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聖女の癒しには代償がありまして、人を救うたびに記憶を一つ失います ~それでもあなたの名前だけは忘れませんでした~  作者: 凪乃


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2/10

日記帳

 革の表紙は、手に馴染んでいた。


 何度も何度も開いたのだろう。角は丸く擦り減り、背表紙の金箔はほとんど剥がれている。けれど私には、この帳面を手に入れた日の記憶がない。最初のページに日付が書いてあるから、三年前に使い始めたのだということは分かる。ただそれだけだ。


 朝の光が差し込む私室で、私は帳面を最初から読み返していた。


 最初の数ページは、穏やかな日常の記録だった。庭園の花が綺麗だったこと、厨房のパン職人が新作の菓子を焼いてくれたこと、神殿での祈りの時間が心地よかったこと。


 けれど、途中から筆致が変わる。


『今日、母の顔を忘れた』


 その一行は、他の文字よりも深く紙に刻まれていた。ペンを強く押し付けたのだろう。インクが滲んで、小さな染みを作っている。


『思い出そうとしても、輪郭がぼやける。目の色も、髪の色も、声も。全部が霧の中に沈んでいく。母は優しい人だったと、それだけは覚えている。でもそれは記憶ではなく、知識だ。感情の伴わない、ただの情報に成り果ててしまった』


 ページをめくる。指先が微かに震えているのは、朝の冷気のせいだと思いたかった。


『幼馴染の名前を忘れた。村で一緒に遊んだ子。どんな顔だったかも分からない。日記の前のページに、二人で川で魚を捕まえた話が書いてある。楽しそうな文章なのに、読んでも何も感じない。他人の思い出話を聞いているようだ』


『初めて花を見た日のことを忘れた。春の野原に一面に咲いていた、と書いてある。きっと美しかったのだろう。でも、その美しさを感じた心が、もうない』


『昨日食べたものが思い出せない。これは普通のことなのか、代償なのか、もう区別がつかない。普通の物忘れと代償の境界線は、とうに溶けてしまった』


 リストは延々と続いていた。失われた記憶の目録。私という人間を形作っていたはずの欠片たちが、一つずつ消えていった記録。ページの余白には、時折小さな染みがあった。涙の跡だろうか。それすらも、誰が——いつの私が流した涙なのか、分からない。


 私はこの帳面を「忘却日誌」と心の中で呼んでいた——いや、以前の私がそう呼んでいたことが、帳面の冒頭に書いてある。今の私がその名前に愛着を感じるかどうかは、また別の話だ。


 帳面を閉じ、窓の外に目をやった。中庭の噴水が朝日を受けて輝いている。美しい光景だと思う。けれど、昨日も同じ景色を見たはずなのに、その時の感情が思い出せない。


 扉を叩く音がした。


「……入れ」


 いや、違う。叩いたのではなく、ほとんど無遠慮に押し開けられた。


 黒髪の男が立っていた。昨日の——あの、名前を聞いても答えてくれなかった騎士。


 いや。


 日記を読んだ今なら分かる。彼の名前は何度も帳面に出てくる。


「カイン……様」


 名前を呼ぶと、彼はわずかに目を見開いた。そしてすぐに、表情を引き締める。


「思い出したのか」


「いいえ。日記に書いてありました」


 正直に答えると、カインは苦い顔をした。扉を背にして立ったまま、腕を組み、しばらく黙っていた。やがて、低い声で口を開く。


「お前の記憶がおかしいことには……前から気づいていた」


「前から?」


「半年ほど前だ。俺の副官の名前を忘れた。何度も顔を合わせていたはずの相手を、初対面のように見ていた」


 半年前。日記を辿れば、その頃の記録もあるだろう。けれど今の私には、半年前の自分が何を感じていたか分からない。


「いつからだ。この……代償とやらは」


「覚えていません」


 私は微笑んだ。笑うしかなかった。


「忘れたことを忘れてしまうので。最初に何を失ったのかも、いつから始まったのかも。日記を信じるなら、少なくとも三年以上前からだと思います」


 カインの拳が握られるのが見えた。革の手袋が軋む小さな音が、静かな部屋に響く。


「もう誰も救うな」


 その言葉は、命令のように鋭かった。


「治癒の儀式をやめろ。これ以上記憶を失えば、お前は——」


「でも」


 私は帳面を胸に抱きしめた。


「救わなければ、人が死にます」


「お前が壊れてもいいのか」


「壊れる……」


 その言葉の重さを、私は正しく受け止められているのだろうか。失い続けることの恐怖を、すでに失い始めている私は、本当に理解できているのだろうか。


「カイン様。私は聖女です。人を癒すために、ここにいます」


「それは本当にお前の意思か。それとも、そう思い込まされているだけか」


 答えられなかった。


 自分の意思と信じているものが、本当に自分のものなのか。記憶を失い続ける人間に、その区別がつくのだろうか。


 沈黙が落ちた。窓から差し込む光が、二人の間に白い線を引いていた。


 カインは何かを言いかけて、けれど言葉を飲み込んだ。こちらに背を向け、扉に手をかける。


「三日後の儀式には、俺も立ち会う」


 それだけ言い残して、彼は出て行った。


 一人残された部屋で、私は再び帳面を開いた。今日の日付を書き、こう記す。


『カインという人が来た。騎士団長。黒い髪。怒ったような顔をしているけれど、目は悲しそうだった。この人のことは、明日も覚えていたい』


 ペンを置く。インクが乾くのを待ちながら、私はそっと目を閉じた。


 覚えていたい、と願うことに、どれほどの意味があるのだろう。願いで記憶が守れるなら、母の顔を忘れたりはしなかった。


 それでも——書かずにはいられなかった。

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