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聖女の癒しには代償がありまして、人を救うたびに記憶を一つ失います ~それでもあなたの名前だけは忘れませんでした~  作者: 凪乃


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9/10

忘れた約束

 朝の光で目が覚めた。


 窓から差し込む陽射しが白いシーツを金色に染めている。鳥の声。庭師が芝を刈る音。いつもの朝だ。


 ——いつもの朝の、はずだった。


 身体を起こし、枕元の帳面に手を伸ばす。毎朝の習慣だ。眠る前に書いた記録を読み、昨日の自分がどこまで「私」だったかを確認する。


 帳面を開く。昨夜のページ。


『宰相が新しい聖女候補を連れてきた。十にも満たない少女。あの子に術式を刻ませてはいけない。カインが術式を解く手段を探すと言ってくれた』


 ——読んだ。読んで、理解した。この記述は覚えている。昨日の謁見の間、宰相の冷たい目、あの少女の震える唇。全て覚えている。


 だが、その前のページに目を移した時、指が止まった。


『聖女の力は神の恩寵ではない。人工的に刻まれた術式。代償は仕様。記憶を燃料として消費する設計。歴代聖女は全員、最後は廃人になっている。——私は、最初から壊れるために作られた』


 文字を読んだ。意味も理解できる。でも——この記述に結びつく記憶が、ない。


 地下書庫。カインと二人で、夜の神殿に忍び込んだ。禁書を見つけた。衝撃を受けた。——帳面にはそう書いてある。でも、その時の光景が浮かんでこない。松明の代わりに灯した手のひらの光も、古い羊皮紙の匂いも、読み進めるうちに震え始めた手の感覚も。何も、思い出せない。


 帳面の中の自分は確かにそこにいたのに、今の私はその場所を知らない。


 また——失ったのだ。


 いつ。眠っている間に。子供の怪我を癒した時の代償がまだ続いていたのか、それとも——分からない。分からないことが、一番怖い。


 身支度を整え、朝食の席に向かった。だが食事が喉を通らなかった。パンを千切り、スープに浸し、それを口に運ぶ動作を繰り返しながら、頭の中では同じ問いが回っていた。


 帳面に書いてあることは本当なのか。いや、疑う理由はない。あれは私の字だ。間違いなく昨日の私が書いた。でも、書いた時の感情が分からない。恐怖だったのか、怒りだったのか、悲しみだったのか。文字の羅列だけが残り、その奥にあったはずの生々しさが消えている。


 食堂を出て、中庭に向かった。カインがいつもの場所で剣の手入れをしている。朝日を受けた黒い髪が、わずかに青く光っていた。


「カイン様」


 彼が顔を上げた。私の顔を見て、一瞬、何かを察したようだった。


「昨日の話を……もう一度、教えていただけますか」


 カインの手が止まった。剣を鞘に収め、ゆっくりと立ち上がる。


「どこまで覚えている」


「帳面に書いてあることは読みました。でも——地下書庫のことが、思い出せません。禁書の内容は帳面で分かります。ただ、あの夜のことが……記憶としては、ないのです」


 カインの顔から、一瞬だけ表情が消えた。


 それは怒りでも悲しみでもなく、もっと深い場所にある感情が表面に出かけて、すぐに押し戻されたような——そんな一瞬だった。


「……そうか」


 カインは短く言った。そして、静かに昨夜のことを話してくれた。


 地下書庫への道順。鎖で封じられた書架。禁書の内容。私が震えていたこと。「最初から壊れるように作られていた」と言ったこと。帰り道、二人とも無言だったこと。


 聞きながら、胸が痛んだ。カインの声は淡々としていたが、言葉を選ぶ間に小さな沈黙が挟まるたびに、彼がどれほど苦しんでいるかが伝わってきた。


 カインにとって、それはどういうことだろう。


 二人で見つけた真実を、隣にいた人間が翌朝には忘れている。共有したはずの衝撃を、片方だけが背負い続ける。そして忘れた側は、毎回「もう一度教えてください」と言う。


 その繰り返しを——カインはいつまで耐えられるのだろう。


「すみません」


 気がつくと謝っていた。


「何を謝る」


「忘れてしまって」


「お前のせいじゃない」


 カインの声は素っ気なかった。でもその素っ気なさの中に、優しさがあることを私は知っている。知って——いる。


 ふと気づいた。


 地下書庫の記憶は消えた。カインとの会話の一部も消えた。でも、カインの顔を見た時に胸の奥が温かくなる感覚は、消えていない。


 彼といると安心する。この人の声を聞くと、呼吸が楽になる。名前を呼ぶと、世界が少し明るくなる。——その感覚は、帳面に書く必要もなく、ここにある。


「カイン様」


「何だ」


「記憶は消えても……感情は残るのかもしれません」


 カインが怪訝な顔をした。


「地下書庫のことは思い出せません。でも、あなたと一緒に何か大切なことをした、という感覚は残っています。内容は分からないのに、あの夜が重要だったという確信がある。それはきっと——記憶ではなく、感情が覚えているのだと思います」


 カインは黙っていた。長い沈黙だった。


「……根拠は」


「ありません」


 私は少し笑った。


「でも、母の顔を忘れても母を愛していた気持ちは残っています。幼馴染の名前を忘れても、誰かと笑い合った温もりは消えていません。記憶という器は壊れても、中に入っていた感情は——別の場所に沁み込んで、残っているような気がするのです」


 風が中庭の木々を揺らした。花びらが舞い、カインの肩に一枚落ちた。彼はそれに気づかなかった。


「そう、だとしたら——」


 カインが口を開きかけ、閉じた。目を逸らし、中庭の向こうを見つめる。


「いや、何でもない」


 何を言いかけたのか、聞かなかった。聞かなくても、分かるような気がした。


 記憶が消えても感情が残るのなら——二人の間にあるものは、代償では消えない。


 確信はなかった。根拠もなかった。ただ、そう信じたいと思った。信じることもまた、感情だから。


 帳面を開き、今朝の分を書き記す。


『地下書庫の記憶が消えていた。カインに教えてもらい、内容は再び理解した。だが、記憶そのものは戻らない。一つ気づいたことがある。記憶は消えても、感情は残る。カインと過ごした時間の内容は消えても、カインといた時の安心感は消えていない。これが何を意味するのか、まだ分からない。でも——希望だと、思いたい』


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