秘めたる小さな恋は永遠に片想い
これは浮気とも不倫とも違う、あえて言うなれば、ささやかな恋のトキメキのようなものだと思います。
わたし、黒川ヤスコが、かれ、白石スグルと出逢ったのは、ほんの偶然の出来事でした。
その日、いつものように夫にお弁当を渡して送り出してから、ルーチンワークと化している朝の家事諸々を済ませ、リビングでアイスコーヒーを傍らに婦人雑誌のページをめくっている時のことでした。
見開きの広告欄に、元町の百貨店で英国フェアを開催しているという情報が掲載されていました。
いつもなら、そのようなコマーシャルメッセージはインプットすることなく読み飛ばしてしまうのですが、開催場所が生活圏内であることと、そろそろ夏色のお化粧品が欲しかったことが相まって、ちょっとお出掛けしてみようかしらという気になりました。
一階で口紅や乳液を購入し、二階三階で早くも秋のトレンドを先取りしたマネキンたちを見て回り、そういえばワイシャツの襟袖が少し黒ずんできていたなと思い出して六階にも立ち寄ってから、九階の催し物会場へと向かいました。
かれが居たのは、そのイベントホールの片隅に構えられた小さなブースでした。
香港シャツの上に英国ブランドのチェックベストを着たスリムなハンサムボーイは、王室御用達だという気品あるデザインのお紅茶の缶を並べ、来場したお客さんたちに営業スマイルを振りまきつつ、淹れたての紅茶を大量の氷で一気に冷やしたアイスティーの試飲を勧めていました。
テノールボイスの解説トークに聴き入り、ホワイトアスパラガスのような細長い指で鮮やかに操られるティーポットやマドラーに見惚れているうちに、いつの間にか、わたしの手にはアッサム種とセイロン種の茶葉が入った紙袋が握られていました。
その後、同じ階にあるレストラン街でちょっぴりリッチなランチをいただいたあと、地下一階でお夕飯用のお惣菜を買ってから、日陰を探し探し日傘を差して家路を急ぎました。
帰宅してすぐにお惣菜を冷蔵庫に、型崩れしないように入れられているボール紙やクリップを外してからワイシャツを洋服タンスに、お化粧品をドレッサーの引き出しにそれぞれ収納してから、いそいそとリビングテーブルに置いた紙袋を開封しました。
紙袋の中には、購入した茶葉が入った銀色の小ぶりなパウチの他に、美味しい紅茶の淹れ方教室のチラシが入っていました。
普段のわたしなら、同封されている宣伝材料は斜め読みして捨ててしまうのですが、場所がそれほど遠くないことと、せっかく良い茶葉を買ったのだからチャノキちゃんたちのポテンシャルを十二分に引き出してあげたいという気持ちと、受講料が良心的だったことがアンサンブルとなり、インドア派のわたしにしては珍しく、ちょっと通ってみようかしらというアクティブさが芽生えました。
以前、何か習い事でも始めたらと夫に勧められていたというのも、一歩踏み出すキッカケかもしれません。もっとも、夫はわたしにそのようなことをアドバイスしたことを、ずっと覚えていてくれているとは思いませんけれども。
開講日は、数日後のこと。お教室は、北野の異人館界隈から少し外れに構える二階建ての一軒家で、一階がお教室兼隠れ家風のカフェになっていました。
講義時間は午後七時からで、レッスンがスタートする頃には、窓の外は薄暗くなっていました。
一回目の受講者はわたし一人で、お紅茶の淹れ方を何も心得ていないわたしに、かれはため息一つこぼすこともなく、基礎の基礎から丁寧に教えてくださいました。
一時間弱のあいだに、紅茶は沸騰したての熱湯を注ぐこと、茶葉が開いて沈むまでポットを揺すってはいけないこと、蒸らしている間は冷めないようティーコージーと呼ばれるキルトのカバーを掛けておくと良いこと等を習ったようでした。
伝聞形なのは、レッスンのおしまいにかれから渡されたプリントを見返して初めて気付いたからです。講義中はかれの洗練された所作に目を奪われるばかりで、説明内容は素敵な声音の響きだけを残して右から左に筒抜けになっていましたから。
淡い夏の夜の夢から覚めたのは、レッスンを終えて帰宅したあと、お酒臭い息をしながら夫が帰って来た瞬間でした。
レッスンは月に一回。
わたしは、千鳥足でシャワーを浴びに行った夫が脱ぎ散らかした背広や投げ出されたカバンを拾い上げつつ、頭の片隅では、来月のレッスンには今朝手に入れた口紅を引いていこうかなと考えるのでした。