私が赤ん坊の頃
乳母の見つからない私は、お母様が、お乳をくれた。これは異例中の異例のこと。
お母様は、摂家の姫君。公家が廃止され、華族制度に移行すると、そのご身分は、公爵令嬢だった。主上に従い、京の都から、関東に下ってきた二条家の一番上の姫君だから、子供にお乳をやるなんて、野蛮なこと、この上なかった。
でも、乳母のなりてがなかったので、自分が乳をやろうと、決心してくださった。
でも、乳母の仕事は、乳をやることだけではない。むつきをとりかえたり、抱いたり、着替えさせたり……。ご自分の着替えも侍女にやらせてるお母様に、できるはずもなかった。
しかも、お母様は、毎日、絵を描いてらした。季節の移ろいを愛で、和歌を詠むかわりに、お母様は金泥を使った贅沢な、尾形光琳のような画を描いていらした。子供の世話などできるはずもない。
そこで、おばあさまが、私の養育を申し出て下さった。お乳だけ、お母様に飲ませてもらったら、おばあさまのところの小間使いの藤野が、迎えに来て、おばあさまのお部屋に連れていかれる。
お二人の間を行ったり来たりして、育った。これも、奇跡的なことと言えば、奇跡的なことだった。
おばあさまとお母様は、犬猿の仲だったから。
「プライドばっかり高い、貧乏公家の娘が!」と、おばあさまはお母様をののしり
「もうのうなった国の、たかが伯爵家の女の下座には、すわりとうない。」と、お母様は不満を表明する。
だから、私の家では、家族そろって、食事をするという習慣がない。お母様が、誰よりも上座でないと、座らないから。
さんざん、もめた末にこうなった。
その二人が、こと私の養育に関しては、協力し合ったのだ。お食事ぐらい別々でも、かまわないだろう。しかも、二人は食べ物の好みも、全然合わなかった。
おばあさまは、西洋風の食事がお好きで、お母様は、薄い京風の味つけのものしか食べられなかった。
大正天皇さまが、フランス料理がお好きだったから、公家たちも、それにならってフランス料理を食べていたし、セーラー服を好んで来ていたとも言う。でも、お母様は、そういう風潮には一切のらなかったらしい。
おじいさまとおばあさまがディナー。別棟で、お母様と私が京風の夕餉の膳をいただく。
もっとも、お母様は絵を描くのに夢中で、夕餉の席には、めったにいらっしゃらなかったから、物心つく頃
から、私は一人で食べていた。
おばあさまたちと、一緒に食べてもよかったが、そうすると、お母様に悪いような気がしてた。
でも、おばあさまが、ハラースレーや、グーヤーシュを作ってくれたときは、お母様にことわって、嬉々として、食べに行った。
ハラースレーは、鯉とトマトのスープ。グーヤーシュは、ハンガリー風のお肉の煮込み。唐辛子とか、いろんなスパイスが入ってるから、少し辛いんだけど、私はこれに目がなかった。
戦後の日本では、ハンガリーのスパイスなんか、手に入らない、おばあさまが、本国から持っていらしたものを、少しづつ、使ってた。塊のお肉も。トマトも、鯉も贅沢品だった。
財閥解体、十五銀行(華族の銀行)の破綻……。農地改革。旧紙幣がいきなり新紙幣に切り替えられ、価値を失った。
激動の時代。財閥とは名ばかりに、なりつつあってもおかしくなかった。現に、お母様のご実家は、十五銀行に全財産を託してしたので、文無し同然の身になった。
でも、目はしのきく、おばあさまは、結婚前からのご自分の財産は、戦時中はスイスのプライベートバンクに、戦後はモナコのプライベートバンクに預けてたし、財閥解体も、政府高官の奥方や、進駐軍の高官の愛人たちとも、社交してたせいで、いちはやく情報を得て、財閥の資産を売り払い、半分米ドルにして、半分をスイスフランの外貨にしていたので、我が家は、没落をまぬがれたのだ。