それから
「それで滝川を追い出したらすぐに荷物を運び出して、ここへ来たってわけ」
滝川を追い出してくれたのは哲太の部活の後輩たちで、運送会社に勤めていた。
大貝さつきのアドバイスに従い滝川に内緒で予定を繰り上げたのだ。
彼女曰く、この手の男は離婚した妻を所有物と勘違いする確率が高いから用心することに越したことがないとのことだった。
万衣子が新居にセキュリティの甘い昔ながらの団地を選んだことに周囲は難色を示したが、短期間でもいいから子どもの頃に暮らした家と似た空気の中で過ごしたいというと、折れてくれた。
実家からは少し距離があるが、姉が駆け付けられて迷路のように戸数が多い大型団地。
それが、ここだ。
「まず家賃は安いし、ご近所さんもいい人たちばかりだし、昔と違って掃除当番はないからちょっと気が楽だし」
「ああ、当番制がなくなったのは大きいわね」
万衣子たちが団地暮らしだったころはゴミ置き場をはじめとした共用部分の清掃が当番制だったが、今は共益費を使い外注している。
「築四十年クラスの大型団地は過疎化していると聞いていたけれど、そうじゃなかったし」
「そうねえ。逆に争奪戦だと知った時は驚いたわ」
建設当初から暮らしているお年寄りも確かに多いが、万衣子や梅本のような独身や子どもがいる夫婦など様々な年代や家族構成の人々いて意外とにぎやかだ。
少し歩くが公共の交通機関も利用できるし、周辺にはそれなりに店があって生活用品の調達も問題ない。
心地よい風が吹く川も近くて。
「おかげで梅本君とも再会できたし」
まさか話を振られるとは思っていなかったのか、梅本は一瞬目を見開いた後に「…はは」と軽く笑った。
「今後も、うちの店をごひいきに願います」
「はい。とても頼りにしています」
大真面目に頭を下げられ、万衣子もそれにならう。
「あの…。つまりはその滝川という人が最近先輩を探しているということですか」
梅本の問いに、姉が頷く。
「そう。先月くらいからまずうちの両親に電話してきて、けんもほろろに扱われたから伯父伯母従妹とかね。結婚当初の住所録を捨ててなかったみたいで手当たり次第に接触しているみたいで」
姉と弟には近づかないあたりが滝川らしいところだ。
「認知症の祖母がまんまと掴まるとは甘かったわ」
ただし、それゆえに団地名しか言えなかったのが幸いした。
木を隠すなら森の中。
万衣子を隠すなら団地の中。
全員胸をなでおろしたが、監視カメラがほとんどないなどセキュリティが甘いのは確かで、悩みの種は尽きない。
「それにしても、本当に何なんだろうね。お金の無心とかなのかな?」
「まだ言うか…」
こてんと首をかしげる妹に、明菜は自らの眉間をつまんで揉む。
三人兄弟の真ん中である万衣子は自己肯定感がかなり低い。
一時期はバレリーナを目指していた明菜とバレー選手として活躍していた哲太の背後で万衣子はどんどん小さくなっていった。
家族がそれに気づいた時にはもう手遅れだった。
そのせいで、滝川なんかの口車に乗ってしまった。
今でも忘れない。
やめておけと止めた時、『私なんかと結婚しようと思ってくれる人、もう一生いないと思う』と万衣子は言い切った。
そんなことはないと否定しても、万衣子の気持ちは覆らない。
両家の顔合わせの時も義両親の物言いに嚙み合わないものを感じたけれど、二人が仲良く暮らすならと目をつぶってしまったことを明菜と哲太は今も後悔している。
「万衣子。あの、捨てたテーブルのことを忘れろって言ったけど撤回する。忘れちゃいけないよ」
滝川が万衣子を押し倒したあのテーブルセットは当初この部屋に持っていく予定だったのが廃棄させた。
万衣子が選んだお気に入りだったのは解っているが、とうていあんなものをひとり暮らしの部屋に置いておけない。
引っ越し祝いにと明菜と哲太がプレゼントしたのが今三人で囲んでいるものだ。
「万衣子は否定するけどね。アレは絶対同じことをしようとすると思う。脳みそが万年発情期だと警戒して」
姉にとって戸惑うばかりの万衣子がもどかしい。
「…うん」
こくりと頷くけれど、その表情からはしっくりしていないのは明らかで。
「すまないけれど、幸正君…」
「はい。まずは連絡先の交換、しましょうか」
明菜と梅本は、がっちりと繋がった。