ペトリューシュカ
通いのメイドのアンナが、倒れてる私を見つけて救急車を呼んだ。
私は死にそこね、スイスのローザンヌの病院に保護入院させられた。
何もかも遠のいて見える。ガラスビンの底から、世界をのぞいているように。
一体何日たったのか、何ヶ月たったのかわからない。
ある日、病院に一人のピアニストが、慰問に訪れた。
病院の倉庫にあった、アップライトピアノが出されて、調律がなされた。
ホールに集められて、コンサートに、なかば強制的に参加させられた。
彼が弾いた曲は……ペトルーシュカ第三楽章。
ストラヴィンスキーの難曲。私が唯一、弾きこなせなかった曲。
正確無比のタッチ。ありえない速度。金糸銀糸の豪奢なタペストリーのような鮮やかで、多彩な音色。
ピアニストの名前をしっかりと覚えた。ミラノ在住マウリツィオ・ポリーニ。
私より2~3歳だけ、年上の彼が弾いたその曲は、少女時代、楽譜を見ただけで、卒倒しそうになった曲。
不協和音とテンポの合わせ方が難しく、投げ出してしまった曲だった。
これを弾ける人がいるのかしら……?
かなり手が大きく指が長くないとおさえられない和音がいっぱいあった。
それを、目の前で、あっさり演奏されて、私はショックを受けた。
コンサートが、終わって、ホールのピアノを弾いてみた。
さっき聴いたばかりのペトルーシュカ。
全然、指がまわらない。ペトルーシュカどころか、ろくに指が動かない。
弾かなくなって、時間が経ちすぎたのだ。
それに、自殺衝動を抑えるための、大量の薬を処方されてたために、全身の感覚が鈍いのだ。
もう、前みたいに弾けないかもしれない……。でも、それでも弾きたい。こんなところで、グズグズしてる暇はないのよ!
私は、倉庫にしまわれたアップライトピアノを毎日弾きにいった。指が動かないので、少しづつ慣らした。
薬の量も減らしてもらった。
少しづつ全身の感覚がよみがえって来るのを感じた。