異世界への招来
真夜中近くのコンビニ。蛍光灯の無機質な光が、半透明のレジ袋を照らしていた。山田ショウタは、レジ袋の中の菓子パンとペットボトルの重みを確かめるように軽く持ち上げる。夜勤明けの空腹を満たすための質素な夜食だ。システムエンジニアとして働き始めて半年、不規則な生活リズムにもようやく慣れてきた。
「お疲れ様でした」
店員の声に軽く会釈を返し、自動ドアをくぐる。冷えた夜気が頬を撫で、思わず首を縮める。初夏とは言え、深夜の気温は肌寒い。もうこんな時間。待ち構えているのは、空っぽのワンルームと、明日も変わらない日常。
(結局、俺って何がしたかったんだろう)
大学時代、漠然と描いていた夢は、就職と同時に霞んでいった。プログラマーという仕事自体は悪くないはずなのに、どこか物足りない。誰かの役に立っている実感も、自分が成長している手応えも、どこか希薄だった。
ふと顔を上げると、遠くから不自然な霧が這うように近づいてくるのが見えた。
「ん?」
足を止めて様子を窺う。六月の都内で、こんな濃い霧を見るのは珍しいはずだ。まるで生き物のように蠢く白い帳は、ゆっくりとではあるが、確実にショウタの立つ場所へと押し寄せてきていた。街灯の光が霧に遮られ、異様に歪んで見える。
(天気予報で霧の話は聞いてないよな...)
携帯の画面を開こうとした瞬間、霧は一気に濃さを増した。視界が白く染まり、街灯の光さえも遮られていく。次第に周囲の音も変わっていく。車のエンジン音は遠ざかり、代わりに木々のざわめきが聞こえ始めた。空気が湿り気を帯び、見慣れた都会の匂いが消えていく。
「なっ…!」
慌てて後ずさりしようとした時、足元が揺らいだ。アスファルトの固い感触が消え、代わりに柔らかな土を踏む感覚。暗闇の中で落ち葉を踏む音が不気味に響く。周囲には木々の影が、月明かりにぼんやりと浮かび上がっている。
見上げた空には、ビルの影も、ネオンの光も、飛行機の明かりもない。代わりに無数の星が、驚くほど鮮やかに瞬いていた。こんなにはっきりと星空が見えるなんて、都会育ちのショウタには記憶がなかった。
「ここは...森?」
心臓が早鐘を打つ。理解できない状況に、冷や汗が背筋を伝う。ショウタは必死に深呼吸を繰り返し、パニックを抑えようとした。
(落ち着け...まずは、ここがどこなのか確認しないと)
目を凝らすと、かすかな明かりが見えた。不安を押し殺しながら、ショウタはその光源に向かって歩き始める。枝を払いのけ、茂みをくぐり抜けること十数分。ようやく開けた場所に出ると、そこには見慣れない建物が立ち並ぶ小さな街が広がっていた。
石畳の道には、まるで中世ヨーロッパから抜け出してきたような衣装をまとった人々が行き交っている。家々の窓からは温かな明かりが漏れ、軒先には青白く光る不思議なランタンが下げられていた。道端の屋台からは甘い香りのするパンの匂いが漂い、露店には見たこともない形の水晶や、きらめく液体の入った小瓶が並んでいる。
(まさか、これって...)
漫画やアニメでよく見る「異世界」という言葉が頭をよぎる。でも、これは創作の中の出来事じゃない。石畳の冷たさが足の裏から伝わり、空気の湿り気が肌を撫で、不思議な香辛料の匂いが鼻をくすぐる。あまりにリアルな感覚に、思わずショウタは呟いた。
「なんでこんなことに...」
通りを歩く人々は、ショウタの姿を見て明らかに困惑している。「あの者は何者だ?」「見たことのない服だな」「遠方の旅芸人だろうか?」とひそひそ声が漏れ聞こえてくる。パーカーとジーンズ、コンビニの袋という出で立ちが、この世界では完全な異物なのだろう。
その時、背後で不意に金属の音が響いた。振り向こうとした瞬間。
「動かないで」
凛とした声が、夜気を切り裂くように鋭く響く。ゆっくりと後ろを向くと、月光に照らされた銀の鎧が、青白く輝いていた。
そこに立っていたのは、一人の女性騎士。片手でランタンを掲げ、もう片方の手は既に剣の柄に添えられている。指先がわずかに動き、鞘との間で冷たい金属音を奏でた。長い金髪が夜風になびき、深い緑色の瞳がショウタを鋭く見据えている。ランタンの炎が不安げに揺れ、剣の鞘に冷たい光を落とす。
(うそだろ...本物の騎士!?)
