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第八話

「――ははっ。何その姿? 可愛いじゃん」


 一方で、エレナを見たリリアは笑みを深くした。


 今のエレナの姿は、いつものそれではない。唸るように開いた口からは歯茎が覗き、伸びた牙が剥き出しだ。赤の虹彩は血のような深紅に染まり、散大した瞳孔は縦に開いている。耳はやや尖り、爪も伸び、まさに異形と言える。


 けれど、そんなエレナを見ても、リリアに物怖じした様子はない。むしろどこか愉快そうであり、好奇心に目を輝かせ、頬に朱をさしている。


 あまりにも異様で、先ほどまで本能に任せて飛びつきそうになっていたエレナは、幸運にも一欠片の理性を取り戻した。


「逃げ……て、ください……」

「……ん?」


 リリアが小首を傾げる。急に態度の変わったエレナの真意を測りかねているようだった。


 エレナはその場で身体を折るようにして蹲った。必死に衝動を抑えこむ。わずかに残された聖女としての矜持が、すんでのところで吸血鬼のエレナに歯止めをかけていた。


「このまま、では……私は……あなたに、害をなしてしまいます。その前、に、どう……かっ」


 人間から吸血するわけにはいかない。それをしてしまえば、エレナは聖女――いや、人間として完全に終わってしまう。心まで魔物になってしまうくらいなら、いっそこの場で殺してほしかった。


 大声を出せば、誰か来てくれるだろうか。捕獲してくれるだろうか。そもそも、ここは山のどの辺りなのだろうか。


 何も考えずに走り回ったせいで、方向感覚も距離感もなくなっていた。果たして声は届くのだろうか。


 エレナはリリアに逃げてくれることを期待していた。怖がってくれても、泣き叫んでくれてもよかった。


 けれどエレナの願いは届かず、それどころかリリアは一歩、また一歩と近づいてくる。


「そういうのはいいからさ。もっとちゃんと見せてよ」

「ねぇ……本当に……っ、お願い、もう……無理なの……っ!」


 エレナは懇願する。目を硬く瞑り、リリアの姿を見ないようにした。だって、あまりにも魅惑的すぎる。リリアの何がそうさせているのかわからないが、次に視界に収めたときには、どうなるか想像も出来なかった。


 リリアの匂いが強くなる。いや、これは匂いなのだろうか。鼻が何かを捉えているのはわかるが、とても表現できない未知の感覚だ。ただ、リリアがすぐそばまで寄ってきていることは目で見るように理解できた。


「いいから、ほら」

「やめ……っ」


 リリアがエレナの肩を掴んだ。声を上げたが遅かった。


 エレナは身体を引き起こされ、顔をリリアの正面に向けられた。理性と本能がせめぎ合い、抑えきれない震えが全身を駆け巡る。


 今すぐ飛びついてリリアに噛みつきたい。


 暴欲がエレナの脳内を侵す。強く瞑った目から涙が零れ落ちた。


 するとエレナの上唇が、ぐいと持ち上げられた。


「へぇ、こんな感じなんだ」


 困惑する。するとリリアが優しく牙を上から下へとなぞった。牙の先端がカリカリと爪弾かれる。エレナの混乱が深まっていく。


 混乱する分だけ、理性の隙間ができる。うっすら目を開けてみると、リリアの整った顔が大写しになった。相変わらず瞳を好奇心に輝かせ、口を楽しげに歪めながらエレナの牙を弄んでいる。


 これはたまらないと視線を下に落とす。すると、リリアの細く薄い首筋が目に入った。脈打つ頸動脈が透けて見える。


 あそこに向かってひと思いに牙を突き立てたい。血を口いっぱいに吸い、喉を鳴らし、身体を満たしたい。


 そんな想像をすると、エレナの心臓がドクドクと、強く血液を送り出した。呼吸が不規則に乱れ、溢れた唾液が口の端から滴り落ちた。


「ふぅ……ん?」


 リリアが牙から手を離し、エレナの顎を持ち上げた。エレナの顔を興味深げに、じろじろと眺めてくる。


 完全に翻弄されていた。ただでさえ本能に抗うので必死なのに、そこにリリアの意図の不可解さが乗っかり、頭が焼ききれそうだった。そして、


「……んんん――っ!?」


 リリアが急に、口付けをしてきた。そのまま舌を入れられ、口内を蹂躙される。


 肩を押して抵抗を試みた。しかしリリアの力は存外に強く、離れてくれない。


 舌先をちろちろ突っついていたかと思えば、大胆に絡めてくる。快感をともなう痺れが背筋を伝い上り、頭にじわじわと広がっていく。


 わからない。エレナはなぜ自分がこんなことをされているのか、まるで理解できなかった。


 リリアは恐ろしくないのだろうか。こんな魔物のような姿が。こんな自分を、受け入れてくれるのだろうか。


 そう考えると、心地よい安心感が心を満たした。痺れが甘美な色を帯びる。


 頬を伝う涙が温かかった。全身から力が抜ける。


 未だ吸血本能は渦巻いていたが、塗り替えられた感覚にしたがって、口内をリリアに委ねた。


 リリアの舌は感触を確かめるように口の中のあちこちを撫でていた。次第に、すべてがどうでもよくなっていった。


 すると不意に……牙がガリッと強く何かを引っ掻いた。途端に広がる、芳醇な、鉄の匂い。求めてやまなかった、あの――っ!?


 抑えられていた本能が爆発したかのように膨れ上がる。ハッとしたエレナは、瞬時にリリアを突き飛ばした。


 リリアはよろめき、尻餅をつく。しかしそんなリリアは、口端に流れる血を拭うと、これまでで一番愉快そうに頬を吊り上げた。その妖しさに、エレナは圧倒された。


「な、何を……っ」


 辺り一帯に聞こえるほど、心臓が強く脈打つ。視界が狭まり、思考が赤に塗りつぶされていく。


 目に映るのは、先ほど目にしたリリアの艶やかな首筋。そこに走る美しい血管。鼻息が荒くなる。もう何も考えられない。


 リリアは髪を纏めて左肩に流し、見せつけるように頭を横に引いた。右の首筋が完全に露わになる。


 もはや遮るものは何もない。リリアの脈打つ頸動脈が、エレナの心臓と同期した。


 震える足を躊躇いがちに進める。リリアは目を細め、優艶に頬を緩めた。


 そして、一言。


「――おいで」


 エレナの理性の糸の、最後の一本が切れる音がした。

お読みいただき、ありがとうございます。


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