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無残な



「先輩…」


 はっと目を瞬くと、目の前に梅本が土間に膝をついて万衣子を心配そうに見上げている。


「ちい、くん…」


 しゃがれ声しか出せなかった。


「とりあえず俺の家へ行こう。明菜さんたちにも連絡したから大丈夫」


「ちいくん」


「うん」


「なんで…。どうして…。こわいよ」


「うん。びっくりだね」


 膝の上に置いている拳が自分の意思に関係なく小刻みに震えているのを梅本はじっと見つめ、ぽつりと答える。


「あんたたち。息子が戻ってきたからそれに乗りな」


 店主の後ろから中年の男性が現れ、万衣子は慌てて立ち上がり頭を下げた。


「話はばあちゃんから聞いた。たまにあるんだよこういうこと。ちょうど団地の方の御用聞きがあるからよ」


 店主によく似た顔の男性は、またよく似た口調でたんたんと話し、そして裏口はこっちだと手招きをする。


「はい。連絡もありがとうございました。お言葉に甘えさせてもらいます」


 あっという間に米屋の配達用の車に乗せられ、梅本の住む棟で降ろされた。




「これ。うちの母が作ったものなんだけど」


 目の前に置かれたグラスには薄い橙色の液体が七分目くらいまで注がれていて、うっすらと気泡が立ち上っている。


「炭酸水?」


「うん。庭の杏を砂糖で煮て冷凍したやつ、前に総菜と一緒に送って来てね」


 梅本の母と祖母は彼の食生活が心配して、時々食品を詰めて送るらしい。

 独り暮らしは学生の頃からなのにね、と笑いながらグラスの中をティースプーンで軽くかき混ぜた。


「たぶん、先輩の好きな味だと思うよ。飲んでみて」


「うん」


 グラスに口を付けると杏の甘やかな香りが鼻をくすぐる。

 炭酸の刺激と杏の風味が混ざり合い、ほのかな甘さも手伝って心地いい。

 気が付くと一気に飲み干していた。


「すごく…美味しかった。ありがとう、梅本君」


「丸田屋のおばあちゃんが、先輩が怯えて水も飲まないって心配していたから。良かった、飲んでくれて」


「ああ…。ごめんなさい、たくさんのひとに迷惑かけちゃった…。どうしよう。梅本君も、鶯堂も…」


 米屋の親子だけじゃない、梅本も仕事中だったはずだ。


「店は大丈夫。うちはいつも余裕をもって配置しているから俺がちょっと抜けたくらいなんともないよ」


「でも…」


「でももない。丸田屋から電話があった時、俺がどれだけ焦ったか。あんな話を聞いてじっとしていられるわけないだろう」


 いつにない強い口調に万衣子は怯む。


「あ…ごめん。ちょっと待って」


 ちょうどやかんから沸騰した音が聞こえ、梅本はシンクへ向かう。

 うつむいて膝の上に揃えた手を見つめるしかできない万衣子の前にコトリと音がした。

 視線を上げると、今度はマグカップが置いてあってたっぷりといれられた紅茶から湯気が立ちのぼる。


「うめもとくん」


「あのさ…。先輩、ショック受けるだろうなと思う。ごめん」


 おそるおそる出されたのは、丸い皿。

 その上に載せられているのは。


「けーき」


「うん。ちょっと修復不可能だった」


 万衣子の宝物が。

 無残な姿になっていた。


「…忘れてた。わたし、なんで手を離しちゃったんだろう。なんで、忘れてたんだろう。なんで…」


 ぽろぽろと涙があふれて頬を伝っていく。


「うわああん。なんでえ…」


 色々なことが決壊して、幼子のように泣いてしまった。




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