田井です。よろしくお願いします。
東京にもありますが、大阪にも同業者がやたら集まっている地域が存在します。大阪の道修町もそんなところです。昔は薬問屋がずらりとならぶ町だったのでしょうが、今はすっかりオフィス街となっています。その中のやや古い煉瓦造りの外装をした歴史あるビルが東亜製薬です。
主人が本社での仕事に慣れたころです。業務部に新しい女性がやってきました。当時の総務部長は、五十嵐洋二というひとでした。五十嵐部長は頭がバーコードでビール腹のおじさんです。優秀で顔が広く、人は当たりいいんですが、ちょっと困った癖があり、ウチの食品部に異動させられた人です。ウチの部には、ときどき、困ったちゃんが異動してきます。
総務部長の五十嵐部長が新人を紹介します。関連事業部内を順番に挨拶をしてまわり、主人のところにやってきました。
「今度から、経理を担当してもらう。田井さんだ。」
「田井純子と言います。」
「日下部・・えーと、美希です。」
主人は毎度の黒のスーツです。眼鏡を外してにこりと笑いました。
「パソコンはこの人に聞けばなんでも教えてくれるからな。」
「そんなでもないですよ。」
そう謙遜する主人でした。
田井さんには主人は輝いてみえるようです。だって、あんなに美人で賢そうですから。
「日下部、これどうするんだ。」とパソコンの使い方を主人に教わっています。
「井村課長、それはですね。ほらねこうすると簡単でしょ。」
「あっ、そうかなるほどな。」
難しいパソコンも使いこなしています。それも、課長の先生役です。
主人が電話しています。
「はい、日下部です。いつもお世話になっています。」
電話をする主人の後ろで田口部長が机の上の書類を探しています。
「あれ、参ったな。あの書類がないぞ。」
「部長、これでしょ。」
電話口を押さえて、後ろ手に紙の束を振ります。
「あっそうだ。これだ。おまえに清書してもらったんだった。」
そのまま、厳しい目で電話を続けました。
(日下部さんカッコイイ!)と感心する田井さんです。
「失礼しました。続けていいですか。その件ですがね。たぶん、大丈夫だとは思います。その理由としましては厚生省の通達にこんな文書がありましてね・・・」
田口部長の秘書役をやりながら、何かむずかしい問い合わせにも答えています。カッコイイです。
ここはとある飲み屋さんです。業務部の新人歓迎会です。五十嵐部長が挨拶をしています。乾杯の音頭を取っての話ですが、長いです。『ビールがぬるくなるじゃないか』とか『手がだるいぞ』という人はいません。みんな黙って耐えています。部長が相手ですから・・
「・・・ということで、それでは、今後の食品部の発展と田井さんの歓迎を祝して、カンパイ!」
わいわいがやがやと宴会がはじまりました。
主人は、五十嵐部長と同じ席に座っています。偉いです。若い社員から敬遠されているようで、年配の社員ばかり、女性社員は一人もいません。それもそのはずです。ピール瓶をもって下ネタに興じています。
「このぐらい太っいのをなあ。ひゃひゃ・・」
「へえ、スゴイですね。」
主人はにこにこしながら、平気で聞いています。
ここは、遠く離れた女性席です。
「五十嵐部長は、ひどい。話していますね。」と田井さんが言いました。
「・・・ああ、あれね。ちょっと、いやですね。」と小田さんが苦笑いをして、答えました。
「いつもあんなのなんですか。」
「うーん。あのセクハラ発言さえなけりゃねえ。」と山上さんが答えました。
「日下部さんは、よく平気ですね。」
「あの人は、特別よ。年だし、男がすきなのよ。男性席にいるでしょ。」と山上さんがいいました。
「それはちがうと・・・」と小田さんが言いかけます。
「何が?」と山上さんがじろりとにらみます。
「いえべつに、なんでもありません。」と小田さんはだまりました。
酒がだんだん回ってきたようです。しだいに、騒然とした雰囲気になってきました。笑い声もうるさいくらいです。五十嵐部長と話をしていた部下がトイレいきました。一人なった五十嵐部長はコップ酒をもってふらりと立ち上がります。目が据わっています。かなり酔っているようです。
「オイ、田井。肩揉んでやろうか。おれ、うまいんだぞ。」
「えー。私は別にいいです。」
「女房にもほめられているんだ。いいから、させろよ。」
「肩こっていませんから。」
「何!嫌だというのか。」
「いえ、そんな訳では・・」
女性陣とその付近にいた男も会話が止まりました。何かやばいことになっていると察したようです。
そのときです。主人がにこにこと笑いながら口を挟みました。
「部長、それって、ホントですか。僕の肩を揉んで下さい。」
肩をクイクイと動かしてみせます。
「日下部かあ。よしよし。」
部長は主人の後ろに立て膝をついて、揉み始めました。
「ああ、うまいですね。気持ちいい。こんなこと、してもらって良いんですか。」
「そうだろう。」
「ああ、いい。もうちょっと下の当たりをぐりぐりと・・」
「こうか。堅いなあ。おっぱいが大きいと肩がこるってホントなんだな。」
「そんなこといいますね。あっ、そこそこ、いいな。次は肩の裏の辺りを・・・」
「ほう、ここか。おや、堅いな。」
「ああ、キクー・・」
五十嵐部長は夢中になって、主人の肩を揉んでいます。
「助かった。」と田井さんがほっとした顔でいいました。
「困ったものねえ。セクハラというのがわかってないのよね。」という山上さんです。
「そうですね。」
コピー室です。田井さんがコピー機の前で悩んでいます。そこに主人が通りがかりました。
「田井さん。どうしたの。」
「紙詰まりなんですけどね。全部取ったのに、まだ、あると言うんですよ。」
「そりゃ、おかしいね。本当に全部みたの。うーん。『D』の場所か。確かに無いなあ。ちょっと、まって・・」
主人が感光ドラムを引き出して見ると、そこに紙が!
