紛失物の探し方 2-1
翌朝、いつもの梛木先生の朝礼が行われていた。彼女曰く、春は眠いのが当たり前だから授業中にうとうとしていても仕方ないとのこと。そんな教育者として言っていいのかわからない意見に賛同しないわけがいかないほど眠くて朝礼の間ずっとぼんやりしていた。
「はい、朝礼終わり。一時間目の準備。あ、日野、渡すものあるから来て」
名前を呼ばれ教卓に向かった。半分寝ながら。
「今日は眼鏡かけないんですか?」
「ん?」
「あ、はい。すみません。寝ぼけてます、たぶん」
「そっか、起きろ。それから、これ。気をつけようか」
一瞬で意識が覚醒するのがわかった。
梛木先生が差し出しているもの。それは、間違いなくこの学校の生徒手帳。
それを受け取り、ページをめくった。学生証のページにはちゃんと顔写真と氏名等が記されていて、まぎれもなく僕の物であることを示していた。
「あ、の、これ……誰が」
「ん、誰が持ってきたか? 二組の――」
「山本くん、いますか?」
一時限目は数学。宿題も家で済ませきたから、心配ご無用。ただ、人通りがあるからむやみに不審者にならないように気をつけなくてはならない。今回は到着してすぐに行動できたから、及第点は満たせただろう。
突然の新参者に一年二組の教室は静まり返る。同じ学年とはいえ、まだ話したことさえない人たちしかいない。
が、無意味に自ら未知の人混みに飛び込むコミュ障は存在しない。誰か反応してほしい。
不意にドア際の席の女の子……名札には、橘 悠衣子……が僕の背後に目を向け呟く。
「あっ、山本くん」
振り向くと、男子生徒。名札には山本啓吾と記されている。
教室の出入りの邪魔にならないようにドアから剥がれて壁沿いに五歩下がった。
「あの、聞きたいことがありまして」
「聞きたいこと?」
もう一歩下がって生徒手帳を見せた。
「これのことなんだけどでございます」
「あー、それ今朝渡されただけだよ。クラスわかるか聞かれて頷いたら、渡しといてって」
「誰から?」
「えっと、先輩」
「知ってる先輩?」
「生徒会の。部活紹介のとき、始めの挨拶してた人」
「小柄な、水色リボンの? カフェオレ好きの?」
「あ、いや、その、ちょっと恐めの、三年生」
「怖め? ……あ、あと、最後に一つ」
「これ以上は聞かれてもわからないよ。渡してって言われたから渡しただけだし」
「そ、そうなんだ」
「あと、もうチャイム鳴るけど」
「あ、本当だ。ありがとうございましたです」
山本くんの言葉で携帯の時計を確認して、駆け足で教室へ戻った。
お馴染みのウェストミンスターの鐘の音を合図に、教科書を教室の後ろのロッカーに乱雑にしまった。それから、終礼を終えてすぐに教室を飛び出した。
休憩をはさみつつ別館の階段を駆け上り、目的地のドアを勢いよく開け放つ。
「こんにち……」
「いい加減にしてくれ」
怒気を多く含んだ低音が、自分に向けられた言葉かと思って扉から反射的に手を離した。
三歩ほど後ろに下がる。
扉が目の前でゆっくり閉じていく。
次の瞬間、液体がびしゃっ、と何かに勢いよくぶつかった音が響いた。
「これで頭は冷えるかしら?」
嘲るような口調の女声の後、重い沈黙が流れる。
今度はそっと扉を開けて中を覗いた。
「ふざけるな」
室内では男女二人の先輩がにらみ合っていた。どちらもネクタイ、リボンの色から高校二年生らしい。
こちらに背を向けている男子生徒の方は、長身でどこか儚げな印象がある。頭からかぶった水を俯きながら滴らせている。
グラスを机にたたきつけた女子生徒の方は、小柄で線が細い印象だ。癖のないショートの髪を右手で雑にかき上げる。
「どこまでバカなの? あんたの時間の無駄遣いにつきあうつもりはない」
「私は」
「一度のミスで、いつまでそうやってダサい姿をさらし続けるつもり?」
「とにかく、もう会員じゃないお前に」
「そう。関係ないって言いたいの。もういい」
女子生徒はポケットから取り出したものを机の上に放り投げ、暇を告げた。
咄嗟にドアの陰になるところに身を潜めたが、覗き見ていたことには気づかれてしまっていたらしい。
「やあやあ! 驚いちゃった?」
怖いくらい人懐っこいかわいらしい笑顔で扉から顔だけのぞかせた。僕は声にならない声をどうにか出そうとネクタイを緩めてみるが、言葉が出てこない。
「ごめんね、驚かせちゃって。でも、もう心配いらないから。さ、中に入って」
