第六話
エレナの見つめる先には実演用に隔離された池がある。
魔力は時間をかけて環境から沁み込んでいくため、浄化せずに放っておけばどんな水でもいずれは汚染される。流れていようが停滞していようが結果は同じだ。
池には不気味な暗さが広がっている。普通の水であれば水面には光が踊り、周囲の景色を映し出すはずだ。
しかしこの水は、まるで光を飲み込むかのように一切の反射を拒んでいる。生命を拒絶する死の象徴のようだった。
「水の主ウンディーネ様……我らが導き手よ……御意のままにこの身を捧げ奉らん……人々の生命守らんがため……この身を浄化の器となし……御慈悲の恵みに浴びさせたまえ……」
エレナはまず跪き、祈りを捧げた。心の桶を主への感謝で満たす。すると耳には一切の雑音が届かなくなり、目の前の浄化すべき水しか映らなくなった。穏やかに凪いだ心は、すべてを受け入れる慈愛に溢れていた。
立ち上がって、ゆっくりと水に歩を進める。そのまま躊躇なく身体を浸し、目を瞑った。両の手を組み、聖歌を謳う。
水の調べよ 聖なる流れよ
我が魂を 清めたまへ
ウンディーネの 恵みを讃へむ
清き水よ 命の源よ
穢れを祓ひ 光を与へ
御力もて 世を照らしめむ
神聖なる 我らが使命
水を清めて 道を示さむ
導きの光 仰ぎまつる
水の精よ 願ひを聞きて
流れに身を 委ねまつらむ
心ひとつに 結びたまへ
浄化の力 我手に宿り
澄みし水面に 光満ちて
命の輝き 放たまへり
これぞ我らが 感謝の誓ひ
水の調べよ 聖なる流れよ
我が魂を 清めたまへ
ウンディーネの 恵みを讃へむ
不思議なことが起こった。暗く濁っていた水が、徐々に光を取り戻し始めていった。それは闇が払拭される様を連想させた。
周囲からどよめきが走る。しかし、エレナの耳には届いていない。ただ変わらず、その口からは美しい旋律だけが紡がれていた。
やがて儀式が終わる。水は浄化され、完全なる透明な輝きを取り戻した。そこに先までの陰鬱な面影はなく、今や周囲の景色を鮮やかに映し出している。それは人間を超越した御業――精霊の偉大さを実感させた。
エレナは組んだ手を解き、目を開ける。そして水から上がり、厳かに告げた。
「――以上です。水は浄化されました。ウンディーネ様のお導きに、心からの感謝を」
エレナは再び跪き、先ほどと同じ祈りを捧げた。雰囲気に飲まれてか、まだ祈りの言葉を覚えていない聖女見習いたちも一様に目を閉じる。全員が一体となり、真摯に祈った。
◇
実演披露を終えたエレナは、寄宿舎の外廊下を歩いていた。〝聖浄の儀〟で濡れてしまったローブを着替えるためだ。久しぶりのエレナの姿を一目見ようと、見知った顔が遠巻きに眺めている。
しかし、近づこうとする者は誰もいない。もはや、別世界の人間になってしまったとでも考えているのかもしれない。もしも普段のエレナであれば、多少は寂しく感じただろう。しかし今は、そんな気持ちは微塵もなかった。なぜなら――
「エレナッ!」
「――…………え?」
遠巻きに見ていた中から、一人の少女が飛び出してくる。水色の修道服――聖女見習いの者だ。聖女見習いにとってあまりにも格上のエレナをそんなふうに呼び捨てできる者など、一人しかいない。
周囲もそれをわかっているようで、止めようとする者はいない。むしろ、意味ありげな笑みを浮かべる者や、羨望の眼差しを向ける者など、皆好意的に見守っていた。
「おつかれさまっ! 会いたかった!」
飛び出してきたアリシアは、濡れるのも厭わず抱き着いてくる。エレナは受け止めようとしたが失敗し、よろめいて尻餅をついた。いつもと異なる流れに、髪とお揃いの栗色の瞳がぱちぱちと不思議そうに瞬く。
「……エレナ?」
「――…………痛たたた……」
腰を擦っていたエレナは、差し出されたアリシアの手をとって立ち上がった。その間ずっとエレナの顔を凝視していたアリシアが、目を見開いた。
「突然飛び出して来ないでよ。びっくりしたじゃない」
「あ、うん。ごめん……――ってそうじゃなくて! 大丈夫!?」
