成績の返却
妹を1組教室に送りとどけて、4組の教室へ。
いつもどおり一番前の席で携帯をいじっている智博の目の前にトートバッグを突き出した。
「なにこれ?」
「お菓子」
「なんで?」
「考えてたら。なんか、ね。とりあえず、いる?」
「こんなに?」
「おかげで腕が痛い」と言いながら智博の机にタッパーを重ねた。感心した様子で眺めている。
最中、クラスメイトが数名ほど「ねー、日野さん見に行こー」「うんっ、行く!」といった具合で退室した。
「見に行くって……。あの子、鑑賞対象だったんだ」
「見に行きたい気持ちは分からなくもないけどな」
「は?」
「真記にはそうでもなくても、俺らはいつだって不飽和状態なんだよ」
「化学で飽和結合とか気液平衡とかやったから使いたいやつ?」
「バレた?」
「まあ、変なことにならないなら別にいいけどさ」
簡単に笑い飛ばそうとする友人だが、こっちはマジで心配している。君と違ってフォローできる分野と対処できない内容があるのだ。どうにかしてくれるなら何も文句はないけれど。
「あのさ、ところで。お菓子ってさ、やっぱり小麦粉使ってる?」
「アレルギー?」
「重くないけどね」
「小麦だけ?」
「たぶん。小麦がダメなことは知ってる」
「自分のことくらいわかってろよ」
「うわっ、真記に言われたくない言葉のトップランカー」
うるさい。事実を言うな。
他方。いわれてみれば、学食でもアレルゲンに小麦が含まれているものは選んでいなかったし、昨日の外食でもわざわざ意識高い系のパスタを食べていた。でも、九条先輩のアップルパイは食べていた気が……いや、明言はできないくても食べ慣れた舌ざわりとは異なっていた気もする。親しい間柄だったからすでに考慮されていたのだろうか。機会があれば聞いてみよう。とにかく、特にアレルギーを持っていない人間からするとちゃんと気をつけられる点については感心せざるを得ない。
「とりあえず、確認して」
「どうやって?」
「は? アレルギー調べたから小麦ダメなこと知ってるんでしょ?」
「あー、そっか」
「んじゃ。これみたいに小麦とか使わないお菓子あるから、また今度作ったとき渡すね」主にオートミールを使ったビスケットのタッパーを指でつつきながら伝えると、「え?」首を傾げられた。
「甘いのダメな人だっけ?」
「いや、ちっともダメじゃないけど。え? これ、真記が作ったの?」
「うん」
「マジ? すっげー!」
買ったものをわざわざタッパーに移して持ってくるか? 一体なんだと思ってたんだろう。考えているうちに智博の言葉に反応した数名がわらわら集まってきた。「あげる。処理班で適当に消費しといて。あやが作ったことにしてもいいよ」大した意図もなく、なんとなく言ってみると、一瞬だけ沈黙が流れた。
まずはひとりが呆然とした様子で言葉をこぼす。
「て……天使さまがおつくりになられた……?」
「え、家宝にする」
「国宝だろ」
「どうやって申請するんだろう?」
「とりあえず崇め奉る?」
「頼んだ。とりあえず額に入れて飾るわ」
「身内の危険を感じるんだけど」
「推しに手を出すつもりはありません。そこに存在してくださるだけで十分過ぎます。拝ませていただきたいだけです」
「紳士の無駄遣い、やめろ」
彼らの言葉から、推測する……私立翔衛学園中等部一年男子にはアホが多い。アホに言って意味があるかわからないが「荒ぶるな、おとなしく食べろ」と言いつけてみた。まあ、効果はないらしい。
「定期試験が終わったばっかりだから、みんな変になってるのかな?」
「知らないけど、面倒だからとりあえず大人しく食べてください」
この感情、憐みと名付けたい。
「これ。初めての割には上出来だと思う。マフィンとビスケットとクッキー」
「ビスケットとクッキーって同じじゃないの?」
「レシピに忠実なだけ。違いは知らない」
「ほんと、すっげー……。ありがとう!」
「あ、それとさ。食べたら感想教えて」
「なんで?」
「妹が感想の言葉として おかし! おいしいっ! このふたつしか知らないから参考にならない」
「え、なにそれかわいい」
「その映像、売れるかな」
「……このお菓子とセットならお小遣い数年分は貢げる」
「わー。金銭感覚、ぶっ壊れてる」
「残念、これが正常なのです」
「僕が壊れてるパターン?」
「この学年全員にアンケートとったら正確にわかるよ」
「この国の未来が不安になるかもしれないからやめておく」
「え、先にわかっておいた方が良くない? 善後策たてられるよ?」
ダメなこと前提で提案するのは誠実とは言い難く、智博の発言としては珍しい。試験後で変になっているのは、彼も同様らしい。
「いや、それよりも、なんで智博も食べてんの?」
「甘さ控えめだけど、自然って感じしてて。俺、好きだよ、こういうの」
