しゃかいじん 消失ショート 4
縦書きと横書きだと印象が変わるのかしら?
社会人になって、それはつまり成人を過ぎると、という意味だ。社会人になって何かの事件、誰でもいいからナイフで次々と刺し殺したり、車で人を轢いて内蔵をあたりかまわずに撒き散らしたり、幼い子供を強姦したあげく、首を手のひらで絞めたりしたら、という意味だ。社会人になって何かの事件を起こしたりしたら実名でニュース報道される。
それは死と同義だ。社会に、日本に、今の日本においてというべきだろうか?今の日本でそれをされるということは、社会的に死を宣告されることに変わりないと思う。今、この世の中で、最も残酷なことであるとも思う。生きることが死ぬことより辛い事も確かにある。そう思う。
そんな私もついに社会人になった。
十代を迎えた頃から私は先のことを考えて、死にたくなるような気持ちになった。社会人になったら毎日怯えてくらさなければいけないのだと、私はそう考えていたからだ。成人したら家から出れなくなるかもしれない。今のうちにどうするかしっかり考えておかなくては。どうやって暮らすべきなのだろうか。と、それだけを考えていた。
死の宣告は簡単に出来る。何も人を殺さなくてもいい。痴漢と間違われたり、ストーカーに間違われたり、セクハラに勘違いされたり、不倫がバレたり、性病になったりしたら、その瞬間に死が到来する。実際にしていなくても、それは関係ないのだ。その疑いがかけられるだけでいい。そのイメージだけでいい。それで私も人に人喰い熊でも見るような目つきをされるのだ。とても簡単だ。死だ。実に簡単に人は死ぬ。
毎日誰かがそれに対抗して戦っている。自分はやっていないと、何もしていないと。でも私は自分にそれだけの強い、頑丈な、頑なな精神があるとは思えない。まさか無いだろう。一部の強い人の中にはすべての人間がそれを持っていると勘違いしている人がいる。自分にあるのだから人にもあるだろうと。高飛車な考えだと思う。
私が成人を迎えた時、案の定そのショックで私は家から出れなくなった。予想していたよりはるかに大きな類のショックだった。
もし新しい素晴らしいことを胸に家から出て、何処か、どこでもいい、そこで何もしていないのに何か悪いことをしたように勘違いされたら?それで私は死ぬ。それを考えると立てなくなった。トイレからも出れなくなった。
それから私は、パソコンで株という生活を余儀なくされた。それが私の精一杯であった。幼いころから真剣に考えていたおかげだ。買い物はネットで。パソコンが壊れたら怖いので予備に十台のストック。健康の為に運動器具なども準備する。バランスボールとかだ。家から出れない以上、趣味はテレビかネットサーフィン。今の悩みは配達員の人と顔を合わせないといけないという事。これはリアルの方だ、ある日ある時ある瞬間、部屋に侵入してきてリアルに殺されたら。私は常にそんなことを考える。
テレビ見ていて全くの他人が、何故成人式だと喜んでいるのか私にはわからなかった。何かしたら実名報道されて、自己責任になるだけではないか。何がそんなに面白いのだろうか?何が楽しいのだろうか?死が体にまとわりつくことがそんなに嬉しいのだろうか?理解できなかった。同世代の自分と同じ女性が綺麗な着物を着てインタビューを受けている。それが私には彼女達の死装束のように見えた。
結局社会人というのはなんなのだろうか?そんなことを考えていたとき、テレビであるニュースが報道された。
「『しゃかいじん』と名乗る怪人が、駅やビルや、利用の多い施設を次々と爆破して、大量殺人を行っております。先日成人式の会場も爆破され、大量の死者を出しました」
私は、出来ることならその怪人のスポンサーになりたいとそう願った。強く強く願った。
ダイレクト投稿しているので、行間とか無くてなんか詰め込んだ感が多い気がします。