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聖女の癒しには代償がありまして、人を救うたびに記憶を一つ失います ~それでもあなたの名前だけは忘れませんでした~  作者: 凪乃


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カインの過去

 その話を聞いたのは、夕刻の訓練場だった。


 騎士たちの稽古が終わり、広い練兵場にはカインと私だけが残っていた。西の空が赤く燃え、砂埃が金色に舞っている。カインは剣を手入れしながら、珍しく自分のことを話し始めた。


 きっかけは、私の何気ない一言だった。


「カイン様は、なぜ騎士団長になったのですか」


 聞いた瞬間、カインの手が止まった。柄を握る指が白くなるほど力が入り、すぐに緩んだ。


 長い沈黙があった。夕風が練兵場の旗をはためかせる音だけが響いている。


「……話すべきだと思っていた」


 カインは剣を鞘に収めた。


「先代聖女の話だ」


 先代聖女。日記にも記録がある。十年前に「急死」したことになっている女性。晩年は言葉を失い、人の顔も分からなくなり、最後は自分の名前すら忘れて逝った——そう、先代の侍女が証言していた。


「先代聖女カティアは——」


 カインが目を伏せた。


「俺の、姉だ」


 世界が一瞬、止まった気がした。


「……お姉様」


「血の繋がった姉だ。五つ年上だった」


 カインが話し始めた。訥々と、けれど一語一語を確かめるように。


 姉のカティアは、幼い頃から魔力が強かった。十二の歳に神殿の審査を受け、聖女の術式を刻まれた。家族は誇りに思った。カインも幼いながらに、姉を誇りに思った。


 聖女になった姉は、多くの人を救った。病を癒し、怪我を治し、王宮の外交行事でも力を振るった。国中が姉を称えた。


 だが——三年ほど経った頃から、姉の様子が変わり始めた。


「物忘れが増えた。最初は些細なことだ。昨日の夕食の献立を忘れる。読んでいた本の筋を忘れる。誰もが、疲れているのだろうと思った。俺も、そう思っていた」


 カインの声は平坦だった。感情を抑えているのが、かえって痛々しかった。


「だが、忘れ方が異常になっていった。幼い頃の思い出が丸ごと消えた。村の景色を忘れた。母の顔を忘れた。——そして、俺の名前を忘れた」


 息を呑んだ。


「面会に行くと、姉はいつも笑っていた。優しい笑顔で。でも、俺を見ても『あなたはどなた?』と言うようになった。何度名乗っても、次に行くと忘れている。最後の一年は——もう、誰のことも分からなかった」


 カインが空を見上げた。夕焼けが彼の顔を赤く照らしている。


「最後に会った時、姉は窓の外を見ていた。何を見ているのか聞いたら、『きれいな空ですね』と言った。それだけだ。空が綺麗だということだけを、まだ覚えていた。——三日後に、死んだ」


 言葉が出なかった。


 カインの姉が先代聖女。聖女として消費され、記憶を全て失い、最後は弟の顔も分からなくなって死んだ。


 そして——カインは、その弟だった。


「姉を守れなかった」


 カインの声が低く震えた。


「俺はまだ子供で、何もできなかった。姉が壊れていくのを、ただ見ていることしかできなかった。王宮に抗議する力もなく、術式を解く知識もなく——姉は笑ったまま消えた」


 カインが私を見た。夕日を背にした目が、暗く、深く、光っていた。


「騎士になったのは、あの後だ。誰よりも強くなれば、次の聖女を守れると思った。騎士団長にまで上り詰めたのは——次の聖女には、姉と同じ道を歩ませないためだ」


 つまり——カインが騎士団長になった理由。それは国への忠誠でも、武勲でもなく。


 姉を失った弟の、償いだったのだ。


「あなたは……姉上のために、私を守ろうとしているのですか」


 声は震えなかった。怒りではない。悲しみとも違う。ただ、知りたかった。


 カインの中で、私はカティアの代わりなのか。守れなかった姉の影を、私に重ねているのか。


 カインは答えなかった。長い沈黙の後、口を開いた。


「最初は——そうだった」


 正直な言葉だった。


「お前が聖女に選ばれた時、思った。今度こそ守ると。姉にできなかったことを、この聖女にはすると。お前の顔に姉の面影を重ねていた時期もあった。——否定はしない」


 風が止んだ。練兵場が静まり返り、二人の間の空気だけが張り詰めている。


「だが——」


 カインが一歩、近づいた。


「今は違う」


 その目を見た時、胸の奥で何かが震えた。


「お前は姉じゃない。姉の代わりでもない。お前はお前だ。——俺は、お前自身を守りたい」


 嘘のない目だった。不器用で、ぶっきらぼうで、優しい言葉を飾る術を知らない人の、嘘のない目。


 涙が出そうになった。堪えた。堪え切れなかった。


「……ずるいです」


 声が掠れた。


「そんなこと言われたら……忘れられないじゃないですか」


 カインが目を見開いた。そして——ほんの一瞬、唇の端がわずかに上がった。笑った、のだと思う。見たことのない表情だった。


「忘れるな」


 低い声が言った。


「何度でも言ってやる。だから——忘れるな」


 返事はできなかった。ただ頷いた。涙を拭い、もう一度頷いた。


 夕日が沈んでいく。練兵場に長い影が伸び、やがて夜の色に溶けていく。


 自室に戻り、帳面を開いた。震える手で、一文字ずつ丁寧に書いた。


『カインの姉は先代聖女カティアだった。聖女として消費され、最後は弟の顔も忘れて死んだ。カインが騎士団長になったのは、次の聖女を守るためだった。でも今は違うと言った。「お前自身を守りたい」と。——この言葉だけは、絶対に忘れたくない。忘れないでいてほしい、未来の私。どうか、この名前と、この言葉を手放さないで』


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