「ほら、ここにあるよ。」
「ありがとうございます。助かりました。」
「機器には強いから、何でも言って。」
フロアです。人がほとんどいません。田井さんが請求書を見て悩んでいます。ちらりと主人を見ては、また請求書を見て首をひねっています。主人が察して、声を掛けました。
「どうしたの。」
「この請求書なのですが、どうも、商品も会社もリストに存在しないんですよ。」
「どれどれ、新規のところかな。みせてごらん。」
「これです。」
「ん? これって、動物薬じゃないか。メールの誤配だよ。」
「そうなんですか。」
主人は動物薬部の経理へ請求書を持って行きます。
「ああ、これはウチのですね。ご迷惑かけました。」
「こんなこともわかるのですか。すごい。」
「すごいって、たまたま、だけど・・」
もう、田井さんの目がハートマークです。
昼になりました。みんな一斉に立ち上がりました。食堂に一直線です。主人がまだ仕事をしています。田井さんが声を掛けました。
「日下部さん。お昼ですよ。一緒に、いきましょう。」
「え? 僕は・・・」
女性陣とは昼を一緒にしなくなって久しいので主人は驚きます。
「あの人はいいのよ。特別だから。男性陣と一緒がいいの。ほっといてあげて。」という山上さんです。
「並ぶの嫌いだから、遅れていくんだよ。もう少し、仕事してから行くよ。」
「ほらね。」
「そうですか・・」
主人とい一緒に、昼を食べたかった田井さんは名残惜しそうです。
下に降りる階段で山上さんがいいました。
「どうおもっているか知らないけど。あの人はオカマよ。」
「え?オカマ・・男なんですか。」と田井さんは驚きます。
「社外向けには女性ということになっているけど。男なんです。」
「ねぇ、気持ち悪いでしょ。」という山上さんです。
「本当ですか!」
「研究所のダンスパーティで、女装して、会長をたらし込んだのよ。」と笑っていいます。
「たらし込んだって・・・それはちょっと・・」と小田さんがいいますが、山上さんがさえぎるので言えません。
「それで、女性秘書に収まっただけど。男とバレそうになって、ウチに舞い戻ったのよ。」
うーん。あっていますけど。主人にそんな言い方はないと思います!
「あんなひと付き合わない方がいいわよ。」
田井さんはかなりのショックを受けています。さっきまで、あこがれのキャリアウーマンが男の人だなんて・・
午後の給湯室です。ここへは山上さんはきません。田井さんが小田さんにいいました。
「ショックです-。日下部さんがオカマだなんて・・」
「でも、普通じゃ無いみたいよ。体が女になっちゃう病気みたいなものだそうよ。好きでなったんじゃないのよ。実際、女の奥さんまでいるのよ。」
「へえ。そんなのってあるんですか。」
「日下部さんは女としても美人でしょ。クリスマスパーティーの余興で女装させられて、会長が美人だと褒めたのよ。前の部長が気をまわして会長の秘書へ異動させたらしいわ。」
「じゃ、たらし込んだというのは・・」
「それは、山上さんの解釈よ。これは、秘書室の尾崎さんから聞いたから確かよ。秘書室でもうまくいっていたらしいんだけど。交通事故に出くわしてね。事故処理に大活躍したのよ。ところが、それがアダになって、マスコミにバレそうになったのでここへ戻されたの。」
「全然話がちがうじゃないですか!」
「そうよ。山上さんは日下部さんが嫌いなのよ。山上さんの前では日下部さんと親しそうな振りしちゃだめよ。後が怖いから・・」
「・・わかりました。」
「ても、日下部さんはそんなところは鈍感だから大丈夫よ。いやがってなけりゃ平気で助けてくれるから。」
「日下部さんてやさしいですね。」
「いろいろ頼りになる素敵なひとよ。」
そうでしょ。そうでしょ。主人は偉い!
