第六話 ストーカー襲撃
突然、どこか身体の外側からさざ波のように違和感がやってきた。何故か頭が酷くぼんやりしていてその正体にしばらく気がつかなかったが、思考が通常の回転数に上がってくると、それは音になって僕の内耳に入ってきた。
携帯電話の着信音だ。
ポケットからゆっくりと携帯を取り出し、液晶画面を確認する。里美さんだ。
「もしもし」
「透君? すぐに帰って来て。霧ちゃんがあぶない!」
いつもの彼女とは違う囁くような、それでいて早口のしゃべり方だ。酩酊状態にあった脳が一瞬で覚醒する。
「霧がどうしたんです?!」
携帯に向かって叫ぶ。しかし、どういうわけか通話はすでに切れていた。霧が危ないと言っていた。こうしてはいられない。
「ちょっと済みません」
電話中も僕の腕にしがみついていた双子をふりほどき、撮影機材もその場に放置したまま宴会場を飛び出して、ホテルの裏手に駐車してある写真館の軽バンに向かって走った。
危ないとはどういう事か。通話がすぐに切れたのはなぜだ? 考えても答えはでない。とにかく一刻も早く写真館に戻らなくては。
写真館のシャッターは閉まっていた。僕が昼過ぎに撮影に出かけた時は開いていたし、中には里美さんと霧がいるはずだ。しかし、周囲は不気味に静まり返っていて物音一つ聞こえない。
目の端にメタリックグレーのワゴンが停まっているのが見えた刹那、僕の全身の体液が沸騰した。里美さんが言っていた車はこいつに違いない。
閉じたシャッターをあきらめて建物の裏手にまわる。鍵がかかっていた勝手口を解錠して、靴を履いたまま室内に侵入する。
一体何が起こっているのだろうか。通話がすぐに切られたところから何者かが侵入してきたのは間違いないだろう。店のシャッターは敵の侵入を防ぐために里美さんが閉めたのか、あるいは侵入者が凶行を隠すために……。
考えながら足音を殺して一階の廊下を進む。スタジオの入り口から中を覗いて見たが、真っ暗で何も見えなかった。
しばらく息を止めて様子を伺う。数秒待ってからスタジオに飛び込み、ドア横のスイッチを手探りで押して灯りをつけた。
素早く辺りを見回すと、撮影用のソファに里美さんがいた。仰向けに寝そべったような格好で、頭は向こう側に倒れている。彼女の姿に、バスタブに浸かったままの雨の最期の姿が重なる。
「里美さん!」
急いで駆け寄ると、豊満な胸を包んだシャツに赤黒いシミが広がっているのに気がついた。幸いにも息はあったが、とても速い呼吸をしている。すぐ医者に診せないと危険だ。
気が競っていた僕はここでふと我に返る。里美さんに危害を加えた侵入者はどこに行った?
わずかな気配を感じて振り返ろうとした瞬間、頭部に強い衝撃を受けた。僕は無様にも抱きかかえていた里美さんを放り出し、自分も一回転しながらスタジオの壁に激突した。
一体何が起こった? いや、考えるまでもない。待ち伏せされたのだ。
空中で一瞬静止した身体が床に叩きつけられるまでのわずかな時間に、反撃の方法をいくつか検討する。敵は壁とは逆の方向だ。立つ位置に当たりをつけて起きあがりざまに足を払う。だが、つま先はむなしく空を切った。
姿勢が落ち着き、ようやく慣れてきた目に男が一人立っているのが見えた。若い男だ。どこかで見たような気がするが気のせいかもしれない。そいつの手には光る刃が見えた。一度その光を見てしまうと、もうそれから目が離せなくなってしまう。刃物というものはそういう強い磁力を持っている。
光が動いた。その意味はわかりすぎるくらい明確だが、残念なことに身体が動かない。ナイフは不思議なほどゆっくりと動いて、僕の胸の中心に向かって突き出される。まるで慎重を期す動作のようにすべてが非常にゆっくりと動いていた。
両腕で心臓と腹をガードした。構えた腕に衝撃がくる。恐怖で次の反応が遅れた瞬間に脚を払われた。景色が回転して肩から床にぶつかり、直後に反動で側頭部が激しく叩きつけられる。