「感想は助かるけど、そうじゃなくてさ。アレルギー確かめてからにしてよ」
「こっちは平気なんでしょ?」
「小麦粉は使ってないけど、でも入っちゃってる可能性は」
「そんな重いわけじゃないんだって。少しくらいなら問題ないよ」
それでも何かあれば気にする。文句を重ねようとしたとき、廊下から「まさー!」と呼ばれた。僕をそう呼ぶのはひとりだけ。
念のため智博からタッパーを取り上げて処理班に引き渡しておき、その場に通学かばんを放置して扉へ駆け寄った。
「お弁当? 筆箱? それともほかの何か?」
「ふぇ?」
「忘れ物したの?」
「うん、めいちゃんの」
妹の視線につられると、壁に背を預けるように立っている赤嶺さんが視界に収まった。こちらに気がつくとわずかに首をかしげ、前髪が揺れた。教室よりも若干暗い廊下の光に彼女の黒髪が反射していた。
ひとまず、かろうじて「どうも」と会釈できただけ褒めてほしい。
「これ、昨日は渡しそびれてしまったので」
そう言って渡されたのは、芳樹暁『長い夢見』だった。そういえば、智博に本棚上段から取ってもらったものの妹を探しに行くときに突き返してそのまま放置していた。
「えっと……?」
「お誕生日、3月下旬だと伺ったので」
「だ、だとしても、あの、それでも」
「あやちゃんにはあげたのに真記くんに渡さないというのは、なんだか、ええっと、どうにも落ち着かないというのでしょうか」
初耳なのだが? ぱっと視線を向ければ「かわいいシャーペン」と返された。使っているところ、見ていないから何とも言えないが確かに実用的な所持品ばかりの妹にはちょうどいいかもしれない。それが一〇〇〇円弱といったところであれば書籍一冊とほとんど予算は変わらないだろう。
「……すみません、ご迷惑でしたか?」
「いえっ、まったくそのようなことは!! でも、ああっと……そう、あの、赤嶺さんの誕生日、僕、存じ上げなくて」
「ああ、そう。あのー、四月です」
苦笑交じりに答えてくれた。しかし、四月か。
そして、今日は六月一〇日である。
「……過ぎてますか?」
「過ぎてますね」
「ちなみに、日付のほうは?」
「二一ですーぅ」
「あっ、そうなんですね。四月二一日ですね。そうなると、僕も赤嶺さんに何も渡していませんし」
「先日の水族館、とても楽しかったので」
「しかし……」
「あっ。でしたら、また一緒にお出かけできますか? 可能なら、LINKsに送った内容で」
――ふたりきりのほうが良くて……――
文面だけでなく、当時の衝撃も思い出してしまった。もうだめだ、土にかえりたい。壁に張りついた智博の気持ちが良くわかる。僕レベルになると、これは壁にめり込むしかない。
「何してるの?」
「聞かないで」
「めいちゃん困ってる」
それは申し訳ない。半回転して壁から浮上した。
「えっと、平気ですか?」
「はい、まあ、九〇パーセントくらいは(無理です)」
「そうですか、よかったです。なかなか急で申し訳ないんですけれど、十六日あたりは開いてますか?」
普通に会話を続けようとしたが、残念ながら混乱真っ只中である。曜日などわかるわけがない。「十六日……って、平日?」妹に尋ねた。
「日曜日だからお休みだよ」
「ほんとに?」
「うん、ツェラーの公式」
……え、何? 嘘だろ。この子って「今日が一〇日の月曜日で、六日後だから十六日は日曜日だよ」すら言えないのか? 聞いた僕も僕だけどさ……まあ、いいや。妹は今日も元気に天才である。おかげで完璧なポーカーフェイスができるくらいには冷静になれた。
「大丈夫です、暇なので。LINKsで都合のいい時間教えてください」
「わかりました。わがまま言ってすみません。ありがとうございます!」
赤嶺さんの、いつもより少し幼く見える笑顔がかわいかった。
あやが帰国してから二年目、入試前のある日の夜だった。
「こう兄って結婚しないの?」
「何、急にどうした?」
「婚期、大丈夫?」
「んあー、そっか。そうだった、もうアラサーだ。婚期ね、逃してるかもね。気にしてなかった」
「気にしてなかったってことは、結婚願望がないってこと?」
「どうだろう。全くないわけではない気もするけど……さーくんとみーちゃんと一緒だと毎日楽しいからそれ以上は望んでないよ。それに、僕に特定のお相手不在歴が長いこと、知ってるだろう?」
「今なんで砂糖いれたの?」
「あれ、違った?」
「塩って言ったよね?」
「え、白い粉なら何でもいいんじゃなくて?」
「……今からキッチン立ち入り禁止」
あああ。いけないいけない。現実逃避が過ぎた。
一年四組一三番日野真記
幾何92
代数98
現代文96
古典98
英語96
理科89
地理91
一年一組一五番日野郁実
幾何100
代数100
現代文3
古典7
英語100
理科100
地理97
なんともひと言ではコメントしづらい点数である。
