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聖女の癒しには代償がありまして、人を救うたびに記憶を一つ失います ~それでもあなたの名前だけは忘れませんでした~  作者: 凪乃


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忘れた名前

 光が、溢れていた。


 私の両手から放たれる淡い金色の輝きが、野戦病棟と化した大広間を満たしていく。石造りの床に並べられた担架の上で、数十人の兵士たちが呻いていた。血と汗と消毒薬の匂いが混じり合い、重く澱んだ空気が肺を圧迫する。


 それでも、私は手を止めない。


「聖女様の癒しだ……!」


「光が……傷が塞がっていく……!」


 兵士たちの声が、祈りのように大広間に響く。私は目を閉じ、身体の奥底にある力の源泉に意識を沈めた。温かく、けれどどこか痛みを伴う流れが、心臓から指先へと駆け抜けていく。


 大規模治癒儀式。東方国境での戦闘で負傷した兵士たちを一度に癒すため、王宮から直々に命じられた儀式だった。


 光が広がるたび、兵士たちの傷口が閉じていく。裂けた肌が繋がり、砕けた骨が元の形を思い出すように再生する。それは確かに奇跡と呼ぶにふさわしい光景だった。


 けれど。


 光が強くなるたび、私の頭の奥で何かが薄れていく。まるで水に溶けるインクのように、輪郭を失い、色を失い、やがて——消える。


 何かを失った、という感覚だけが残る。それが何だったのかは、もう分からない。


 儀式が終わった頃には、大広間の空気は穏やかなものに変わっていた。兵士たちは安堵の涙を流し、付き添いの者たちは互いに抱き合って喜んでいる。


「聖女様、こちらに——」


 神官の一人に導かれ、私は大広間の奥へと足を運んだ。そこには一人の騎士が横たわっていた。胸を深く斬られ、内臓が損傷している。大規模儀式の光では届かなかった重傷者だ。


「この者だけは、個別の治癒が必要です」


 私は頷き、騎士の傍に膝をついた。若い男だった。まだ二十歳にもなっていないかもしれない。蒼白な顔に浮かぶ苦悶の表情が、胸を締めつける。


 両手を翳す。今度はもっと深く、もっと強く。力を注ぎ込むたびに、あの感覚が襲ってくる。頭の中の何かが、水底に沈んでいくような——。


 光が収まった時、騎士の顔には血色が戻っていた。目を開いた彼は、私を見上げて涙を流した。


「あ……ありがとうございます、聖女様。俺、もう駄目だと……」


 私は微笑んだ。救えてよかった。この笑顔を見るために、この力はある。そう信じている。


「よかった。もう大丈夫ですよ」


 騎士は何度も頭を下げ、仲間たちに支えられながら去っていった。私はその背中を見送りながら、ふと気づいた。


 ——あの騎士の名前、何だっただろう。


 さっき神官が言っていたはずだ。個別治癒の前に、名前と所属を読み上げていた。なのに、思い出せない。声の残響すら、頭の中に残っていない。


「……聖女」


 低い声が背後から降ってきた。振り返ると、黒髪の長身の男が立っていた。騎士団の正装に身を包み、腰には使い込まれた長剣を佩いている。鋭い目つき、けれど瞳の奥に静かな光を湛えた——。


「お前、今の騎士……トマスの名前を忘れたのか」


 トマス。そう、その名前だ。聞けば「ああ、そうだった」と思う。でも、自分からは出てこなかった。


「……ごめんなさい。少し疲れているようで」


 私はそう誤魔化した。けれど目の前の男は、その言葉を受け入れなかった。暗い瞳が、まっすぐに私を射抜く。


「疲れ、じゃないだろう」


 その声は静かだった。静かで、だからこそ重かった。


 私は彼の顔を見つめた。見覚えがある。いや、見覚えがあるはずだ。この人は確か——。


「あの……失礼ですが」


 言葉が口をついて出た。言ってはいけないと、どこかで分かっていたのに。


「あなたは、どなたですか」


 男の表情が凍った。


 比喩ではない。本当に、時間が止まったかのように、彼の顔からすべての動きが消えた。目を見開き、唇を引き結び、そしてゆっくりと視線を落とした。


「……そうか」


 一言だけ呟いて、彼は踵を返した。黒いマントの裾が翻り、夕暮れの回廊に長い影を落とす。その背中が遠ざかっていく様を、私はただ見つめていた。


 胸が痛い。なぜだろう。知らない人の背中のはずなのに、その影が小さくなっていくことが、どうしようもなく悲しかった。


 その夜、私は自室に戻り、寝台の脇に置かれた革表紙の帳面を手に取った。日記帳だ。私の字で書かれているのだから、私のものに違いない。けれど、いつから書き始めたのかは覚えていない。


 最後のページを開く。


 そこには、見覚えのない——けれど確かに私の筆跡の文字が並んでいた。


『今日も一つ忘れた。これで何個目だろう。数えることすら、もう意味がないのかもしれない』


 指先が震えた。この文字を書いた時の感情を、私は思い出せない。


 帳面を閉じかけた時、寝室の扉が叩かれた。侍女が告げる。


「聖女様、宰相閣下がお呼びです」


 廊下の先、燭台の明かりに照らされた宰相の顔は、いつも通り——いや、「いつも通り」が正しいのかどうかも、私には分からないのだけれど——冷たく整っていた。


「次の儀式は三日後だ。聖女殿、休む暇はないぞ。南方の国境からも負傷兵が搬送されてくる」


 三日後。


 私は帳面を胸に抱いたまま、静かに頭を下げた。


「……承知いたしました」


 その返事が正しいのか、間違っているのか。判断するための記憶すら、もう私の中にはなかった。

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