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しのびよる影




 姉と梅本にこんこんと諭され、さすがの万衣子もしばらくは警戒していた。


 近所で買い物をしない、通勤電車は同じ車両に乗らない。

 それから、それから…。

 アドバイスに従って生活していた。


 大貝からの勧めでスマホも番号も変えたし、離婚を宣言される前にたまたま転職が決まっていてそれを滝川に話す機会がないままだったため、元職場に迷惑をかけることもないだろう。

 個人情報も大丈夫。

 簡単には家を突き止められない筈だ。


 そう思うと少しずつ緊張も緩んでいく。


 ほんの少し、毎日頑張った自分にご褒美を買ってもいいのではないか。


 そんな気になり、仕事帰りにお気に入りのケーキ屋に立ち寄ってモンブランを一つ買った。

 その店は万衣子のとっておきで、お値段はお高めだけど美味しさがぎゅっと詰まっていて、まるで宝石みたいに綺麗な姿をしている。


 小さな箱の中に、宝物。

 自然と笑みが浮かぶ。


 そろりそろりとケーキの箱を運びながらの帰り道、ふと、白米がそろそろ尽きることを思い出した。

 二キロくらいなら背中のリュック入れられる。

 そう思っていつかの米屋に入った。


「棚田米を2キロ、精米してお願いします」


「はいよ」


 少しご無沙汰していたが、店主は万衣子のことを覚えているらしく、「た」と言う前にせかせかとその銘柄の米櫃にスコップを突っ込んだ。

 お得意様認定されているようで少しうれしい。

 精米機が米を飲み込んだのを見届けて、店主はレジカウンターの方へ回る。

 支払いをすべく万衣子もそちらへ足を向けると、視線をレジの隣に向けたままの店主がぼそりと言った。


「あんた。今日は男連れかい?」


「…え? いいえ。ひとりです」


「そうかい。じゃあ、そのまま振り返るんじゃないよ。なんか妙な男が店先をうろついているようだから、あんたはいったん奥に入りな」


 カウンターの下で親指をくいっとのれんのかかった戸口の方へ向ける。


「え…」


「これといった特徴のない男なんだけどね。中肉中背、眼鏡をかけたちょっと顎の長い感じで。知り合いかい」


 店主の視線の先にはモニターがあり、四分割された画面の中の一つに店の入り口近くの画像があり、見覚えのある姿が映っていた。


「え…」


 ぽとりと。

 万衣子の手の中が空になり、何かが落ちた音がした。

 さあっと、血の気が引いていく。


「ああ、今、ちょっと離れた。こっちに来な」


 気が付いたら店主に引っ張られてのれんの向こう側にいた。

 そこは土間の続きで小さな事務スペースとなっている。


「ここにお座り」


 節くれだった頑丈な手に導かれ、古い皮ばりのソファに腰を下ろした。


「あれは変質者かい」


「…あの。元配偶者です」


「ますますいけないね。警察を呼ぶかい」


「いえ、こんなの今日が初めてで…」


 全身がどきどきして、何をどうしたらいいのかわからない。


「そう。あんた近くに家族は」


「姉が…でも、今日は出張で…。弟たちも連絡してもすぐにこれる距離ではなくて」


「そうかい。どうしたもんかな。誰かご家族がくるまでうちにいてもいいんだけどね。他に誰か…」


「あ、ええと。ええと…」


 どうしよう、どうしようとぐるぐる同じ事ばかりしか思い浮かばない。


「あ。あんた。鶯堂のぼんぼんと知り合いだったね」


「は」


「新米の出初めの時に、一緒に来ただろう」


「ああ…」


 自分の店にも米があるってのに、なんだってうちで買うかねと呆れる店主ににこにこと笑う梅本とのやりとりが記憶によみがえる。

 ほんの少し前のことなのに、とても昔のことのようだ。


「あれを呼ぼう。待ってな」


 店主は万衣子の返事を聞かずに事務机の上にある古い電話機に手を伸ばした。



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