2話 最後だとわかっていれば
シオンが魔法の世界に来てしまう前日のことだ。
学校に行って、友達と放課後にお洒落なカフェに行って、他愛のない話をしながら映えを意識した写真なんか撮ったりして、そんなありふれた日常を過ごしていた。
「ヤバい! さっきの写真めっちゃ映えるんだけど! ……っと、じゃあ私こっちだから、また明日ねっ! バイバイっ!」
これが最後だと分かっていたのなら、宝物みたいなこの日々を、もっと大切に過ごしただろう。
この時のシオンは、これが最後の挨拶になるだなんて、思ってもいなかった。
「ただいまーっ! あれ、お父さんとお母さんの靴あるじゃん! 全員帰ってるなんて珍しー!」
父と母、それと弟。
仕事が忙しくてなかなか夕飯の時間に帰ってこない父と母が、この日は珍しくリビングに集まっていた。
「……おかえり、シオン。明日から更に忙しくなりそうなんだ。だから今日は皆で夕飯を食べようと思ってな」
「……おかえりなさい。今日はシオンの大好物ばかり用意したのよ」
シオンがテーブルに視線を向けると、出来たてのシチューが用意されていた。いつにも増して、豪華な夕食にシオンはドタバタと手洗いをすまして自分の席に座る。
「いっただっきまーすっ! んぅ〜、お母さんのシチュー最高っ!」
「姉さんってば、がっつき過ぎだよ。そんなに急がなくてもシチューは逃げ出さないよ」
「あんただって、久しぶりに家族揃ってご飯食べるの嬉しいくせに〜。あ、口元にシチューついてるよ」
「ちょっ、やめて。自分で拭けるから子供扱いしないでよ。それは……まぁ、家族揃ったのは嬉しい、けどさ」
「なーに言ってんの、10歳は立派な子供でしょ!」
「姉さんの方がずっと子供みたいだけどね」
親に反抗することもなく、年の離れた弟とも、父と母とも関係は良好だ。シオンは家族で過ごす穏やかな時間が凄く好きだった。
「シオン、あのね……、うぅん。シチュー、美味しかった?」
「うんっ! めっちゃ美味しかったよ!」
「そう、良かった……」
何か言いたげな母の肩を、父が無言でポン、と叩いた。
「すまない、二人とも。さっき連絡が来て、父さんと母さんは明日の仕事の準備に戻らなければいけなくなったんだ。留守番、頼めるか?」
「私、もう高校生だよ? 寝るだけなんだし、全然大丈夫だから早く行っていいよ。急ぎなんでしょ?」
「……あぁ、すまない。……本当にすまない。ありがとう、シオン」
幼い頃から仕事が忙しかった父と母。昔から弟と二人で留守番を頼まれる事が多かったシオンにとって、こんなことは慣れたものだ。
何度も心配そうに振り返る両親の背中をぐいぐいと押して、シオンは安心させるように満面の笑みを浮かべて言った。
「全然問題なし! 二人とも気をつけてね、行ってらっしゃい!」
両親の背中が見えなくなるまで見送ったシオンは、弟が眠ったのを見届けてから自室へ戻ると、お気に入りのアロマを枕元に置いた。
「ん〜、良い香り。今度の誕プレ、皆のもアロマにしよっかな〜。……めっちゃ落ち着く、なんかいい夢見れそう……」
明日も変わらずこの部屋で目覚めると信じて疑わなかった。シオンはアロマの香りに身を委ねると、ベッドの中へと潜り込んだ。
◇ ◇ ◇
水底の石が透けて見えるくらい澄み切った湖の傍らで、絹のように真っ白な長い髪が濡れることも構わずに少女が項垂れている。
少女は薄暗い洞窟には似つかわしくない、お姫様が着るみたいな豪華な白いドレスに身を包んでいた。
少女の宝石のような紫色の瞳から溢れ落ちた涙の粒が、湖に波紋を描いた。
「……お願い……。助、けて。…………シオン……ッ!」
苦しそうに絞り出した声で、少女はシオンの名前を呼んだ。
(――ねぇ、待って! どうして、泣いているの……? 私の名前を呼ぶ、貴女は誰なの……?)
夢の中で声を出すことは叶わずに、少女のすすり泣く声が遠ざかっていった。




