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離れたい(滝川視点)



『え…』


 一瞬、きょとんと眼を見開いたが、すぐにこくこくと万衣子は頷いた。


『あ、ありがとう。ええと、よろしくお願いします』


 生真面目に頭を下げられて、照れくさかった。


 自分と結婚したいと彼女も思ってくれたのが嬉しくて、でも、それを正直に言うのは恥ずかしくて。

 はやる気持ちのまま次々と今後の事について尋ね、外堀を埋めた。


 結婚披露宴は金がかかるし宴会の主役は自分たちのガラじゃないという考えが一致して、写真撮影も省くことにした。

 そして両家の顔合わせをして、新居を決めて入籍。

 気が付けば、交際三か月のスピード婚だった。


 だが、顔合わせの帰りに母がこぼした言葉が水を差す。


『なんであんな地味な子にしたの。お姉ちゃんあんなに美人だったのに。もっといい子いたんじゃないの』


 万衣子の姉は既婚者で、同席した夫と仲が良いのは一目瞭然だった。


 ようやく結婚が決まったことを最初は手放しで喜んでいたのに、いざ顔合わせで弟の哲太や彼の妻も美男美女で彼らの中で、ただひとり平凡な万衣子が嫁になるのが嫌になったらしく、途中から『お姉さんは本当に美人ねえ』『次男くんのお嫁さんも若くてピチピチしているわねえ。まだまだ産めそうでいいわねえ。うちの子も産んで欲しいわあ』などと言い出して、彼らの顔色が変わった。


 万衣子は少し困った様子だったものの特に何も言わなかったためそのまま流したが、披露宴がわりに親族のみで行った食事会の席で日下家の大人たちの表情は硬いままだった。




 そして、初めての夜に自分たちはつまずいた。


 手をつなぐ程度の清い交際のまま入籍したのは、互いに交際経験がなかったことを言いだせなかったからもある。

 たかが性行為がこんなに難しいなんて思いもしなかった。

 しかし三十歳になるいい大人が今更誰に相談できるというのか。


 それなのに、両親は二言目には孫孫孫ばかり。

 九官鳥のように孫しか言わない滝川の家に耐えかねた万衣子は婦人科へ行き、帰宅するなり不妊治療で子どもを設けないかと言い出した。

 しかし男性不妊の検査も必須だと知り、自分の性能を疑うのかと頭に来た。


 ちょうど同じ時期に仕事の方向性が一新され、資格試験のための勉強や新しいシステムに慣れなければならなくなったが、どれもついて行けずミスを連発する。


 何もかも、うまくいかない。

 いつの間にかすべては万衣子なんかと結婚したせいだと思うようになっていった。


 だけど結婚に失敗したとは言いたくない。

 万衣子の他に、自分と結婚したがる女なんていなかった。

 それがまた惨めな気持ちにさせる。


 入籍して二年目を迎えようとした頃、飲み会の席で上司に『こどもはまだか』と絡まれ、『べつに必要ない』と強がると、『じゃあ何のために結婚したの』と大きな声を上げられた。


 いったい、なんのために。

 なんのために俺たちは結婚したのだろう。


 性行為のない、ただの同居人。

 ルームシェアと言った方が正しい。

 一年目くらいに滝川が風邪をひいて寝室を分けたあたりから、一緒に眠ることもなくなった。

 朝起きて挨拶をしてご飯を食べて別々の会社へ出勤して、また夜ご飯を食べてそれぞれの部屋で眠る。


 単調な毎日で、休日に一緒に出掛けることはあっても、世間話で笑うことがあっても。

 波風の立つことがない平穏な毎日を送れているとしても。

 男としての焦りがふとよみがえる。


 自分は、このまま歳をとっていくのか。

 オスとしての悦びも知らないままで。




 そんなある日、異動の内示を受けた。


 遠く離れた支社への転勤。

 期間は三年ほどの約束だった。


 肩書がつくが、同期たちが順調に乗っている出世コースからさらに遠のく、いわば降格人事だと滝川もさすがに理解した。


 一方の万衣子は仕事ぶりが認められて昇級し、この年初めて滝川より年収が多くなった。

 大人しくて真面目な万衣子は、どこにいっても先輩たちに気に入られ、気が付けば重要な仕事を任される立場になっていた。


 違う業界だしあちらの会社の業績が良好だから、比べる方がおかしいのは解っている。

 それでも万衣子が自分の運を吸い取っているように思えてならない。


 単身赴任の話をすると、彼女もあっさり頷いた。


『わかった。行ってらっしゃい』


 子どもがいるわけでもないし、老後を考えると万衣子が今の仕事を辞めて地方へついてくるのは悪手だ。

 転職したとしても収入が大きく下がるのは間違いない。


『私は、こっちでがんばるね』


 万衣子は、間違ったことを言ったわけじゃない。


 でも。


 いや、これでいいのだ。

 万衣子から離れたい。



 万衣子がどんな顔をしているかなんて、見たいとも思わなかった。


『連絡するから』


 目をそらしたまま、新天地へ飛んだ。

 



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