ショウタの背筋が凍る。この世界では、あの剣は間違いなく本物なのだ。
「私はこの街の騎士、エルナ。不審な者は、たとえ異邦人であろうと見過ごすわけにはいかない」
声には確かな威厳が宿っている。その眼差しには敵意よりも慎重な観察の色が強かったが、剣に添えられた手からは緊張が伝わってくる。まるで、いつでも抜剣できる態勢を保っているかのように。
ショウタは咄嗟に両手を上げ、抵抗の意思がないことを示す。レジ袋が風に揺られ、カサカサと音を立てた。エルナは数歩近づき、ランタンの明かりでショウタの姿を詳しく確認し始めた。
「その装束...見たことのない仕立ては、確かに異国のものね」
パーカーとジーンズという現代の服装を、エルナは怪訝そうに眺めている。近くの路地からは、さらに多くの住民が興味津々な様子で覗き込んでいる。
「あの、これは誤解で...」
ショウタは必死に説明しようとした。英語でも試してみたが、それすら通じる様子はない。全く見当のつかない異世界の言語に、焦りが込み上げる。
「待って、えーと...」
身振り手振りを交えながら、なんとか意思疎通を図ろうとする。その必死な様子を見て、エルナの表情がわずかに和らいだ。剣の柄から手を離し、代わりにショウタに向かって手を差し出す。
(え...?)
その仕草には不思議と威圧感がなく、むしろ困っている者への自然な温かさが感じられた。さっきまでの厳めしさは影を潜め、まるで迷子の子どもを諭すような、優しい眼差しに変わっている。
(こんなに強そうな騎士なのに、意外と...)
エルナは何か言葉を掛けながら、神殿らしき建物の方向を指差した。その仕草から「案内してあげる」という意図は伝わってくる。ショウタは小さく頷き、安堵の吐息を漏らす。
石畳を歩く二人の足音が、静かな夜の街に響く。道端では魔法のランタンが青白い光を放ち、店の軒先には見慣れない形の壺や水晶がぶら下がっている。時折通り過ぎる住民たちは、ショウタの異様な出で立ちを見て顔を寄せ合い、興味津々な様子で話し合っている。その度にエルナが軽く会釈をし、状況を説明しているようだった。
(なんだか、保護された迷子みたいだな...)
自嘲気味に考えながら歩を進めていると、不意に背筋をゾワリとした感覚が走った。普通の霧なら、ただの湿り気を感じるだけなのに、街を覆う薄い霧が、まるで生きているかのように感じられる。
それは単なる天候現象ではない—。何か、この世界特有の力が宿っているような気配。霧の一つ一つの動きが、映画のスローモーションのように鮮明に見えてくる。その渦が、まるで意思を持つかのように蠢いている。
「変だな...」
思わずつぶやいたショウタの声に、エルナが振り向く。彼は不思議な感覚に導かれるように、ゆっくりと空を見上げた。そして手で霧をすくうような仕草をしながら、それが徐々に濃くなっていく様子を表現しようとした。
エルナはショウタの仕草を注意深く観察している。彼が霧について何かを伝えようとしているのは分かるが、具体的な内容までは理解できないようだ。それでも、彼女は空を見上げ、街を覆う霧を警戒するように見つめた。
そこでショウタは、日の出を表現するために手で太陽を描き、それから再び霧が濃くなる仕草を繰り返した。
「...!」
エルナの目が見開かれ、その表情には一瞬、恐怖が宿った。けれど次の瞬間にはそれを必死に押し殺し、ショウタの腕を取って歩き出す。その手には、かすかな震えが感じられた。
(どうしてこの街は、霧にこれほど神経質なんだろう...?)
疑問を抱きながらも、ショウタはエルナの後について歩を速めた。彼女の背中からは、何か重大な決意が感じられる。それは単なる警戒心以上の、この街を守るという強い意志のようにも見えた。