具だくさんのパスタ
「なんでなんだろう。足りないと思ったんだけどなあ」
「こうなると思ってた」
「ええ…。なら止めてよ~」
「まあ、ほとんど野菜だからいいかと俺も思ったから」
目の前にはデカ盛りのパスタが鎮座している。
玉ねぎ、千切り人参、アスパラ、シメジ、そして冷凍ミニホタテ貝100gをフライパンで酒蒸しにして、刻んだトマトとあらかじめ電子レンジで茹でたジャガイモと南瓜を追加、最後にゆで上がった150gのスパゲッティをあけて、オリーブオイルとジュノベーゼソースを大さじ一杯程度軽く回しかけて混ぜて出来上がり。
具材とスパゲティが一対一の割合になってしまった感があるが、万衣子は気を取り直して座った。
「まあ、食べきれるでしょ」
口直しの為の小鉢にはサイコロ状に刻んだ豆腐とミニトマトをサラダがわりに盛っている。
パスタに粉チーズを振って、二人は向かい合って手を合わせた。
「いただきます」
トマトの赤とアスパラの緑、人参の橙、かぼちゃのオレンジ、そして…。
「ジュノベーゼソースを混ぜたら、なんとなくイタリアンっぽくなるよね」
「だねえ。パスタ食べているんだか野菜を食べているんだかわからない物になっちゃったのに」
今日も梅本の家で二人は晩御飯を食べている。
滝川の一件について、団地内で取り沙汰されることはなかった。
余所者が酔っ払って暴れただけ、となったらしい。
『万衣子』が誰でここに住んでいるかなど、昔よりコミュニティの結束が薄れた大型団地ではそれほど噂する人もおらずあっさりと流された。
万衣子は自宅へ戻り、いつも通りの生活をしている。
そして今夜はお腹いっぱいもう食べられないと腹をさすりながら、二人は金柑の甘煮のヨーグルトがけをデザートにコーヒーを飲んだ。
「俺の父親は外面が良くて、周囲には愛妻家…昔の流行りで言うなら恐妻家かな…、で通っていたんだけど。酔っ払ったらメッキがはがれるんだよね」
梅本はマグカップを両手で包み込んで、ゆっくりと語り出した。
熱烈に求められて駆け落ち同然に始まった結婚生活は、妊娠した頃から変わった。
温室育ちの妻を世間知らずと見下し、些細な事をあげつらっては説教することから始まり、だんだんエスカレートしていく。
気分次第で正しいことはコロコロ変わり、たまにペットのように溺愛された翌日には突き放されて口汚く罵られる。
それが日常だった。
しかし職場などでは妻子の事でのろけてばかりで、家族同士の集まりの時は理想の家族と独身たちに羨ましがられた。
「浮気もしていて、そっちが良くなることもたびたびで。そうなると俺と母は自分の幸せを邪魔にする悪者になる。そんな時はいきなり壁を殴ったり、テーブルの上のものを全部床に落としたり。生きた心地がしなかったよ」
「そんな…」
万衣子は絶句する。
「先輩がケーキを落としちゃったときにリカバリできたのはさ。何度もやったことあったからなんだよね。母さんの心づくしをわざとめちゃくちゃにして、足の踏み場もなくなった状態の家から飛び出すのがあの男の性癖だったと今は思う」
床に落ちてしまったものはもう食べられない。
ただ有難いことに、父は一度飛び出すとその晩は絶対帰ってこなかった。
おそらく自ら片づけるのが嫌だったのだろう。
妙に冷静、もしくはずる賢いところがあった。
帰ってこないならば、逆にそこからは平和な時間になったということ。
だから二人で片づけて、食卓を整え直して。
母は無事だった料理を集めて綺麗に盛った。
とっておきの皿の上に、まるで晩餐会のような盛り合わせ。
幸正が小学生になったころからは一緒に作った。
あれは苦しい記憶を拭い去るための儀式、またはおまじないのようなものだったのかもしれない。
「もう一つ良かったのは、当時勤めていた会社は羽振りが良くてそれなりに稼ぎのある人だったから、駄目にされたものはいくらでも買い直せた事かな」
暴力をふるったのちにはハネムーン期がやってくるのがDVの典型で。
花やケーキを買ってきて、幸正には子供向けと思われる土産をもって、上機嫌で帰宅する父。
時には土下座して謝った。
今度こそやり直せると思った数時間後には、父の顔は狂人のそれに戻る。
どちらが本当の人格なのかもはやわからない。
ただ、父に養われている身としてはじっと息をひそめて機嫌を伺うしかなかった。
冬のある日、父が酔って大声を上げ近所に迷惑をかける頻度が高くなったころ、彼は階下まで迎えに降りてきた妻を怒鳴り殴った。
真夜中だった。
止めに入った幸正も殴られ、蹴られ、今すぐ死ねと言われた。
あちこちに家の電気がついて、ベランダに出て様子をみている人もあちこちにいた。
でも、誰も助けてくれなかった。
それでも通報はされたようでパトカーがやって来たが、現れた警官たちは女子供の身体にはっきりと殴られた跡があるにもかかわらず、めんどくさそうに母を注意して早々に引き上げた。
随分後になって打ち明けられたが、翌朝幸正が学校へ行っている間に警官の一人が事情聴取と言って上がり込み『奥さん、かわいそうにね。俺が助けてやろうか』と太ももに手を置かれ、母が大声を上げると悪態をついて退散したらしい。
なんとか警官を追い出したものの絶望のあまり母はそのまま玄関先にうずくまって号泣した。
そんななか、どのくらい経ったのか扉の新聞受けからコトリと音がした。
何か物が入れられたことに気付き、中を開けてみると封をされていない茶封筒が一つ入っていた。
開けてみるとワープロで打たれた手紙の一文が目に飛び込んでくる。
『逃げてください』
同封されていたのはDVの支援団体のパンフレットと行政手続きがこと細かく記された手紙や法的機関の連絡先。
母はそれらを何度も読み返し、即座に家を出た。
行き先は、中学校だった。
幸正は突然迎えに来た母に連れられて帰宅し、『このリュックに大切な物を詰めなさい』と言われ、父から逃げるのだとすぐに理解できた。
気まぐれな父がいつ仕事をさぼって戻ってくるかわからない。
二人とも緊張で手足が震わせながら、急いで荷物をまとめた。
多分身支度を終えるのに一時間もかからなかったと思う。
小学生の下校が始まり子どもたちの賑やかな声が行きかうなか二人は急いでタクシーを捕まえ、団地を出た。
電車の駅でタクシーを降りたのち、もう一度別のタクシーに乗って支援団体の元へ行き、保護された。
そこからまた色々とありすぎて記憶がおぼろげだ。
連れ戻されたら、今以上の暴力が待っている。
怯える母は、夜中に何度も悪夢を見ては悲鳴を上げていた。
夜が、怖かった。
母は壊れる瀬戸際のなか辛うじて息をしている。
何か。
些細なきっかけ一つで。
母は粉々に砕けてしまうだろう。
幸正が独りになる日がくるかもしれない。
それは今か、それとも明日か。
そうしたら、自分はどうなるのか。
そんなことを考えてしまう自分がたまらなく嫌だった。
二人だけの。
張りつめた毎日が続いて。
時間が過ぎるのが途方もなく遅く感じられた。
ようやく落ち着いたのは梅本の祖父母と再会してからだった。




