約束
高等部を卒業したら、上野の音楽学校に行って、それから留学するのが、夢だった私。
でも、今は高等部を卒業したら、彼のお嫁さんになりたい。
ピアニストになる夢もヨーロッパ留学も、彼のお嫁さんになることと比べたら、どうでも良くなっていた。
私は彼に、夢中だった。
彼は、周りに人がいるときは、使用人らしく、ていねいな言葉遣いで、私に仕えているふりをしていたけど、二人っきりになると、仕えているのは、私だった。
この屋敷の女主人の私に、彼が昔と同じように、ぞんざいな口調で、私にああしろ、こうしろって言う。
ある日、彼が明日っから、オレの弁当作ってこいって言うから、台所になんか入ったことないって言うと、そんなんじゃ、結婚したときどうすんだよって、あきれてる。
「結婚?」
「おまえが言ったんだろう?嫁さんにしてくれって、そんで指切りしたの、忘れたのかよ?」
おじいさまに、使用人の息子の彼と遊んではいけないと、禁じられた日、最後にするからって、おじいさまに頼んで、庭で私を待っていた彼に、泣きながら事の顛末を話した。
私のことを忘れないで!大きくなったら、お嫁さんにして!と、せがんだ。
とまどい、あんまり乗り気じゃない彼の指に、自分の小指を絡めて、絶対よ!と指切りさせた私。
恥ずかしいから、忘れたふりをしていたあの約束………。なかば、無理やりに、約束させられた彼。
おぼえてるはずがない。有効なはずがない…と思い込んでいた。
彼は、おぼえてたんだ!
「おぼえて…るわ。」
「オレは一度した約束は、たがえたことはねえんだ。男子の一諾って、知ってるか?命を懸けるほどの重みがあるんだぜ。」
「それと、お弁当とどう関係があるというの?」
「馬鹿だな、遊ぶのも禁じられたくらいなんだぞ。結婚なんか、許してもらうわけねえだろうが!駆け落ちしかねえだろ。おまえは、駆け落ち先まで、料理人連れてくんのかよ?飯が炊けなきゃ、生活できねえから、今のうちに、台所のお清とかに、習っとけよ。」
「う………うん。」
「よし。」
彼は私の頭を撫でた。うれしいんだけど………複雑な気持ちだった。
約束したから?それだけの理由なのかしら…だとしたら、少しさびしいな。
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台所に入ると、お清が飛んできて、入っちゃいけないって言う。炭とか、泥のついたままの野菜があるから、お洋服が汚れるって追い出そうとする。
私はまたリーヴァイスに着替えてきて、この服は汚してもいい服なんだと説明した。
お清は、けげんな顔をして、なんで急に台所になんか、入りたいのか聞いてきた。
面倒なことになりそうだったから、クッキーを焼きたいから………って、言っといた。
高等部では、自分でクッキーやビスキュイを焼いて、お客様をもてなす遊びが流行っていて、そう言っとけば、無難だった。まさか、駆け落ちの準備のために、お料理を習いたいなんて、言えるものですか。
クッキーを焼く練習をしてるうちに、台所によく出入りするようにして、自然にお料理に興味を持ったってことにすればいいわ。
私の作戦はうまくいって、お清はなんでも教えてくれるようになった。
出汁の取り方、野菜の切り方、お米の研ぎ方、それに魚のさばき方。私は勉強もピアノもそっちのけで、一生懸命おぼえた。
もういつでも、駆け落ちしても大丈夫なように。
でも………。
いつもひっかかった。約束。男子の一諾。
義理がたい彼のこと。私が無理やりさせたあの指切りのために、彼は………私のこと妹のようにしか思ってないのに、結婚するって言ってるのかも。
そんなことを考えると、いつも気が沈んだ。