アリシアがエレナの顔を挟み込むように掴み、瞳をじっと見つめた。エレナはそんなアリシアに小声で「しっ。周りに聞こえちゃうから」と注意した。
するとアリシアは語気を削がれたようになりながらも、ううんと首を振り、エレナだけに聞こえるように小声で言った。
「顔が真っ青よ? この濡れてるの、水だけじゃないわよね?」
「あ、ははは。ちょっと、疲れちゃったみたい」
エレナは誤魔化すように笑う。実は〝聖浄の儀〟の途中から、エレナの体調は加速度的に悪くなっていた。
顔は蒼白で、額にびっしりと脂汗が浮かべながら、身体を細かく震わせていた。赤の瞳は焦点を結ばず、いつも宿っている強い意志は見る影もない。
いや、本当は体調が悪いわけではない。例の発作だ。
ここまではみんながいる手前、エレナは強靭な精神力を発揮して平静を保っていたが、アリシアの不意打ちで、必死に維持していた芯が折れてしまった。
今はなんとか粘土で繋ぎ合わせて補強しているような状態で、いつまた折れるか、わかったものではない。
「ちょっとどころじゃないわよ。エレナのこんな顔、私ですら見たことがないわ。……どこか悪いの?」
アリシアの心の底から心配するような態度に、エレナの顔がくしゃっと歪みそうになる。
この親友に、すべてを打ち明けて縋りつきたい。そんな想いが心に溢れるが、もしそれをしてしまえば、エレナは終わりだ。
アリシアのことを疑っているわけではないが、きっとエレナの心が保てなくなってしまう。
「ううん、えっと、その……月のものが」
回らない頭では、先日ジェマにしたものと同じ陳腐な言い訳しか出てこない。そんなエレナに、アリシアが不思議そうな目を向けてくる。
「エレナってそんなに重い方だったっけ?」
「……最近、ちょっとね。忙しくて」
さすがは幼い頃から共に育った親友だ。エレナの嘘などお見通しということだろうか。
しかし、これしか言い訳が思い浮かばないから仕方がない。いくら親友でも、疑うことは出来ても否定することなどできないはずだ。
「何か、私に手伝えることはない?」
「大丈夫よ。ジェマにも補佐官として助けてもらっているし」
心配をかけないようエレナがそう言うと、アリシアは胡乱な目を向けた。
「……ふぅん。仲が良いのね」
「はは……」
エレナの表情から何を読み取ったのだろうか。しかしアリシアは、一応矛を収めてくれた。
また、嘘をついてしまった。親友を裏切ったこともそうだが、この行いがどんどん自分を聖女から遠ざけているようで、心が痛い。
「まぁ、今それはいいわ。とにかく休みましょう! 医務室には――」
「行かない。治るものではないし」
「……そうよね。じゃあ、私の部屋に連れて行くわ」
「だめよ。あなた、相部屋でしょう」
「そんなの追い出すわよ」
「それを受け入れたら私は聖女失格ね」
当然のように言いきったアリシアに、エレナも負けじと言い返す。そんなことをされてしまっては隠し通せる自信がない。
アリシアはしばらくじっとエレナの目を見つめたが、意思が固いことを悟ったのだろう。諦めるように深々と息を吐いた。
「一室、借りてくるわ。たしか高位聖女様用の部屋が一つ、空いていたはずだから」
「……わかったわ。それでお願い」
元々エレナは這ってでも帰り、浄瀧殿の自室で休むつもりだった。しかしこうなったアリシアが、それを認めるはずがなかった。
もちろん権力で押し切ることは可能だ。しかし、アリシアは純粋に心の底からエレナを気遣ってくれているのだ。そんな親友の気遣いを無下になど出来るはずがなかった。
エレナの了承を聞いたアリシアは「少し待ってて! すぐに戻るから!」と、飛び出すように駆けていった。
そんなアリシアの背中を見送ると、エレナはよろめきながら近くの長椅子に腰を落ち着けた。容赦なく膨れ上がる本能に必死になって抵抗する。
今夜浮かび上がるはずの満月に、強い不安を覚えずにはいられなかった。
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