彼女は僕の背を押して入室させると暇を告げた。
入り口からゆっくり室内へ視線を泳がせると、ちょうど相手もこちらに目をやったところだった。
「あ、あの……初めまして、僕は」
若宮先輩はセーターを脱ぎながら、僕の代わりに続けた。
「日野真記、中等部一年」
「え、あ……えっと」
「ふむ。弦楽器を演奏するらしいね。奏楽部に、いや、軽音部にでも入るのかい? まあ、だからと言って、そう、君がたとえどんなに素晴らしいギターソロを弾くとしてもライブとやらを見に行くつもりはない。大きな音は好みじゃないんだ。いいな? 今日来たのは、自分の探し物か。どうやらかなり重要なものらしいね。無いと困るもの。財布、定期、携帯……いや、違うなぁ。何かの記念品か? おおっと、何か言おうとしていたかな? すまない。で、何を探しているんだ?」
滔々たる語り、お見事です。
乱雑にワイシャツで顔を拭く彼に「どうしてわかったんですか?」と質問を返す。先輩は窓と向かい合い、両手を組んで上に伸ばしながら何でもないように言った。
「経験からの推測。用件は何かな?」
「あっ、す、すみません」
少々早口になりつつ、事情を話した。内容は昨日、二人の先輩に伝えたものと大差ない。すべて話し終えた後に、先輩はあくび交じりにこう言った。
「なくても生きていけるよ、そんなの」
「ナオさん、たまに頭が沸騰している発言しますよね」
いつのまにかやってきていた加藤先輩は仰々しくため息をついた。
「どうせ使わないじゃないか。それに、ほら、高校生になったらまた別のを発行してもらえるだろう」
「あ、いえ。見つかりました」
ポケットから生徒手帳を取り出してみせた。
「今朝、届けてくれたんです。二組の人が。生徒会の人からって」
「お。おめでとう」
「昨日はありがとうございました」
「いえ」
「では、一体何の用なのかな?」
遮るように声を張った若宮先輩に促され急いで生徒手帳のページをめくる。
「あの、気になることがありまして。その、これなんですけど」
生徒手帳の本体とカバーの隙間に入れられた五〇〇円玉を先輩たちに見せた。
「届けてくれた人が受け取ったときには、既に入っていたみたいなんです。その代わりなのかよく分かりませんけど、なくなったときに入れたはずの学食の食券が消えてました」
「ふむ。学食派かい?」
「あ、はい。今のところ、基本は学食ですね」
「何を買ったんだ?」
「日替わり麺を買って、おつりの一五〇円も一緒に入れてました。合わせれば、金額はぴったり五〇〇円です」
「ふむ。その原本かしてくれるかい?」
「あ、はい」
彼の大きな手に生徒手帳を乗せる。しばらく先輩はそれをためつすがめつ見ていた。
「中等生のこの時期は、まだきれいらしいね」
「まだもらってから二週間なので」
笑いながら適当にごまかして生徒手帳を受け取る。先輩は「ああ、そうだ」と体をソファーに沈めた。
「に?」
「はい?」
「クラスだよ。二組か四組か」
「あっ、四です」
「他に不審に感じたことはあるか?」
「い、いえ、特には」
「本当に? 君の靴の裏には何も違和感がないと?」
反射的に思い当たるものがあった。
「どうし」
「君が歩くたびに妙な音がしていた。それだけだ」
「体育が終わって教室に戻ったとき、入り口のところで何か、あの、踏みました。そのうち取れると思って放置してます」
「体育というと?」
「彼が言っているのは、今年の中等部一年生の水曜日、三時限目、昼休み前の授業のことですよ」
代わりにさらりと加藤先輩が答えてくださった。
昨日、そこまで詳細には伝えていないはずだが、なぜこの人は他学年の時間割を知っているのだろうか。
「紹介しよう、少年。彼は私の右腕、加藤匠という。情報通だから、彼にかかれば引き出せない情報はないのだよ。だから、その視線を控えてやってくれないかな」
「あっ、はい」
さすが私立校、優秀な人材が集まりやすいらしい。
唐突に紹介したことで隣の右腕さんに不満そうな視線を向けられている彼は、どのような能力を持っているのだろうか。
「昨日、私が寝ている間に訪れたことは聞いている。今までの情報をまとめよう。相違点は訂正してくれ」
頷くと、若宮先輩はソファーに座り直してから確認をはじめた。
「昨日、昼に生徒手帳の紛失を認識。友人の促しでわざわざここへ来た」
