霧の予報士
神殿は街の中心に堂々とそびえ立っていた。尖塔の頂きには青白い光を放つ水晶が据えられ、その柔らかな輝きが夜の闇を押し返している。広い境内には、所々に同じような水晶を埋め込んだ石柱が立ち並び、それらが放つ光が霧をほのかに払っているように見えた。
「すごい...」
思わず声が漏れる。日本の神社仏閣とも、西洋の教会とも異なる、完全な異世界建築だ。石柱の間を歩くと、神聖な空気が肌を包み、何か不思議な力の存在を感じさせる。
エルナは神殿の扉の前で立ち止まり、何か短い言葉を告げた。すると、重厚な扉がゆっくりと内側に開いていく。
「!?」
機械仕掛けでもないのに、扉が自動で動く。これが、この世界の「魔法」なのだろうか。驚きに目を見開くショウタを、エルナは少し楽しそうに見ている。
神殿の内部は、水晶のランタンが並ぶ廊下が続いていた。壁には見慣れない文字で書かれた石板が嵌め込まれ、天井からは淡い光を放つ植物のようなものが垂れ下がっている。
やがて二人は広間に案内された。そこには数人の人物が待っていた。中でも目を引いたのは、紺碧の長衣を纏った中年の男性だ。白髪交じりの髪は後ろで束ねられ、落ち着いた物腰からは知性と威厳が滲み出ている。
「私はアルベルト。この神殿の上級神官を務めております」
突然、理解できる言葉が聞こえてきた。ショウタは思わず目を見開く。
「えっ...日本語が...?」
「いいえ、これは神殿に伝わる『翻訳の輪』の効果です」
アルベルトは首から下げていた水晶のペンダントに触れながら説明する。
「異世界から来られた方との対話を可能にする、古代の魔法具ですね。ただし、その効果は神殿の中でしか維持できません」
エルナも安堵したように肩の力を抜く。やっと意思疎通ができるようになったことが、彼女にとっても嬉しいようだ。
「さて」アルベルトは静かに切り出した。「エルナから、あなたには霧を"予知"する力があるとの報告を受けました」
その言葉に、神殿内の空気が一瞬凍りついたように感じる。他の神官たちも、一斉にショウタに注目した。
「いえ、それは...」
戸惑いながら、ショウタは街で感じた不思議な感覚を説明しようとする。普通の霧とは違う何か、生きているような存在を感じたこと。そしてそれが朝には強まりそうだという予感。
「なるほど...」
アルベルトは深い考え込むように目を閉じる。再び開かれた瞳には、懸念と期待が交錯していた。
「実は、この街には重大な問題を抱えているのです」
彼は古ぼけた羊皮紙を広げながら続ける。
「この数ヶ月、霧の出現頻度が急激に増加しています。そして、その霧には...只ならぬ力が宿っているのです」
エルナが言葉を継いだ。
「先週も、霧の濃い森で行方不明者が出ました。家畜が消えることも増えています。霧の中で奇妙な影を見たという報告も...」
「街の人々は恐れているわ」エルナの声に力が込もる。「でも、私たちには霧がいつ、どこで濃くなるのか、予測する術がなかった」
「しかし、あなたには...その力があるかもしれない」
アルベルトの言葉に、ショウタは息を呑む。確かに、あの不思議な感覚は間違いなくあった。でも、それが本当に役立つのか?そもそも、自分にそんな大それた力があるはずがない。
「私には...」
言葉に詰まるショウタの背後で、突然、神殿の扉が勢いよく開かれた。
「アルベルト様!大変です!」
若い神官が慌てた様子で駆け込んでくる。
「南区の霧が、急激に濃くなっています。それも、尋常ではない濃さです!」
若い神官の声に、神殿内の空気が一変する。アルベルトは即座に立ち上がり、周囲の神官たちに指示を出し始めた。
「結界用の水晶を準備しろ。エルナ、騎士団を集めてください」
「はい!」
その時、ショウタの体が強く反応した。背筋を走る悪寒。まるで全身の神経が霧に共鳴するかのような感覚。不意に、南区の市場通りが霧に飲み込まれていく映像が脳裏に浮かぶ。
(この感覚...)
