシーな下着を着せるなんて『彼女』は何を考えていたのだろう。
すぐ右横に車を停めていた家族連れが、霧の格好を見て目を見開いている。まるで僕が趣味で着せているように思われそうで体裁が悪い。
反対側を見るとコンパクトカーに四人で乗り込んだ垢抜けない格好の若者達が、霧に携帯カメラのレンズを向けている。
「撮るなっ!」
そう叫んで霧の頭からタオルケットを被せて強引に助手席に押し込むと、僕は車を発車させた。
あの写真館に霧の着替えも何もかも置いてきてしまった。いや、どちらにしろこの体に合うサイズの服はないのか。またどこかで買わなければならない。
「ほらほら、とーるみてみてぇー」
さっきまで泣いていた霧がケラケラ笑いだした。羽織ったピンク色のタオルケットからストッキングに包まれた片脚を延ばしてダッシュボードに乗せてみせる。黒い花柄のストッキングに織り込まれた金色のラメが陽光を浴びて輝く。そんなポーズを一体どこで覚えてくるのやら。
それを無視してハンドルを握り続けていると、霧が急に叫びだした。
「とーるー。おなかすいたー」
いまサービスエリアを出たばかりだ。高速道路の上だから引き返すこともできない。
「もう少し待ってろ。次のサービスエリアで停めるから」
「すいたすいたすいたぁー」
抗議が激化する。そう言えばこの子は昨日から何も食べていないはず。僕も腹が減ってさっきのサービスエリアに立ち寄ったのだ。霧が戻ったうれしさですっかり食べ損ねていた。次のサービスエリアまではまだだいぶ距離がある。高速道路を降りて食事ができる場所を探そう。
「何食べたい? 霧」
「んー。はんばがー」
霧が元気に答える。
「勘弁してくれー」
そう言いながら、僕はアクセルを踏み込む。
どこまでも真っ直ぐに続く道の先に、次の出口の青い案内板が見えてきた。
第二章完結しました。ご感想・評価をお願いいたします。完結編を書いていますが、今のところ公開は未定です。




