王宮の圧力
禁書庫から戻って三日後、事態は動いた。
朝の謁見の間。宰相が私を呼び出した。
高い天井から朝日が差し込み、大理石の床に光の柱を立てている。壁際には近衛兵が並び、玉座の横に宰相が立っていた。痩せた長身に灰色の髪。目の奥に感情を見せない人だ。
「聖女殿。先日の儀式拒否について、改めて話がある」
宰相の声は平坦だった。怒りも苛立ちもない。それが逆に怖い。
「聖女の義務を果たす意思がないのであれば、我々にも考えがある」
「どのような考えでしょうか」
「代わりを探す」
一瞬、意味が分からなかった。代わり。聖女の、代わり。
「すでに候補の選定を始めている。王国内で魔力適性の高い少女を調査し、術式を刻む準備を進めている」
血の気が引いた。
術式を——新しい少女に、あの術式を刻む。記憶を燃料にして壊れていく、あの術式を。
「候補を一人、連れてきている」
宰相が手を振ると、扉が開いた。神殿長が入ってくる。その後ろに——小さな影があった。
少女だった。
十にも満たない幼い子だ。亜麻色の髪を二つに結び、大きな瞳で恐る恐る周囲を見回している。粗末だが清潔な服。おそらく地方の村から連れてこられたのだろう。手を胸の前で握りしめ、唇が小さく震えていた。
「この子の魔力適性は極めて高い。聖女の術式を刻むのに十分な素質がある」
宰相が淡々と述べる。まるで荷物の品定めをするように。
「聖女殿が職務を再開するなら、この子は村に帰す。だが拒否を続けるなら——」
「やめてください」
自分でも驚くほど鋭い声が出た。
謁見の間に沈黙が落ちた。近衛兵たちが緊張するのが空気で分かる。
「あの子に術式を刻ませません」
「聖女殿——」
「あの術式が何をするか、あなたはご存じないのですか。記憶を燃料にして、人を壊す装置です。あの子にそれを背負わせるというのですか」
宰相の目が細まった。私が禁書庫の内容を知っていることを、今、悟ったはずだ。だが宰相は表情を変えなかった。
「聖女の術式は神の恩寵だ。代償はあるが、それは聖女の宿命——」
「嘘です」
声が震えた。怒りか、恐怖か、自分でも分からない。
「神の恩寵ではない。あれは人が設計した術式です。代償も含めて、全てが意図的に作られたもの。歴代の聖女が最後にどうなったか——あなたは知っていて、黙っていたのではありませんか」
宰相は沈黙した。否定も肯定もしない。それ自体が答えだった。
少女がこちらを見ていた。何が起きているか分からない。ただ、大人たちの険しい空気に怯えている。私が微笑むと、少女はわずかに安堵した顔をした。
「あの子は帰してください」
「聖女殿が義務を果たすなら」
「脅迫ですか」
「取引だ」
宰相の声には一切の感情がなかった。取引。人の命を天秤にかけることを、この人は取引と呼ぶ。
謁見が終わるまで、私はずっとあの少女を見ていた。少女は終始うつむいたまま、自分の指先をいじっていた。ここに連れてこられた意味も分からず、ただ大人たちの間で小さくなっていた。あの子の手は、まだ何の術式も刻まれていない。きれいな、何も知らない手だった。
回廊に出ると、カインが待っていた。壁に背を預け、腕を組んでいる。全て聞いていたのだろう。
「あの子を帰さなければ」
「分かっている」
カインが歩き始め、私もその横に並んだ。
「だが、お前が儀式を再開すれば元に戻る。宰相はそれを分かっていて仕掛けてきた」
「再開すれば、私は壊れます」
「だから再開しない。別の方法を探す」
カインが足を止め、こちらを見た。
「方法は一つだ。お前が聖女でいる間に、術式を解く手段を見つける」
「解く手段……」
「禁書庫に書いてあっただろう。術式は人が作ったものだと。人が作ったなら、人が解ける。俺は今からそれを探す」
その目は真剣だった。不器用な誠実さが、言葉の一つ一つに滲んでいる。
「時間がかかるかもしれない。だが——お前が壊れるより先に、必ず見つける」
私は頷いた。頷くことしかできなかった。
けれど、カインの目を見ていると、この人ならやり遂げるだろうという確信があった。根拠ではない。積み重ねてきた信頼——覚えていないものも含めて——が、胸の奥でそう告げていた。
その日の午後、カインは早速動き始めた。騎士団の伝手を使い、王国外の学者や元神官に接触を試みているようだった。私にできることは少ない。ただ、壊れずにいること。カインが方法を見つけるまで、一つでも多くの記憶を守り抜くこと。それだけが、今の私の戦いだった。
自室に戻り、帳面を開く。
『宰相が新しい聖女候補を連れてきた。十にも満たない少女。あの子に術式を刻ませてはいけない。カインが術式を解く手段を探すと言ってくれた。時間との戦いになる。私が壊れるのが先か、解呪の手段を見つけるのが先か』
ペンを置き、窓の外を見る。中庭の向こうに、あの少女が神殿長に連れられて歩いていくのが見えた。不安そうに辺りを見回す、小さな背中。
あの子は私の代わりにされるかもしれない。
でも、させない。
この身体に刻まれた術式の残酷さを、私は知っている。壊れていく恐怖を知っている。大切な記憶が一つずつ溶けていく、あの底なしの喪失感を知っている。
あの子にだけは——あんな思いはさせない。
帳面を閉じ、胸に抱いた。
カインが方法を見つけてくれると信じよう。信じることしかできない自分が歯がゆいけれど、今はそれでいい。
信じる相手の名前を、まだ覚えているのだから。




