蛍夜
ある日、彼が「夜中、屋敷を抜け出そう。いいもの見せてやるぜ。」って言った。
私はドキドキして、夜中、みんなが寝静まるのを待ってた。
中庭のフランス窓をコツコツと彼がたたいて、私たちはでかけた。彼と屋敷の外に出るのは、初めてのことだった。
「どこに行くの?」
「それを言ったら、つまらねえじゃねえか。さ、行こうぜ」
闇夜をスタスタと先を行く彼。私は歩いたことのない道。遅れてしまう。
「待ってよ。先に行かないで!」
「仕方ねえな。手、ひいてやるよ。」
彼に手をひかれて、私はとたんにうれしくなる。闇夜だろうと、なんだろうとずっと歩き続けていたいわ。
いつのまにか、水の流れる音がしてる。カエルの声がする。
「ここだ。静かにしてな。オレたちの足音で、ひっこんじまったが、すぐ出てくるぜ。」
息をひそめていると、やがて、小さな緑色の光がフワフワと動き回る。螢だ!絵本でしか見たことがなかったわ。
下の方から、かなり上の方まで飛び交っている。
「すごく、きれいね。」
「ああ、だから、おまえに見せたかった。」
水の流れる音。うるさいくらいのカエルの声。あたりはしんとしてなんかいない。でも、螢を見てると、音の無い世界にいるみたいだわ。
あんまりきれいで、悲しくなる。
彼は、私にこんなに、きれいなものを見せてくれる。
駆け落ちして、結婚することも約束してくれてる。
これ以上、望むのは、きっと欲張り。でも、聞きたい。知りたい。彼の気持ちを………。
「私………あなたが、好きよ。お嫁さんになりたいわ。でも、あなたは?あなたは、私をどう思ってるの?小さい頃の約束を果たすためだけに、私をもらってくれようとしてるの?」
「………俺に何を言わせたいんだよ。おまえのとこに来る異人の将校たちみたいなことを言えって、言ってんのかよ。くだらねえ。」
「くだらなくないわよ!」
私は、涙が出てくる。大きくなった彼に会ってから、すぐに泣いたり、不安になったり、心は嵐の中の小舟みたいに、激しく揺れる。ぎゅっと抱いて、落ち着かせてほしいのに、彼は触れてもくれない。
「何泣いてんだよ?俺は日本男児なんだから、異人が言うようなことは、言えねえよ。
だがな………。オレは、鎌倉の庭で泣いてたおまえを見てから、この先ずっと、一人で泣かせたくねえって思った。
三四郎、読んでみろ!
Pity's akinto loveって、書いてあんだろが。」
「?」
「かわいそうってのは、もう惚れたってこと。だから、くだらねえことで、もう、泣いたりするな。ほらみてみろよ……上を。」
涙を拭いて、見上げると、降るような星空を、フワフワと螢が飛び交うのが、見える。
「ほんとに………きれいね。」
不意に、星空も螢もみえなくなる。
接吻されて。
......*......*......*......*......*
私の部屋の、中庭に通じる大きなフランス窓から、彼は明け方帰って行った。
中庭は、朝露に濡れたバラでいっぱい。私は彼の後ろ姿を、いつまでも見送る。
人知れず私の夫となった、愛しい幼なじみの後ろ姿を。