日下部出張所の開設だ
ここは食堂です。残したうどんを目の前にして浮かない顔をしている主人に井村課長が声をかけました。何か元気がない主人を見て心配して声を掛けたのです。
「どうした。日下部、うどんを残して。ダイエットか。」
「うーん。ちょっと、むかつきがあるんですよ。」と答える主人です。
「むかつき?胃炎か。二日酔いかあ。」
「いや、違います。たぶん、妊娠中毒だとおもうんですよ。」
「妊娠中毒? つわりか。なんだオメデタかよ。そりゃ、よか・・・」
笑いかけた顔から驚きの顔に変わります。
「いや、まて!おまえ男だろう。妊娠はできないといってなかったか!」
「はは、いやあ。それがねえ。子宮があって生理があるということは、妊娠は可能だったんですよ。卵巣がないんで無理だとおもっていたんですが、受精卵を着床させることはできちゃうんです。」
「そんなばかな。いくらなんでも・・大体、日頃、女扱いをあんなに嫌がるおまえがどうしてそんなことを決心をしたんだ。」
「不妊治療とかいろいろありましてね。話すと長くなりますけど・・」
「妊娠何ヶ月なんだ。」
「3ヶ月です。ウチの奥さんは、着床に1回失敗して、2ヶ月目ですけど。ぼくのほうが流産しにくいんだそうで、僕のほうはいたって順調です。」
「そうすると、奥さんも妊娠しているのか。」
「ええ、失敗したとき、ぼくが産むからやめとけといったんですがね。女のプライドが許さないとかで、意地になっちゃってね。」
当たり前です。これまでとられたら夫婦の危機です!妻の立場がありません。
「えー、夫婦で妊娠か。えらいことになったな。育児と出産が同時だと大変だろう.仕事はどうするんだ。」
「ウチの奥さんは、結婚と同時にやめちゃたので、僕が働かないといけないんです。ぎりぎりまで働きますけど、出産したら産休とりますんでよろしくお願いしますね。」
「おまえは男扱いだったな。すると、男の産休か。確かに、制度はあるけどこんなの初めてだろうな。」
「ええ、男が出産するための制度じゃないんで、期間が短いんですよ。組合と相談してみます。いくらかは休職しないといけないもしれません。幸いにも研究の一環として出産費用はタダになるけどね。貯蓄で食わないといけない場面になるかもしれません。」
ここは給湯室です。田井さんと小田さんが話をしています。
「聞いたあ?日下部さんがオメデタですつて!」と田井さんが笑っていいました。
「本当?!よかったわね。」
「3ヶ月で、つわりがひどいとか。」
「えー、かわいそうに。」
「え?ちょっとまって、日下部さんの子種はだれなんですか。」と田井さんは腕を組んで聞きました。
「あれ?そう言えば奥さんは女の人よね。オメデタというのは奥さんのことだったのかしら」と考え込む小田さんです。
「え?そんなはずないわよ。食堂でつわりがひどいくって食べられないと言っていたそうよ。」
ちょうどその時です。主人が通りがかりました。
「聞きましたよ。オメデタですって。日下部さん。よかったですね。」と田井さんがニコニコしていいました。しかし、主人は浮かない顔です。
「うん。子供はほしかったんだけど・・こんなことになるとはなあ。」
「何か問題があるんですか。」
「妻も妊娠中なんだよ。」
「え?日下部さんオメデタでなく、奥さんのオメデタなんですか?」と驚く田井さんです。
「いや違うよ。妻も妊娠中の上、僕も妊娠することになったんだ。」
「えー・・・??」と首をかしげる田井さんです。
どうも、妊娠の話は主人だけと思いこんでいたようです。
「あのね。僕はおちんちんがあってね。子供は作れるんだよ。だから、妻が妊娠するのは普通だろ。」
「でも、男だから自分は妊娠は出来ないと言っていませんでした?」という小田さんです。
「うん。体外受精で妊娠はできたんだ。」
「ちょっとまってください。だれの子種なんですか。」
「僕に決まっているじゃなか。」
「自分で自分の・・わかんない。」と頭を抱える田井さんです。
どうも、子供を授かるのは女という概念から抜け出せなくて混乱しているようです。
「あのね。僕は男なの。子宮もあるけど精巣もあるんだよ。僕の精子と奥さんの卵子で受精卵を作ったの。わかる?それを僕と妻の子宮に着床させて妊娠したの。」
田井さんはなんとなく納得したようです。
「そうだったんですか。なんでまた。」と小田さんが聞きます。
「不妊治療でね。来栖先生が受精卵の着床試験をしたら、治療費タダにするというんだ。受精卵を着床させて、僕の子宮がタダの飾り物なのか調べたいんだって。」
「なるほど、それをしたんですね。」
「それは終わったんだけど、いざ、堕胎しようしたらできなくてね。生むことにしたんだ。」
「えー。そんな理由ですか。」
「おなかのなかで必死で生きている命だぜ。流すことできなくってね。」
「なんとなく、わかるわ。」
「それとさあ。よく考えると僕は、処女懐妊だったんだ。マリア様みたいですごいだろ。」とドヤ顔の主人です。
「はあ?」
「ははは、男性経験ないからね。着床試験するまで処女だったんだって。」
「笑い事じゃないでしょ。でも、夫婦同時出産なんて前代未聞ね。」
「ホントに日下部さんは異例づくめね。」
「まあ、安産体質らしいし、双子を産んだと思えばいいし、ぎりぎりまで働くよ。」
「その後のこと考えているですか?産後は大変らしいですよ。」
「うん。それなんだけどね。どうなるかな。実はなんにも考えてなかったんだ。」