「友人と言っていいのかわかりません。妹のクラスメートです」
「では、そのように訂正し、話を続けよう。
ここへ来たとき、何か誤解していたようだが、もうそれは解消されたね?その後、眠かった私の代わりにタクが君の付き添いとして中学生徒会本部へ赴き、役員らに紛失物として届けられていないか確認した。このとき教員ネットワークも確認してもらい該当するものはなかったということだから、他学年、他クラスの生徒が担任に紛失物として渡してしまっていた可能性は除外できる」
「教員ネットワークって何ですか?」
昨日聞いた知らない言葉だが、そのままにしてしまっていた。尋ねると若宮先輩は加藤先輩に視線を投げる。気がついた彼は一瞬だけ不服そうな表情をした後、解説してくださった。
「名前の通り、教員同士を繋げるシステムのことを指している。役割は三つ。
一つ目は、進級時に担任が変わる場合、後任は受け持つ生徒の成績、生活態度を前任に確認したり相談したりすること。四月にクラス替えがあるので前年度の三学期に活発に利用される役割。
二つ目は、体調不良などで欠席、遅刻する場合、受け持つクラスの授業を他の教員に代役を依頼すること。これは一年を通して利用されていたはず。
で。三つ目は、紛失物の情報を共有すること。貴重品や制服など多岐に渡る種類を誇る紛失物を職員室で一括管理しているから、教員は全てを把握しているわけでは無い。そこで、生徒に紛失物の特徴を聞いたところですぐに返すことができるようにするために作ることになったらしい。と、自分は聞きました。以上」
「確か、私たちが中学二年生のときに情報科の先生や梛木先生が中心となってこのシステムを作ったのよね」
出入り口付近に佇んでいた九条先輩がそう付け加えると、
「基本的に中心となったのは情報科の先生方と聞いていますけどね」
加藤先輩のぶっきらぼうな訂正に若宮先輩は上品に、おかしそうに微笑んだ。
「他に疑問点は無いかな?」
首肯すると先輩は居住まいを正し、話を再開した。
「タクの付き添いのもと、中学生徒会本部で該当する紛失物は無いと総合的に確認し、その日は君には帰宅してもらった。君の話から紛失は三時限目後の休み時間から昼休みの間のおよそ一時間と考えられるから、紛失場所を予想できないのに無闇に探しても時間の浪費だったからね。
結局、翌日つまり今日、担任から生徒手帳は返却されたわけだ。
それでは、いくつか尋ねても?」
「何でもどうぞ」
「そもそも君は紛失した生徒手帳を見つけるためにここへ来たわけだが……見つかった報告をしに来たならまだしも、五〇〇円玉がどうしたというのだろう?」
「ブレザーに入れていたはずのものがいつのまにかなくなっていて、翌日には食券の代わりに現金と共に返ってきたんです。第三者が関わっていると思いませんか?食券の返金までするなんて、どうしてそこまでするのか気になりませんか?」
「そのあたりで暮らす小人か妖精によるものだろう。気にすることはない」
あまりにもお粗末な否定に、加藤先輩がすかさずB5ノート程度の大きさのタブレットをどこかから取り出した。
「でしたら、入手したデータは破棄しておきますね」
「言葉の綾だ。一億歩譲れば気になるとも言える可能性がほんの少しだけならあるかもしれなくもないだろう」
「天邪鬼が過ぎますよ」
よくわからない内容を口走った先輩に、タブレット端末を差し出した。返却されると、若宮先輩の首肯を合図に、テーブル上を滑り僕の目の前にやってきた。
スクリーンには、ある表の以下の部分が拡大されている。
2月19日/17:37/000002テツケン/01,1.4h,red,green,black
3月22日/18:49/000001セイトカイ/01,325s,blue
3月22日/18:50/000001セイトカイ/02,325s,green
4月10日/15:50/000003ロボパーツ/01,3.0h,blue
4月10日/15:51/000003ロボパーツ/02,2.0h,blue
4月10日/15:54/000003ロボパーツ/03,2.0h,blue
「あの、これは?」
