第七話
アリシアが用意した部屋で、エレナは寝台に寝転がって赤子のように丸まっていた。
アリシアには傍にいると言われたが、エレナは部屋間の移動を禁ずる寄宿舎の内規を盾に断固拒否した。
きちんと申し出れば許可は出るだろうが、エレナがそれを許さなかった。あまりにも頑なな態度にアリシアは眉を落としたが、こればかりは仕方がない。今度埋め合わせをしなければならないと心に誓った。
「あ……ぁあ………ぃ、が、ぐぅうぅうぅぅう」
エレナは必死になって身体を抱きしめる。鋭い爪は何度も皮膚を突き破り、身体は裂傷まみれになっている。見るからに痛々しい。
布を用意する暇がなかったので、口には〝聖浄の儀〟のときに着ていたローブを咥えている。
咥えたまま何度も振り回したので、とっくにズタズタだ。持ち帰り、処分するしかない。
冷静になれば儀礼用のローブに噛み付くことなど出来るはずないのだが、今のエレナには気にしていられる余裕など、微塵もなかった。
いっそ暴れまわりたい。
全力で壁を殴りつけ、拳を壊したい。
爪を剥げば、顔を掻きむしれば、血を流せば、少しは収まるのだろうか。
どうすれば、この頭がおかしくなりそうな衝動が、ほんの少しでも薄れてくれるのだろうか。
けれど、そんなことは出来ない。ここは寄宿舎で、多数の人がいる。大きな物音を立てれば、きっと誰かが飛んでくるだろう。
身体に大きな傷を作ったら、アリシアに必ず追求されてしまう。どちらにしろ破滅だ。けど、
「…………おぁぁあぁあっ、ああぉあぁーーっ!」
もうダメだ。堪えられる限度を完全に逸脱している。だんだんと、漏れる声も大きくなっている。
幸いにもアリシアが用意してくれたこの部屋は、多少周囲から離れているが、この分ではいつ外に伝わってしまってもおかしくない。
のた打ち回っていると、窓の外の景色が目に入ってきた。
あまりにも妖艶で、蠱惑的な、まんまるの月が浮かんでいる。
月が嗤っていた。早く楽になれ。こちら側に来いと、そう囁かれたように幻聴した。
エレナは脂汗をびっしりとかきながら、憎々しげに月を睨む。絶対に、負けたくない。
目端から涙がこぼれる。頬を伝って滴り落ちた雫は、シーツに繰り返し染みを作った。
なんでだろう。そんなに悪いことをしただろうか。
エレナはもうすっかり薄れかけている、両親と幸せに暮らしていた小さな頃を思い出した。
もし二人が先立たず、今でも三人でいられれば、こんなことにはならなかったのではないか。叔母に捨てられなければ、聖女になんてならなければ――と想像しかけ、その恐ろしさにぞっと身を震わせた。
聖女になったことは関係ない。これは、エレナの本質によるものだ。今が辛いからといって、関係のないものに責任を押し付けてはいけない。何を血迷っているんだ。
それにもし聖女にならなかったら、きっと今のエレナはなかった。そのエレナは、本当に幸せだっただろうか。今のように確かな誇りと信念を持てる自分でいられただろうか。
衝動を堪えつつ、ほんのひと掬いだけ戻った理性でどうすればいいかを考える。問題は圧倒的なまでの吸血衝動。これをどうにか出来れば解決する。
ならばどうする? 血を、吸う? 寄宿舎にはたくさんの聖女たちがいるが、まさか彼女たちから吸うわけにはいかない。では、一体誰から……。
再び窓の外に目をやる。相も変わらず、夜空には大きな月が憎々しく照っていた。
飛び出して叩き壊してしまおうか、柄にもなくエレナは物騒な想像をした。
それでふと、意識が外に向いた。視線を下げると、木が鬱蒼と茂っている。寄宿舎は浄化の都合上、主要な水源の多い山の中にある。
そうだ、何も人から吸血しなくてもいい。山に入ればきっと動物がいる。仮に後から噛み跡が見つかったとしても、動物同士の諍いだと思われるだけだろう。
心理的な抵抗はあるが、それは人から吸ったとて同じことだ。ならもう、それしかない。
仮にこれで上手くいけば、これからは悩まされずに済む。満月の夜を怯えなくていい。心ゆくまで動物から吸血し、明くる朝からまた聖女として活動すればいいのだ。
エレナは音を立てないよう慎重に窓を開けて外に飛び出した。幸い部屋は一階だったため、怪我はなく、さして音も立てずに出ることが出来た。