ここは、東亜製薬の吹田工場です。ここには、汎用コンピューターが鎮座した情報システム部があります。ここを中心に全国拠点を回線で結んでいるのです。
主人がそこの受付に顔を出すと、懐かしい顔の人が声をかけてきました。
「おっ、日下部、久しぶりだな。あいかわらず綺麗だな。」と満面の笑顔で泊さんが声をかけてきました。
「泊さんじゃないですか。こんなところで何をしているですか。」
「はは、組合の専従が終わってな。いまは吹田工場の総務なんだ。おまえこそ、工場に何のようだ。」
「へえ、そうなんですか。僕は情報システム部と打ち合わせです。情報システムは工場が本部でしょ。」
「確かにそうだが、おまえは今何の仕事しているんだ。秘書室から古巣の食品部にもどったと聞いたけど。」
「食品部のシステム担当なんですよ。実は妊娠しましてね。家でモバイル接続で仕事したいといったんですが、携帯通信だと話にならないほど遅いんですよ。いっそうこと専用線を引いてSOHOの実験をしようかということになっちゃて・・」
「SOHOか・・なるほどな。ちょっと、まて、さらりと言ったが、おまえ、妊娠しているとかいわなかったか。」
「ええ、もう5ヶ月です。お腹がめだってきちゃって・・」
見ると主人はいつもの黒のスーツとスラックスですが、スリムなウエストがぽっこりと膨らんでいます。それを見て泊さんも頷きます。
「おお、確かにお腹が膨らんでいるな。おまえは、男だろう。妊娠はできないとか言ってなったか。」
「それができちゃうんですよ。もともとは、不妊治療のために受精卵を作って、奥さんに産んでもらうつもりだったんです。来栖先生が僕の子宮に着床できるか実験させてくれといいましてね。確認したら堕胎する予定だったんです。でも、これって、子供を殺すことになるでしょ。忍びなくって、産むことにしたんです。おかげで夫婦同時の妊娠ですよ。しかも僕は処女懐妊すごいでしょ。」
「笑い事じゃないだろう。休職しないのか。育児しながらは大変だろう。在宅勤務する必要あるのか。」
「休職だと無給でしょ。お金の問題もありますし、他に担当者がいないんですよ。」
「バイトとかあるだろう。後継者の育成を怠ったツケだな。」
「まあ、産前・産後の育児休暇はとれますし、働けるだけラッキーなんですよ。産後の数週間を除けばなんとかできると思っているんです。」と笑います。
「笑い事じゃねえぞ。ちょっとは考えろよ。」
「大丈夫ですよ。決めたことですから・・じゃあ。また」
そう言って主人は本社へ向かいました。
数日後のことです。田口部長が主人に声をかけてきました。
「おい、日下部、在宅勤務のこと誰かにいったか。」
「だれかって・」
「組合がなあ。在宅勤務しながら、育児休暇での無給はおかしいと言ってきたんだ。」
「あちゃー。泊さんだ。」
「やっぱり、言ったのか。在宅勤務ならば、連絡はとれるし、システム管理もできるからいい都合がよかったんだが・・ちょっと、もめているぞ。」
「何かややこしいな。問題は、育児休暇でありながら、働いてこうとしていることですよね。休むならSOHOなんていらないということになるんだ。」
「そこなんだよ。ウチの会社は、まだ、時短労働のシステムがないからな。ましてや、在宅勤務もな。」
「うーん。だったら、バイトで雇用してくださいよ。」
「数時間を拘束時間として在宅勤務か。それならばいけるかな。そもそも、在宅勤務は労働状況を監視できない。成果のみに対して報酬をはらうものだ。労働時間なんか関係ないものなんだか、前例が無いからもめるんだよな。」
さらに、数日後の我が家です。運送会社さんが我が家に次々と大きな荷物を運び込みます。私は主人に聞きました。私は安定期に入ったので、病院を退院して自宅にいます。主人ははじめから平気で通勤しています。うぬ、なんでだぁ!
「わぁわぁ、何これ?」
「サーバーシステム一式だよ。パソコンとかわんないけどね。」
「すみません。どこへ設置しまししょうか。」
「3階にしてください。通信はどうするんですか?」
「INSなんで電信柱までは来ています。あとは部屋までどう引くですね。工事会社がまもなく来ると思いますが・・」
「ああ、そうですか。よろしくお願いします。」
「一体、なんなんのこれは?」
「SOHO(small office home office)のシステム一式だよ。在宅勤務できるように、会社のシステムとつなぐんだよ。」
「在宅勤務?」
「システムのお守りをするんだよ。出産直後は会社へ行けないから、家からやろうと思ってね。」
「おお、すごい。これはFAXとプリンタなの。でかい!ウチの電気は大丈夫なの。」
当時はあまり小型のはありません。ディスプレイもCRT(ブラウン管)です。
「う・・・たぶん。心配になってきたな。床抜けないよな・・」
「話は聞いていたけど。こんなだとは・・確か、産休中は働けないからだめかもしれないと言ってなかった?」
「アルバイト雇用という抜け道があってね。通ちゃった。日下部出張所の開設だあ!」とうれしそうに笑う主人です。
パソコンが趣味の主人には、こんな最新機種のかたまりって、垂涎の的なんです。まあ、よろんでいるからいいか。
昔、すらりとした若い子が、うどんを残しているを見て、理由を聞いたら、ダイエットではなく、つわりと言われた覚えがあります。女同士の付き合いで食堂まで来たけど食べられなかったらしいです。