宮廷の聖女
王宮の奥、大理石の柱が整然と並ぶ政務の間。その扉の前で、私は足を止めた。
中から声が漏れ聞こえる。本来なら聞くべきではない会話だ。けれど、自分の名前が——正確には「聖女」という肩書きが耳に入った瞬間、足が動かなくなった。
「聖女の次の運用は、ヴェルディア公国の使節団だ」
宰相の声だった。淡々として、帳簿の数字を読み上げるような調子。
「公国の大公は持病の腰痛に長年悩んでいる。聖女の癒しで治せば、今期の通商条約は我が方に有利に傾く」
「なるほど。外交の切り札というわけですな」
もう一つの声は神殿長のものだった。老いた声だが、権力に馴染んだ滑らかさがある。
「しかし宰相殿、聖女の消耗も考慮せねば。儀式の頻度が上がっておりますぞ」
「消耗?」
宰相の声に、かすかな嘲りが混じった。
「道具の消耗を気にするなら、代わりを用意すればよい。神殿には次の聖女候補もいるのだろう」
「それは……まだ幼い子供です。実戦投入には五年はかかります」
「ならば、今の聖女をあと五年保たせろ。それだけのことだ」
道具。
その言葉が、冷たい釘のように胸に刺さった。
分かっていた。分かっていたはずだ。聖女とは王宮にとって何であるか。日記にも書いてある——過去の私が、同じ言葉を何度も記していた。『私は道具だ』と。けれど文字で読むことと、肉声で聞くことは違う。
足音が近づいてくる。私は慌ててその場を離れ、何食わぬ顔で回廊を歩き始めた。
三日後の儀式は、予定通り行われた。
けれどそれは負傷兵の治癒ではなく、外交行事だった。
大広間は華やかに飾り立てられていた。白百合と銀の燭台、絹のカーテン。負傷兵が転がっていた三日前とは別世界のようだ。正面にはヴェルディア公国の使節団が並び、その中央には杖をついた恰幅のいい老人——大公その人がいた。
「聖女殿、大公閣下の御身体をお癒しいただきたい」
宰相が慇懃に告げる。その目は笑っていない。命令だ。丁寧な言葉で包装された、拒否を許さない命令。
私は微笑みを浮かべ、大公の前に進み出た。膝をつき、両手を翳す。
「失礼いたします、大公閣下」
「おお、これが噂の聖女か。若いな」
大公は好奇心に満ちた目で私を見下ろしていた。珍しい動物を見るような目。私はその視線に慣れている——と、日記には書いてあった。
光が灯る。指先から溢れる金色の輝きが、大公の腰を包み込む。長年の炎症が溶けるように消えていく。骨と筋が本来の配置を取り戻し、歪みが正される。
簡単な治癒だった。戦場の重傷者に比べれば、老人の腰痛など造作もない。
けれど代償は、治癒の難易度とは関係なく訪れる。
光が消えた瞬間、頭の奥でまた何かが溶けた。
——何かを忘れた。何を忘れたのか、もう分からない。
大公は立ち上がり、杖を放り投げた。「素晴らしい! 痛みが消えた!」と歓声を上げ、使節団から拍手が起こる。宰相は満足げに頷き、神殿長は穏やかに微笑んでいる。
私だけが、静かに膝の上で拳を握っていた。
宴が始まり、大広間が喧噪に包まれる中、私はそっと席を外した。回廊に出ると、夜風が頬を撫でた。冷たくて、心地いい。
中庭の花壇が目に入った。月明かりに照らされた色とりどりの花。綺麗だと思う。けれど——。
一つだけ、名前が出てこない花があった。
紫色の、小さな花。確か好きだった花だ。日記にも「好きな花」として名前を書いていた気がする。でも今、その名前が出てこない。
菫——いや、違う。桔梗——でもない。
思い出せない。
好きだという感情の残滓だけが胸にあって、名前も、好きになった理由も、初めて見た時の記憶も、すべて消えている。
「リンドウだ」
背後から声がした。振り返ると、カインが壁に背を預けて立っていた。腕を組み、月光に照らされた顔は相変わらず険しい。
「お前が好きだと言っていた花の名前。リンドウだ」
「……覚えて、いてくださったんですか」
「お前が忘れるから、誰かが覚えていなければならない」
その言葉に、胸の奥が震えた。
カインは壁から背を離し、私のほうへ歩いてきた。月明かりの下、彼の顔は宴の華やかさとは無縁の、厳しい表情をしていた。
「さっきの儀式。あの程度の治癒でも、失うのか」
「はい」
「治癒の大小は関係ないのか」
「おそらくは。力を使うたび、一つ。それが代償です」
カインは低く息を吐いた。怒りとも悲しみともつかない、押し殺した感情を滲ませて。
「お前は道具じゃない」
その声は、宰相のそれとは何もかもが違っていた。
「あいつらはお前を壊れるまで使い潰す気だ。外交の道具、戦争の備品——そんなもののために、お前の記憶が消えていくのは間違ってる」
間違っている。
そう言い切れる人が、この王宮にどれだけいるだろう。聖女の犠牲は王国の繁栄のためだと、誰もが当然のように受け入れている。その中でカインだけが、間違いだと言った。
「でも」
私は俯いた。
「カイン様のお声は、王宮の中ではとても小さい」
カインは何も言わなかった。ただ拳を強く握り締めるのが、月の光に照らされて見えた。
沈黙が降りる。遠くから宴の音楽が微かに聞こえる。
私は忘れたばかりの花の名前を、心の中で繰り返した。リンドウ。リンドウ。今度こそ忘れないように——けれどそれが叶わないことを、私はもう知っていた。