「古くからの進学校であるこの学園は、十数年前に共学化された今でも名家、富裕層の子息令嬢が多く就学している。それに加え、私立校であるから学習カリキュラムは公立と比較すると融通が利く。つまり、資金は潤沢であり行動は自由であるから、他校より学習内容が豊富に用意されている。そのうちの一つの例として、昨年度、新しい機械が導入されてね。まだ学習カリキュラムに取り入れられていないから、一般の生徒が使用するのは難しい。管理する生徒会役員の許可が必要だ。
この表は、少々彼らから失敬したデータさ」
「そんなことできるんですか?」
「もちろん、先ほど伝えたようにタクが情報通だからできることだ」
視線を向けたら、さっと逸らされてしまった。
「さて。以上で情報は出そろったのではないかな」
若宮先輩はどこか楽しそうに腕を組み、虚空を見つめる。しばらくして「ふむ」とソファーに座り直し、大きめの声で宣言した。
「調査の必要、無し」
「ありが……え?」
鬱陶しそうな睨みに、思わず僕は口を閉じた。
自分で解明できないから得意な人に解き明かしてもらおうとやってきたのに、調べてすらもらえないとは思っていなかった。
何も言えなくなっていると、加藤先輩はため息交じりに助け船を出してくれた。
「いまだにナオさんが引き受けるかどうかの基準がわかりません。相手は岩本くんじゃないんですから引き受けてあげたって」
「わかっていることを調べる、だと? 睡眠の方が有意義な時間の使い方だろう」
「解決しに行ってあげてからお眠りになられてはいかがです?」
「遠出したくない」
「校内です」
「この部屋から出たら、もうそれは遠出なんだ」
「家に帰るのも一苦労ね」
ちょうど入室した九条先輩も会話に加わる。彼女の苦笑には不機嫌そうに視線を逸らした。
加藤先輩は小さい子が悪いことをしたときに言い聞かせるときのように、声をかける。
「先輩」
「断る」
「駄々っ子ですか?」
「彼らの何が悪い。欲しいものを欲しいと素直に言っているだけではないか。ただ、その方法が大人の都合で迷惑やわがままだと分類されてしまっているだけさ」
若宮先輩の言い訳相手にはなりたくない。加藤先輩は説得を諦め、九条先輩に視線で助けを求めた。いつの間にか九条先輩は昨日とは別のバスケットに入れたマフィンを「どうぞ」と差し出してくださった。昨日のクッキーもそうだったが、非常においしい。
九条先輩は紅茶の準備を進めながら、若宮先輩に視線を向ける。
「あのときと違って校内で収まる依頼じゃない」
「……単に面倒だから行きたくないだけだ」
それまで労わるような眼差しをしていた九条先輩だったが、右手を頬に当てると肩を震わせ俯いた。
同時に、若宮先輩は天井を仰ぐ。
「そんなこと、言わないで……」
「何度も通用すると思うな、ルリ」
「今年の部費、ほとんど入らないかもしれないのに」
「えー、そうなんですか」
棒読みで加藤先輩が問い返す。
若宮先輩を無視したまま、九条先輩は身の入った演技を続ける。
「まともな活動をしていないのに、ある程度の部費が確保されているのは不公平だって。このままでは生徒会長の私は職権乱用の疑いをかけられてしまいかねないわ。一体、どうしたらいいの?」
「その弁舌で反論をねじ伏せれば良い。いつものことだろう」
「ここぞというときにしかしてないわよ。人聞き悪い。とにかく、そういうことだから。よろしくね」
「演技するなら最後までやり通してくれないか?」
「それより、茶番はお二人のときだけにしていただけませんか?」
加藤先輩の迷惑そうな言葉で先輩方は顔を見合わせた。
九条先輩が顔の前で手のひらを合わせて首をかしげると、若宮先輩はため息一つとともに立ち上がった。
ソファーの背面に掛けていたブレザーに腕を通す。それだけの動作に、どこか洗練されたものが滲んでいた。
「今回だけだ。それから、ルリ。あのときのことは無関係だ」
「……そう」
九条先輩は寂しそうに目を細めたが、若宮先輩は気にかけることなくポケットから何か小さいものをとりだした。
「なんですか、それ?」
「魔除けだ」
思わず質問してしまったが、聞かない方が良かったかもしれないと後悔するほど良い返しが思いつかなかった。
「面白くなかったか?」
「え、あ。違くて、その、いえ、見たことある気がして」
「そうか。これはうちの会のシンボルでね。どこで見かけたのだろう?」
「気になりますね」
「君は好奇心に魂を売り渡してしまっているのか?」
「そんなことありませんよ」
「まあ、良い。行くとしようか」
依頼の受理に舞い上がった。一方、それまでの嫌がりは何だったのだろう。