希望の光が見えたことで、身体が軽くなった気がした。走り出す。ぐんぐん速度が上がる。これまでで一番軽快に、いっそ爽快にすら感じられた。
光明を見出したエレナは浮かれるあまり、自身の思考の変化に気が付いていなかった。
自らの欲求により、たとえ動物であっても傷つけることを受容する。
それは本来のエレナにないはずのものだった。エレナは自分が考えている以上に、既に本能に染まっていた。
◇
エレナが辺りを探し回ると、やがて小動物を見つけた。
白い毛皮が愛らしく、腕の中に収まるくらいの大きさだ。眠っているのか、まだエレナの存在には気づいていないようだった。
獲物を探す高揚から少しだけ薄れていたが、目的を自覚すると、再び吸血衝動が強くなった。
ごくりと喉を鳴らす。
そして再び小動物を視界に捉えて凝視したところで、直感した。
――こいつは、違う。
なぜかそれがはっきりとわかった。理由は分からない。だが、この動物から血を吸っても、決してエレナは満たされないと本能で悟った。
エレナはその場での吸血を諦め、再び辺りを彷徨った。
それから大きなものも、小さなものも、いくつかの動物を見つけた。
しかし、どういうわけか、見つけた動物はすべてエレナの求めるものでなかった。あまりにも明確だった。
こんなにも血を渇望しているというのに、なぜ、と混乱する。自分で自分のことが、わからなくなった。
――違う、違う、違う違う違う違う……違う、違う、違う! 違う! 違う!
エレナの苛立ちが高まる。感情に任せ、近くにあった木を殴った。
瞬間、強い痛みが走る。拳が裂けて、血が滴った。
試しに舐めてみると、不思議と不快ではなかった。だが同時に、加速度的に欲求が高まった。
血を流したのはまずかったかもしれない。一刻も早く、吸血しなければ。でも、何から?
少しもそそられないが、試しに動物の血を飲んでみればいいのだろうか。
欲求で飽和し切った頭では、まともな思考ができない。
お腹が空いて仕方がないのに、ご馳走を目の前にして全く食欲がわかないという、ひどい矛盾を味わった。
それでも、ほんの少しでもマシになれば……と思い直し、次に見つけた小動物に狙いをつける。
じりじりと、音を立てないように近づいた。そしてあと一歩で捕まえられるというところまで迫り――
やめた。やはり、違った。ありありとわかった。
手を下に降ろして、膝から崩れ落ちた。そこでようやくエレナの存在に気付いた動物が、一目散に遁走した。
「うっ、うぅぅ……ぅううう…………っ」
悲しくて、悲しくて、仕方なかった。一体、どうすればよかったのだろう。
こんな化け物みたいな欲求を抱えて生きていくくらいなら、いっそ野盗にでも襲われたふりをして姿をくらました方がいいのではないか。
多少は教会の名誉に傷がつくかもしれないが、身内から魔物や自殺者を出すよりはずっとマシなのではないか。
涙が止まらない。しかし身体はたえず血を求めてくる。
エレナには何もわからなかった。
ただ絶望と欲求がぐちゃぐちゃに心を掻き乱している。先ほどまであった微かな希望は、とっくに闇に覆われてしまった。
するとそのとき、背後の茂みから声が聞こえた。
「――エレナ様?」
振り向くと、一人の少女が立っていた。なぜこんなところにいるのかわからないが、そんなことはどうでもよかった。
その姿を見て、直感した。
あんなに溢れていたはずの涙は、すでに止まっていた。
代わりに純粋な本能が、歓喜の咆哮を上げた。
エレナの求めてやまなかった血の持ち主が、そこにいた。ついに、ついに見つけた。
涎が溢れる。唾液は顎を濡らしただけでは飽き足らず、ぼたたっと水音を立てて地面を濡らした。
狂おしいほど愛おしい。何をしてでも手に入れたいという、獣じみた原始の欲求に支配される。
何も考えることはない。ああ、エレナが求めてやまなかった獲物は、こんなところにいたのだ。
月夜を反射して輝く金の髪に、水を固めて貴石にしたような青い瞳を持つ、美しい少女。
聖女リリア――彼女はとても、美味しそうだった。
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