「アルベルト様!」
思わず声が出る。皆の視線が一斉に向けられ、一瞬言葉に詰まる。でも、この予感は間違いない。
「あと十分もしないうちに、市場通りが霧に覆われます。そして、その先にある孤児院の方向へ...」
言葉が途切れる。自分でも何を根拠にそんなことが分かるのか説明できない。ただ、確かにそう感じるのだ。
一瞬の静寂。アルベルトがエルナと目配せを交わす。
「信じましょう」エルナが前に出る。「私は彼の言葉を、街の安全のために活かすべきだと思います」
アルベルトも深く頷く。「ショウタ殿、我々と共に来ていただけますか? あなたの力が必要です」
(俺の...力?)
戸惑いを覚えながらも、ショウタは小さく頷いた。今は迷っている場合ではない。目の前で困っている人々がいるのだから。
神殿を飛び出した一行を、不気味な夜景が出迎える。街を覆う霧は、明らかに通常のものとは違っていた。月明かりを反射して淡く青白く光り、まるで生き物のように蠢いている。道端の魔法ランタンの光も、霧に包まれてぼんやりと歪んでいた。
通りを駆ける足音が石畳に響く。先頭を行くエルナの背中を追いながら、ショウタは霧の動きを必死に追っていた。通常なら単なる水蒸気のはずなのに、まるで意思を持ったように流れ、渦を巻いている。そして何より、その一つ一つの動きが手に取るように分かってしまう。
「待って...!」
突然、ショウタは足を止めた。
「どうした?」エルナが振り向く。
「この道は危険です。あと一分もしないうちに霧が急激に濃くなります。むしろ...」ショウタは左手の路地を指差した。「あちらの路地なら、まだ五分ほどの余裕が...」
言葉が終わらないうち、目の前の通りが霧に飲み込まれていく。見る見るうちに視界が白く染まり、建物の輪郭が消えていった。不気味なことに、音までも霧に吸い込まれたかのように遠ざかっていく。
「凄い...」アルベルトが息を呑む。「本当に予測できているのですね」
急いで左の路地へ向かう一行。そこではすでに数名の住民が不安そうに佇んでいた。霧から逃れようとしているのだろう。その中に一人の女性が、幼い子供たちを引き連れている姿が目に入った。
「マリアさん!」エルナが駆け寄る。「急いで神殿の方へ!」
その時、ショウタの背筋が凍る。霧の中から、何かが這い出してくる気配。
「危ない!」
叫んだ瞬間、霧の中から異形の影が現れた。まるで獣のような、しかし霧そのもので形作られたような存在。それが子供たちに向かって牙を剥く。
「くっ...!」
エルナが剣を抜く。銀の刃が月明かりに煌めく。しかし霧の獣は実体がなく、剣が空を切る。
「右! 三秒後に右から来ます!」
思わず叫んでいた自分に驚きながらも、ショウタは確信を持って指示を出す。エルナは即座に反応し、剣を振るう。今度は確かな手応えがあった。霧の獣が悲鳴を上げ、かき消えていく。
「皆さん、こちらです!」
アルベルトの声に従い、マリアと子供たちが安全な方向へ避難を始める。エルナは剣を構えたまま、霧の中からさらなる敵が現れないか警戒している。
その時、ショウタの全身に再び悪寒が走った。霧の渦が、まるでゆっくりと息を吐くように蠢いている。
「エルナさん、上! 屋根の方から...!」
ショウタの警告と同時に、建物の屋根から二体目の霧の獣が飛び出してきた。エルナは咄嗟に剣を振り上げ、霧を両断する。しかし今度は、切り裂かれた霧の獣が二つに分裂し、より小さな姿で周囲を取り囲もうとしていた。
「くっ...数が増えていく!」
エルナの声に焦りが混じる。レインの放った矢が霧を貫くが、傷口からさらに新しい個体が生まれ出る。他の騎士たちも剣を抜き、霧の獣との戦いを始めるが、斬れば斬るほど数が増えていく。このままでは、完全に包囲されてしまう。
(こんなの、どうやって止めればいい...!?)