ここは地下のフロアです。自動販売機とテーブルと椅子の並ぶ休憩室です。田井さんと小田さんがテーブルを挟んで悩んでいます。そこに主人が通りかがりました。
手には缶コーヒーを握っています。メガネに赤い唇と黒いスーツ。今日も綺麗です。
「おや、田井さんに小田さんじゃないか。ため息ついてどうしたの。」とさわやかに語りかけます。
「あっ、日下部さん。2・14ですよ。」と田井さんが答えました。
「困っているんです。」
「2・14・・バレンテンイディか。それが、どうしたの。」と主人はきょとんした顔でいいました。
「義理チョコで悩んでいるんです。」
「もう、そんな時期か。男は意外とすねるからな。平等かつ公平にしないとなあ。」と主人が笑って言います。
「そうなんですよ。上下関係もあって、ヒラとの区別もしないといけないでしょ。」
「安いのばっかり買って済ますわけにはいけないんですよ。」
「ランク分けして高いのも買わないといけないんです。そうするとお金が結構、掛かちゃって大変なんです。」
「予算が十分あると良いんだけど。本当に世話になっている人には良い物あげたいし、本命チョコもあるしねぇ」
「いっそうやめたら?会社からお達しがでてなかったけ。」
「いやいや、そんなわけにはいきませんよ。それができたらこんなに悩みませんよ。」
「ホントに毎年大変だよね。」と気の毒そうな顔をする主人です。
「最近は、お局様まで、『いつもお世話しているのに私には無いののね!』と嫌味をいうんですよ。」と小田さんがいいます。
たぶん、山上さんのことでしょう。もちろん、山上さんはバレンタインなんてどこ吹く風です。チョコはもらうことはあってもあげることはありません。
「先輩はチョコをどうするんですか。チエを貸して下さい。」
「どうするって考えたこともないなあ。」ととぼける主人です。
その発言にはびっくりする二人です。
「え!。義理チョコ無しですか。」という小田さんが驚きます。
「日下部さんほど美人ともなるとそんなのが許されるんですか。すごい!」と田井さんもびっくりします。
「ちょっと待て!そりゃそうだろ。僕は男だぞ。チョコをもらったことはあるがあげたことはない!」と主人は怒り顔です。
「あ!そ、そう言えばそうですよね。ごめんなさい。」と平謝りの小田さんです。
(よく考えたら私も上げていたわ。)と考える田井さんです。
「そう言えば、2月14日の日下部さんの机の上にはチョコの包みの山になっているわ。」
「2月は、宅急便も多いですね。あれもチョコですか。」
「3月のナイショの会の出欠確認になっているんだ。欠席者は手紙がくる。」
「へえ、便利ですね。」
「便利なもんか。お返しの代わりに3月のナイショの会の宴会は僕持ちだせ。幸い、上限を設けてくれて、残りは割り勘になったけど。」
「ひぇー、大変ですね。」
「そうだろ。こっちは、全部の義理チョコにお返しをするんだぞ。だれもくれとは言ってないのに。3月14日に向けて大変なんだぞ。喜んでいるのは食い切れないチョコのお裾分けに預かるうちのカミさんだけだよ。」
「そう言えば、ホイトディのお返しはマメですね。」
「だれそれが返礼もくれないケチ男だとしょっちゅう聞いているからなあ。やらないと怖いもん。」
(え?そんなこといったのかしら・・私いやだ・・)
「去年はパンストでしたね。あれは消耗品だしうれしかったわ。」
「男の人から下着をもらうと気持ち悪いけど、日下部さんなら平気です。」
「ぼくも男だよ。」
「でも、日下部さんならブラでもいいですよ。日下部さんみたいに大きなバストなりそうだし。化粧品なら美人になりそう。」
「なんだか、あんまりうれしくないなあ。」と言って主人は消えました。
後に残った小田さんは田井さんにいっています。
「まいったなあ。うっかり、返礼の愚痴を日下部さん言っていたんだわ。」
「あんな姿しているからつい同性だとおもつちゃうのよねぇ。」
「そのくせ、日下部さんへのチョコをちゃんと渡していたわ。」
「理性ではわかっているつもりなんだけと・・」
「日下部さんは、聞き上手なんで、つい言っちゃうのよね。」
「しゃあない。それより、義理チョコのことだけどね・・」
「ふんふん・・・」
バレンタインディ当日です。小田さんと田井さんが二人でチョコを配っています。どうやら共同で行うことにしたようです。
「○○さん、いつも、お世話になっています。」
「いやあ、ありがとう。」
もらう方も照れています。かわいいものですね。
順番が主人に回ってきました。
「日下部さん、いつも、お世話になっています。」
「いやあ、ありがとう。なるほど、共同にしたんだね。予算が倍になるからな。だったら、お返しも共同でいいよね。」
「そんなわけ無いじゃないですか。別々に決まっていますよ。」
「そうですよ。取り合いのケンカになるじゃないですか。」
「えー、ずるいなあ。」
「ふふふ。うそです。日下部さんはお返しはいいですよ。ホントにお世話になっていますから。」
でも、ホワイトディには結局二人とも主人からのお返しをもらっていました。