決戦は水曜日
快晴。
それ以外の表現のしようのない天気の水曜日の午後。
万衣子は夫と対峙していた。
『証人欄はどうする?』
『え? そんな面倒くさいのがあったのか』
『あるよ。ほらここ。前は両家の父に書いてもらったじゃない』
『そうだっけ。忘れた』
『…うちの、姉と弟で良いかな。引越手伝ってくれているから』
『なんだ。さっさと言えよ。思わせぶりに言わないでさ』
『…。うん。じゃあ後で二人に書いてもらう』
『そうして』
めんどくさげなため息に、思わず首をすくめたくなる。
『それで。記入することはいっぱいあるの』
『本籍地ってなんだったっけ』
『そう言うと思った。これ、入籍した時の写しだから見ながら書いて』
本籍地はとある地方の、城があった場所だった。
義両親の話では遡れば先祖が大昔にそこの家臣だったらしく、彼らの代からそこにしているらしい。
これを聞いた時点で結婚を思いとどまるべきだったと今更思う。
『それで印鑑は持ってきた?』
『え? そんなのもいるんだっけ』
離婚を迫っているのは夫のはずなのに、どうして。
もやもやする気持ちを押し隠し、できるだけ平坦な声を出した。
『持ってきてないんだね。じゃあ、これ』
夫婦共有の抽斗から見つけた三文判をテーブルに置く。
『もう、自分の事だけ書いてくれればいいよ。あとは私が記入するから』
『うわ、これ何。なんかえげつないな。裁判の判決とか調停とか…』
『うちはそういうのやらなかったから、一番最初の協議離婚。そこに印付けて』
姉たちは調停するのも一つの選択肢だと言った。
不倫からの離婚であることを記録に残し、慰謝料や婚姻費用の請求をする権利が万衣子にあると。
そうしなかったのは、これ以上のいざこざに巻き込まれたくなかったからだ。
現に、こんな人とは早く縁を切りたいと思っている。
『はいはい』
その後、まるで母親に叱られて宿題をしている子どもみたいに不貞腐れて投げやりな筆跡で、夫は署名まで書き上げた。
『じゃあ、これで終わりね。姉たちに証人欄埋めてもらって今日中に出すから。もう帰っていいよ』
万衣子自身も全てを埋めて言うと、なぜか夫は動かない。
『おいおい。そんなこと言っといて出さないとかないよな』
『出すよ。受理されたら連絡するから』
『なあ、茶の一杯くらいいれてくれよ。これで最後なんだしさ』
『いや、そんな暇ないよね? 私も荷物の…』
『ああ、わかんないやつだな。そういう空気読めないところが男に嫌われるんだよ』
あ。
モラハラモードのスイッチが入った。
万衣子の身体が一瞬固まる。
それを知ってか滝川は両手でテーブルを叩いて立ち上がり、万衣子の腕を掴んで強く引いた。
『痛っ…。ちょっと何するの』
『何するのって、お別れエッチ? そういうのってよくあることだろ』
テーブルの上に万衣子は倒され、抵抗すると筆記具や印鑑が床に落ちて音を立てる。
『ちょっと、やめて…っ。離婚届がまだ』
『離婚届の上でやるのってなんかイイな。めったにないシチュエーションじゃん』
下品な。
醜い笑いを浮かべて万衣子の上に覆いかぶさった。
滝川は男性としてあまり大きい方でないが、万衣子は小柄でやはり男と女では力が違う。
万衣子は手足をばたつかせながら、背中の下にあるであろう離婚届が気になって仕方がなかった。
破れたら、いや、しわくちゃになったら役所の人が何て言うか。
また書き直しさせるのも嫌だ。
それに、この口臭。
まるで腐った魚の匂いで意識が遠のきそうになる。
『なあ、嫁が妊娠してからご無沙汰なんだけどさ。俺、うまいらしいし、万衣子もいい思い出になるよ』
『そんなわけあるか!』
もがく万衣子のジーンズのボタンを外そうとするが、うまくできず男は舌打ちをする。
『なあ、最後に処女もらってやるっつってんだろ!』
『ふざけんじゃねえよ! 誰がそんなこと頼むか、このクソが!』
バンッと打撃音がして。
『うわっ』
男が突然転げ落ちた。
体を起こすと、床に転がって尻を抑えて呻いている。
『おねえちゃん…』
『ごめんね万衣子。すぐに助けてあげられなくて』
肩で息をしながら姉が握りしめていたのは竹でできた物差し。
どうやらそれで思いっきり叩いたらしい。
『万衣子さん、もうすぐ哲太くん来るから』
その後ろからひょっこり義妹が顔をのぞかせて弟の名を口にし、さらにその後ろからは。
『いやもう、呆れて言葉もないわ、滝川君』
サークルの先輩で、二人にとって仲人みたいな存在だった大貝さつきがスマホを構えたまま現れた。