このままではいけないと思った瞬間、目の前に美しく輝く刃先が再びゆっくりと近づいてくるのが見えた。
どこかで女の声を聞いた気がする。その直後、僕は腹に強い衝撃を感じた。
目を覚まして、僕は自分がまだ生きていることに気づいた。
まぶたを開くと目の前にソファーがあって、男がふん反り返っていた。さっきのナイフの男だ。どうしてこいつが僕の前でリラックスしているのか、理解するのにしばらく時間がかかった。
だらしなく広げた奴の脚の間に女が座り込んでいた。両手首を後ろ手に縛られている。長いストレートの黒髪がツインテールにまとめられて、白いタンクトップの背でゆれていた。
霧だ。霧が膝立ちになって襲撃犯の太股の間に顔を埋めている。彼女が何をさせられているのかわかった瞬間、僕の脳が再び活性化して全身にアドレナリンを放出した。
「やめろー!」
大声が出た。
その男に対してか、霧に対してかわからないが、とにかく目の前の状況を今すぐにでも終わらせたかった。
男は声に気づき、まぶたを開いてこちらを見た。
「やっと気づいたか。こいつはおまえの妹なんだってなぁ。どうだぁ? 可愛い妹が無理矢理くわえさせられてるシーンは。興奮するだろー」
男は霧が僕の妹だと思っている。それがわかった瞬間、安堵と恐怖に同時に襲われる。こいつはあの村の人間でもなければ、雇われた探偵でもなかった。それはつまり、僕と霧の命は保証されていないということだ。僕は返事ができなかった。
「なんだ? びびっちまって声もでねぇーか? あいつ、父親が入院しちまうとすぐに男を連れ込みやがった。人がせっかく行き遅れの娘を嫁にもらってやろうとしてたのに、あのアバズレめ。てめぇをかばいやがった。何様のつもりだ。あまりにうるせえから黙らせてやったよ、ふざけやがって!」
男の視線が下を向く。手に血塗れのナイフが握られていた。
「てめぇも同罪だぞ、この野郎。人の女に手ぇ出しやがって。一発抜いたらてめぇの目の前で裸に剥いて可愛がってやんよ。こいつが自分から腰振るまでてめぇが生きてられたら、ご褒美に俺がトドメさしてやる」
凄惨な笑顔でそう言うと、男は両手で霧の頭をつかみ前後に激しく動かし始めた。気味の悪い息づかいをはじめる。霧の鼻から苦しそうな声が漏れる。
「そら! オラ! いくぞぉ! 飲み込めよぉ!」
そう言うと男は奇怪な雄叫びをあげて仰け反った。
そして霧を突き飛ばすと、ソファーからずり落ちて床に倒れてうずくまる。男はそのまま静かになった。一体何が起こった?
霧が男に這って近づくと、落ちたナイフを縛られていた手で起用に拾って立ち上がり、僕の方へ走ってきた。背中をこちらに向けて、僕の手を拘束していたガムテープを切る。僕はナイフを受け取って、霧の背中で両手首を固定していたテープを切った。それから自分の脚の拘束も解く。
「霧。怪我はないか?」
心配する僕に霧はニッコリ微笑んだ。その顔をみてぎょっとする。霧の唇からは真っ赤なものが垂れていた。
倒れた男はデニムのファスナーから血に染まった陰部を出したまま気を失っていた。霧が噛みついたのだろう。男としては一生体験したくない攻撃だ。見ているだけで僕の下腹からも血の気が引いていく。
この時僕はこの襲撃犯の顔に見覚えがあるのを思い出した。こいつは僕らが初めて写真館を訪れたときにスタジオでお見合い写真を撮っていた男だ。河田のおばちゃんの息子か親戚だろう。
ソファーの向こう側に里美さんが倒れていた。まだ息はしているようだがとても弱く意識もない。霧にタオルをたくさんもって来させ、里美さんの傷口に当てて強く押し続けるように指示をした。
しばらくすると緊急車両のサイレンの音が聞こえてきた。
ああ、一人でがんばって襲撃犯を倒し、警察まで呼んだ霧を褒めてやらなくちゃ。そう思いながらサイレンの音を聞いているうちに僕の視界はだんだん暗くなっていった。僕も相当血を流したかもしれない。