焦るショウタの耳に、アルベルトの声が響く。
「ショウタ殿!霧の流れが見えますか?これらの魔物は、どこから湧き出しているのでしょう!」
その問いに、ショウタは必死で意識を集中する。目を凝らし、街を覆う霧の一つ一つの動きを追っていく。普通の霧なら、風に流されるままにゆらめくはずだ。でも、この霧には明確な"流れ"がある。まるで血管を流れる血液のように、どこかから供給され続けている。そして、その源は...。
「あそこです!」
南区の外れ、古びた塔の方向を指差す。薄暗い夜空に、塔の尖塔だけが不気味に浮かび上がって見える。
「霧が、あの塔から湧き出しているように見えます。まるで...泉のように」
「なるほど」アルベルトが頷く。「エルナ、撤退します。これ以上ここで戦っても、霧の源を断たない限り意味がない」
エルナは一瞬躊躇したものの、状況を理解して頷いた。
「レイン、西側を。ヴァルト、東を固めて!」
騎士たちは隊形を組み、住民たちを守りながら神殿方向への撤退を開始する。霧の獣たちは執拗に追撃してきたが、ショウタの予報のおかげで、うまく回避しながら後退することができた。
神殿の境内に入ると、水晶の石柱から放たれる青白い光が結界を形成し、霧を弾いていく。獣たちは這い寄ろうとするが、まるで透明な壁に阻まれるように進めない。
「ふぅ...」
深いため息をつくショウタ。初めて実戦で力を使い、心身ともに疲れ切っていた。それでも、マリアと子供たちが無事だったことに安堵する。小さな男の子が「ありがとう」と手を振ってくれたのが、妙に胸に響いた。
(こんな風に、誰かの役に立てるなんて...)
しかし、その安堵も長くは続かなかった。
神殿へと向かう道中、住民たちがショウタを不安げに見つめている。
「あの異邦人が霧を呼んだんじゃないか?」
「見たこともない服装に、わけの分からない力まで使ってたし… 不吉すぎる」
「この街が、まさかこんな魔物に襲われるなんて… あいつのせいなんじゃないの?」
つい先ほど救出に加わったショウタを見て、住民たちの不安と疑いが混じり合った声が伝わってくる。誰もが異形の霧と魔物の出現に震え上がっており、その原因を“見慣れない異邦人”に押し付けようとする空気が広がりつつあった。
(俺が来てから霧が強まった…そう言われても反論できない。でも、どうしたって証明なんてできないし…)
ショウタは住民たちの視線を感じながら、小さく唇を噛む。何も言い返せず、その場に立ち尽くしてしまう自分がもどかしかった。そんな彼のもとへ、足早に向かってきたのはエルナだった。
「それは違う!」
――自分たちと暮らす市民だからこそ、彼らの恐怖や不安を理解しながらも、エルナは鋭い視線を送る。彼女の声は夜の空気を震わせ、住民たちの囁きを一瞬で封じ込めた。
「彼がいなければ、マリアさんと子供たちはどうなっていたか分からない。私たちは彼の力を信じるべきだわ」
住民たちは一瞬黙り込むが、それでも囁きは完全に消えることはなかった。ショウタはその様子を見つめながら、小さく唇を噛む。
(俺が来てから霧が強まったのは本当かもしれない。でも、それを証明する方法なんてない)
そう思うほどに、心の奥底で沸き上がるのは「自分が本当に役に立っているのか」という疑念だった。
「気にすることはない」
横から声が聞こえた。振り向くと、そこにはアルベルトが立っていた。いつもの冷静沈着な表情で、ショウタをまっすぐに見据えている。
「確かに、あなたの力が霧と関係している可能性は否定できない。しかし、それが街を救うために役立つのであれば、問題ではない」
「でも...」
ショウタは言葉を飲み込んだ。そう簡単に割り切れる話ではない。それでも、アルベルトの目には揺るぎない信念が宿っていた。
「あなたの力は、まだ使い方次第だ」
エルナもショウタの肩に手を置き、優しく微笑む。
「私たちが守るわ。だから、もう少し信じてみてくれない?」
ショウタは彼女の瞳を見つめ、頷くしかなかった。
(何もかも分からないけど、今はこの街のためにできることをするしかない)