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聖女の癒しには代償がありまして、人を救うたびに記憶を一つ失います ~それでもあなたの名前だけは忘れませんでした~  作者: 凪乃


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3/10

宮廷の聖女

 王宮の奥、大理石の柱が整然と並ぶ政務の間。その扉の前で、私は足を止めた。


 中から声が漏れ聞こえる。本来なら聞くべきではない会話だ。けれど、自分の名前が——正確には「聖女」という肩書きが耳に入った瞬間、足が動かなくなった。


「聖女の次の運用は、ヴェルディア公国の使節団だ」


 宰相の声だった。淡々として、帳簿の数字を読み上げるような調子。


「公国の大公は持病の腰痛に長年悩んでいる。聖女の癒しで治せば、今期の通商条約は我が方に有利に傾く」


「なるほど。外交の切り札というわけですな」


 もう一つの声は神殿長のものだった。老いた声だが、権力に馴染んだ滑らかさがある。


「しかし宰相殿、聖女の消耗も考慮せねば。儀式の頻度が上がっておりますぞ」


「消耗?」


 宰相の声に、かすかな嘲りが混じった。


「道具の消耗を気にするなら、代わりを用意すればよい。神殿には次の聖女候補もいるのだろう」


「それは……まだ幼い子供です。実戦投入には五年はかかります」


「ならば、今の聖女をあと五年保たせろ。それだけのことだ」


 道具。


 その言葉が、冷たい釘のように胸に刺さった。


 分かっていた。分かっていたはずだ。聖女とは王宮にとって何であるか。日記にも書いてある——過去の私が、同じ言葉を何度も記していた。『私は道具だ』と。けれど文字で読むことと、肉声で聞くことは違う。


 足音が近づいてくる。私は慌ててその場を離れ、何食わぬ顔で回廊を歩き始めた。


 三日後の儀式は、予定通り行われた。


 けれどそれは負傷兵の治癒ではなく、外交行事だった。


 大広間は華やかに飾り立てられていた。白百合と銀の燭台、絹のカーテン。負傷兵が転がっていた三日前とは別世界のようだ。正面にはヴェルディア公国の使節団が並び、その中央には杖をついた恰幅のいい老人——大公その人がいた。


「聖女殿、大公閣下の御身体をお癒しいただきたい」


 宰相が慇懃に告げる。その目は笑っていない。命令だ。丁寧な言葉で包装された、拒否を許さない命令。


 私は微笑みを浮かべ、大公の前に進み出た。膝をつき、両手を翳す。


「失礼いたします、大公閣下」


「おお、これが噂の聖女か。若いな」


 大公は好奇心に満ちた目で私を見下ろしていた。珍しい動物を見るような目。私はその視線に慣れている——と、日記には書いてあった。


 光が灯る。指先から溢れる金色の輝きが、大公の腰を包み込む。長年の炎症が溶けるように消えていく。骨と筋が本来の配置を取り戻し、歪みが正される。


 簡単な治癒だった。戦場の重傷者に比べれば、老人の腰痛など造作もない。


 けれど代償は、治癒の難易度とは関係なく訪れる。


 光が消えた瞬間、頭の奥でまた何かが溶けた。


 ——何かを忘れた。何を忘れたのか、もう分からない。


 大公は立ち上がり、杖を放り投げた。「素晴らしい! 痛みが消えた!」と歓声を上げ、使節団から拍手が起こる。宰相は満足げに頷き、神殿長は穏やかに微笑んでいる。


 私だけが、静かに膝の上で拳を握っていた。


 宴が始まり、大広間が喧噪に包まれる中、私はそっと席を外した。回廊に出ると、夜風が頬を撫でた。冷たくて、心地いい。


 中庭の花壇が目に入った。月明かりに照らされた色とりどりの花。綺麗だと思う。けれど——。


 一つだけ、名前が出てこない花があった。


 紫色の、小さな花。確か好きだった花だ。日記にも「好きな花」として名前を書いていた気がする。でも今、その名前が出てこない。


 菫——いや、違う。桔梗——でもない。


 思い出せない。


 好きだという感情の残滓だけが胸にあって、名前も、好きになった理由も、初めて見た時の記憶も、すべて消えている。


「リンドウだ」


 背後から声がした。振り返ると、カインが壁に背を預けて立っていた。腕を組み、月光に照らされた顔は相変わらず険しい。


「お前が好きだと言っていた花の名前。リンドウだ」


「……覚えて、いてくださったんですか」


「お前が忘れるから、誰かが覚えていなければならない」


 その言葉に、胸の奥が震えた。


 カインは壁から背を離し、私のほうへ歩いてきた。月明かりの下、彼の顔は宴の華やかさとは無縁の、厳しい表情をしていた。


「さっきの儀式。あの程度の治癒でも、失うのか」


「はい」


「治癒の大小は関係ないのか」


「おそらくは。力を使うたび、一つ。それが代償です」


 カインは低く息を吐いた。怒りとも悲しみともつかない、押し殺した感情を滲ませて。


「お前は道具じゃない」


 その声は、宰相のそれとは何もかもが違っていた。


「あいつらはお前を壊れるまで使い潰す気だ。外交の道具、戦争の備品——そんなもののために、お前の記憶が消えていくのは間違ってる」


 間違っている。


 そう言い切れる人が、この王宮にどれだけいるだろう。聖女の犠牲は王国の繁栄のためだと、誰もが当然のように受け入れている。その中でカインだけが、間違いだと言った。


「でも」


 私は俯いた。


「カイン様のお声は、王宮の中ではとても小さい」


 カインは何も言わなかった。ただ拳を強く握り締めるのが、月の光に照らされて見えた。


 沈黙が降りる。遠くから宴の音楽が微かに聞こえる。


 私は忘れたばかりの花の名前を、心の中で繰り返した。リンドウ。リンドウ。今度こそ忘れないように——けれどそれが叶わないことを、私はもう知っていた。

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