いつだってそうだ。僕がどんなに頑張っても届かないものをこの子はたやすく手に入れる。今に始まったことではないが……――さて、優先順位を正そう。
「あや、答案用紙見せて」
「……」
笑顔で言ってやっているにも関わらず、この顔である。場合によっては、その予想は的中するわけだけれど。
確認してから、爪で正答が極端に少ない答案用紙を弾きながら尋ねてみた。
「現代文のテストさぁ。文章題はまだしかたないけど、漢字は取れよ。それだけで二〇点ですけど。記号あと三つ合ってれば三〇は超えるだろ。ねえ」
「はい」
「数学も英語も、できるのは知ってるよ。飛び級してアメリカ行ったんだから。で、日本語は? 国語はどうしたんだ、日本人」
「メンボクアリマセン」
「面目、漢字は?」
「……」
「書けない漢字の熟語を使ってんじゃねえよ」
「はい……」
いや、しゅんとしないでよ。
そう思った次の瞬間、玄関の鍵が開けられる音がした。今日は早い日らしい。
「ただいまー。って、さーくん、またみーちゃんの事虐めてるの?」
「虐めてないよ」
主張しながら二枚の成績表をこう兄に渡した。これで言葉はいらないはずだ。
「当日、体調悪かったの?」
「現代文と幾何と地理は同日」
「あー……そっか。……うん、あれだね。ほとんどは完璧なんだけど、ね……」
「マコトニイカンデアリマス」
「漢字は?」
「……誠honestyと遺heritageと憾sensation?」
「なんでそれわかるのに本初子午線書けないの?」
書けていれば地理も満点だったのに。つーか、計算で漢字を求められないことに気づ……五、七、三、四、十五って画数と一致してる。書けてないけど、すっげー。
「できないわけじゃないし、やってないわけじゃないんだよ。テスト前は、ちゃんと対策させたはずなんだけど」
「だねー。地理も理科もとれてるから、問題なのは日本語力というよりも勉強方法じゃない?さーくんはどう勉強したの?」
「暗記」
「……うん」
こう兄は妹の答案用紙と問題用紙を見比べながら解答分析へ移行した。基本は真面目だから任せて問題ないだろう。一方、お役御免となったので夕食準備のためにキッチンへ向かった。さて、何を作ろうか。
「リクエストは?」
尋ねながら冷蔵庫を開けたとき、何も考えずに訊いてしまった事を後悔した。最近色々あったせいで空っぽに近い。そして、卵はひとつもない。
「オムライス食べたーい!」
やっぱり……。
「卵ないけど、いい?」
「それ、オムライスじゃないよぉ」
「だよね」
卵だけじゃなくてケチャップも無いや、あはは。だけど、わざわざ買いにいくのもなぁ……。ええっと、今この家にあるのは、お菓子作りの時に余ったバター、生クリーム、あやが毎朝飲むココアに使う牛乳、それと、こう兄のコーヒーセット、玉ねぎ、にんじん、ベーコン……そういえばコーンの缶詰があったな。ラックの中にはパスタも。さすがに塩コショウはある。
「じゃあ、クリームスープパスタでいかがでしょうか?」
「お願いします、キャプテン!」
「んー、キャプテンというよりもコック長かな」
「オーケー、チーフ」
「いや、大丈夫」
手伝おうとしてくれたらしく腕をまくっている妹を制止した。
「解きなおし、一組も今週中に提出でしょ? 先に国語は済ませて」
「うぃぃぇ……」
「じゃあ代わりに俺、何か手伝お」
「いや、大丈夫」
「だけど」
「じゃあ寝てたら?」
「はい……」
こう兄がちゃんと手伝ってくれるなら最初から妹には頼みません。結局、解きなおしの面倒を見てもらうことにした。何事も適材適所だ。
「”テイ”への尊敬!」
「あー、うん。そう、帝への尊敬だね。当時の日本で最も偉い人だから、語り手も話し手もみんな敬語を使っているんだよ。それじゃあ、この空欄は?」
「言いました!」
「それは丁寧語かな」
「……召し上がる?」
「尊敬しているけど、帝は食事してないね」
「参る」
「謙譲語だし、来ちゃうかぁ」
「登場なさる」
「んー、お話させてあげよっか」
「おっしゃった!」
「おー、お話できたね! でも、尊敬したいのは帝だよ。帝の専用の尊敬語があるよね」
「おっしゃったでございます?」
「えーっと……」
「奏す」
夕食をテーブルに並べる代わりに、成績表や解答用紙、問題用紙をまとめた。「えー、さーくん答え言っちゃうの?」と文句を言われたが「その調子じゃ、先に朝が来る」と返した。
「ねぇ、何色の?」
「は?」
「ソース」
「……奏す。デミグラスとかホワイトとかじゃありません」
妹の手から花のモチーフが揺れるパステルカラーのシャーペンを取り上げて、適当な紙面に書いて見せた。奏でる、とつぶやいたのでうなづいておいた。
さて。この子が国語の試験でいい点数取る日は来るだろうか。……欲が出た。良くなくていい。せめて進級までに2ケタ達成。これでどうだ?




