(一)(二)・・・・・・・
七月の日盛りである。町から登って来たバスが無人の停留所に一人の青年を降ろすと「右登山口」と書かれた道標に沿って喘ぐように登って行った。一瞬静まり返った四囲の林がまた鳴き出した油蝉(この季節でよいのか)の声に包まれる。
青年は急ぐ様子もなく雨曝しの長椅子に腰を降ろすと額の汗を手の甲で拭った。長旅の後らしく身につけた衣服はところどころ擦り切れ、剥き出しの腕は黒々と陽に焼けていた。投げ出された両足の靴底は綻び左の踵は今にも剥がれ落ちそうに口を開いている。荷物と言えば肩紐の切れたザックが足元にあるだけで、長旅にしてはそれはいかにも小振りで粗末過ぎた。
その辺りは「湯坂」と書かれたバス停の名に相応しく、坂の側溝を豊富に湧き出た温泉が湯けむりを上げて流れていた。その流れに掛けた木橋を渡って、いま、盲目の按摩師が一人、杖もつかずにくだって行った。
青年は促されたように立ち上がると、バスが登っていった方向とは反対のなだらかな道を登り始めた。それほど広くない道の両側には、木造りの旅館が立ち並び、客の到着にはまだ間があるのか、中はひっそりとして人の影は見えなかった。内湯・多摩屋旅館、元湯・山田楼などと筆太に書かれた軒下の看板は、長い時間の雨風に打たれて、山懐に拓けた小さな湯治場の鄙びた趣を醸し出している。
青年は一軒一軒の屋号を声を出して読み上げながらゆっくり登って行ったが、やがて袖垣の内に孟宗竹の繁る旅館の前でその歩みを止めた。「湯本・竹林荘」と書かれた入口のガラス戸が左右に開け放たれていて、三和土から道路にまでたっぷりと打った打ち水の上を涼風が吹き過ぎていった低めの。玄関の敷居を跨ぐと低めの天井は一抱えもある梁で支えられ、幅広の天井板、板戸、造りつけの棚などが黒檀色の輝きを放っていた。磨きたてられた広い板敷の床には、場違いなグランドピアノが置いてある。正面の上り框には通障子が置かれ、どこからか空焚きの香が匂った。
「ごめんください」遠慮勝ちに掛けた声は奥に届かなかったのか、あるいは午睡の最中なのか、柱に掛けた大時計の振り子の音だけがこの家の旧い時を刻んでいる。「ごめんください」青年は声の調子を上げて呼んだみた。「りーん、りーん」聞こえてきたのは幽かな風鈴の音だけで、依然として人の立ってくる気配はない。「留守かな」青年は呟くと辺りの静けさに気圧外にされたように三度目の声を掛けそびれて外に出た。
玄関から左右に伸びた白壁の袖垣は、両隣りの旅館との境を仕切って裏口まで続き、それに沿って良く手の入った孟宗竹が二階の屋根に届いている。細かな葉群は午後の陽を遮ってそれぞれの部屋の障子戸にひらひらとした影を映し、回廊のように巡らされた赤い手摺が下から見えた。玄関脇の植え込みには飾り井戸が掘ってあって、そこから溢れ出た湯が涼しげな音を立てて流れている。更にその横には拾われてきた小さな石の野仏が濡れた長柄の柄杓にその肩を貸して立っている。何処からやって来たのか一匹の蝶が、石仏の耳の周りを飛び回っている。それは恰も青年の来訪を告げ口しているように見えた。
「チーン」突然、玄関に近い部屋で透き通るような鈴の音が響いた。するとすぐに「はーい」と言う甲高い声がして、奥の女中部屋から四十がらみの女が小走りに出てくると鈴の鳴った部屋の外に跪いた。「奥様、お呼びですか」「どなたかお客様のようだよ」韻の深い声である。「そうですか。気がつきませんで」女中は不審げに立って来て玄関の青年に気がつくと「まあ、すいません。うっかりしていまして。いらっしゃいませ」と迎え指をついた。
「田村啓介と申します。宗田理恵様をお訪ねして参りました。」青年の声が奥に届いたのか腰高障子がさっと開き「まあ、いらっしゃいませ」声が先に聞こえて、微かに畳を擦る音がしたかと思うと、白足袋の先で褄を蹴るようにして一人の老婦人が出てきた。女の体躯にしては肩幅の広い背筋の伸びた婦人だった。浴衣染めの単衣に紺無地の上布を太鼓に結んで、それはいかにも涼やかな立ち姿だった
「田村です。やっぱり来てしまいました」「どうぞ、どうぞ。よく来てくれました。さ、おあがり下さい」胸の前で祈るように軽く両手を合わわせ、首を心持ち傾けてものを言う顔立ちには、人を包み込む優しさが溢れていた。それれでいて凛然たる気品が辺りを払うように漂っている。夕朝、人を迎えて送るこの種の仕事から、いやでも身に付く小器用な人あしらいの垢は露ほどもない。それは、殊によると、婦人の袖口から時折覗く念珠のせいかもしれないと青年は思った。
促されて青年は靴を脱ぎかけたが途中で躊躇いの素振りを見せた。婦人はそれに気づくと「お春さん、すすぎを持って来ておあげなさい。それからお風呂も差し上げてね」と言い、青年には「そうなさいね。その間に私は仕事を済ましておきますから」橋ががりを楽屋へ戻る能役者のように静やかに自分の部屋に入って行った。
春さんと呼ばれた女中は、下足の棚の裏から手桶を取り出すと、植込みの湯井戸から湯を汲んで啓介の足元に置いた。「どこからいらしたのですか」「東京です」「いつお発ちになって」「二月です」「女中は小さく指を折ってから「六ケ月も掛けてですか。汽車なら四時間ですのに」と驚いたように顔をあげた。「回ってきたんです。四国や九州を」啓介は足下のザックから鼠の指人形を取り出すと「このチュウ太郎と一緒にです」灰色の上着、赤い蝶ネクタイ、左右にぴんと張った白い口髭。ネズミは啓介の三本の指に操られて、頭を掻いたり、頷いたりしてしきりに愛嬌を振りまく。
春江は、くすぐられたような声で笑い、やがて感心したように大きく頷くと、「そうですか。尊い旅をなさって来たのですね。さ、ご案内します。お風呂へどうぞ」と先に立った。