愉快な環境
今日は、前回とは別の紅茶とカヌレをおいしくいただいた。ここに来ると必ずお菓子を振舞っていただけるのでレシピが漸増する。習得レシピが少ないわけではないが、自分で作るときは無意識のうちに簡単で作りやすくおいしいものを選択していることが理由だろう。しかし、お菓子を作るなら手間がかかっているものはやはりおいしい。妹に悪いと思いつつ、九条先輩のお菓子を存分に堪能した。家で作ってあげれば文句を言われは無いだろう。うん。
やがて若宮先輩は暇していると話しかけられると悟ったらしく、奥の部屋から調査技術研究会創設以来の部誌を押しつけてくださった。その際、隙間から除いただけでも冊子の宝庫らしかったので自分で選びたかったが、入室は拒否されてしまった。まあ、活字が読めるだけで儲けものである。
気にしないうちに時間は過ぎ去っていく。
「まったく……この部に関わると本当に碌なことがありませんね。超人がそろいやすい魅力でもあるんですか?」
机に広げきった機材や材料の片づけながら、わざとらしく加藤先輩は話題を提供した。
「私たちより、この会の創設者たちのほうが超人ぞろいさ」
「ええ、確かにそうね」
「ナオさんもルリさんも自分からすれば十二分にすごいですからね。名家の後継者に、警察庁長官の御親族ですよ? しかも、あの冬城グループ現会長のご友人。同じ空間の酸素を使用することすら恐れ多いです」
「本当にそう思っているならその表情じゃないと思うのだが。エラーが起きているのかな。恐れ多すぎてエラーが起きてしまっているのかい?」
「あ。じゃあ、そういうことでお願いします」
加藤先輩はそう笑ってみせた。若宮先輩は彼にはなかなか己の論法を発揮できないわけではない。以前は呆れたり翻弄されたりしていた。今はつっかかっても往なされてしまうだけだ。ということは、今までは“加藤匠”としての演技だったのだろうか。それなら“梛木先生”のほうが本物……いや、若宮先輩と九条先輩が「見抜けない」と発言している以上、予断になりかねない。
すると、
「梛木、梛木。彼、絶対に失礼なことを考えてた」
突如として若宮先輩はそのようなことを言い出した。
「あ? 宿題増やすぞ?」
「濡れ衣です!」
「このレコーダー少年は基本的に嘘がつけないんだ。断言する。遠い目をしていたから、彼のこれまでの感覚を踏まえると、失礼な内容。加えて、視線の先は梛木だった。したがって、梛木について失礼な内容を考えていた」
「たっ、短絡的かつ稚拙な推理です! 眠かったからぼーっとしてて、その視線が梛木先生のほうをたまたま向いていただけかもしれないでしょう?!」
「断言しないということは、あくまでも可能性の話だ。事実ではないのだろう?」
しまった、むやみに推量を使うものではない。
どうにかして訂正しようと考えていると、代わりに加藤先輩が引き受けてくれた。
「日野は焦りすぎ。誤魔化すなら誤魔化しとおせ。名探偵は論拠が雑。せめてまともな証拠を出せ」
若宮先輩が不満そうに睨みつけると「失礼、会長ですね。会長」しかたなさそうに揶揄いの雰囲気のまま訂正した。
「来るな……それだけで済むでしょう?」
「非常に業腹ですが、ご存じのように、無視されている」
「じゃあ、顧問が指導しても無視しますよー」
「無いとは言い切れませんね」
ため息混じりの若宮先輩の言葉に加藤先輩は肩をすくめた。
「つーか、すっげーな。日野は。ああいう姿見せられて失望しない後輩初めて見た」
「あ、してますよ。しっかり」
「良かった。それならまだ安心できる」
片づけが完了したらしく、道具を詰め込んだ黒いバッグを手にして立ち上がる。
「それでは、自分はこのあたりで失礼します。対応が面倒なので、いつもどおり好きなお時間にご帰宅ください。日野、もうそろバスケ部も終わるよ」
「え?まだ十七時前ですよ?」
「体育館だからね。夏休み前は終了時間前倒しだから」
「わかりました、ありがとうございます」
部誌をどうすればいいのかと視線を迷わせると、九条先輩が穏やかな笑みで引き受けてくださった。
「九条先輩、お菓子おいしかったです。今度レシピ教えてください」
「もちろん。LINKsで送るわね」
「ありがとうございます。若宮先輩、また来ます」
「来るな」
「考えておきます」
廊下に出ると、すでに加藤先輩の姿が無かった。ほとんど時間差はなかったはずだと、見渡してみるとエレベーターホールと反対に進んでいく背中があった。
その後ろを、静かに追いかけた。幸い、まだ気がつかれていない。
先輩は階段を下りながらポケットから携帯を取り出すと、どこかへ掛けた。階段はどうしても反響音が大きい。十分に距離をとり、つま先歩きで慎重に追いかける。代わりに話し声が響いてきた。
「よー、ヒナ。……いいでしょ、別に。他に誰が聞いてるわけでも無いんだからー。ところでさー。日野、双子って言ったら思い浮かぶ中学生、いる? んえ、日野真記?……がんばれ、公務員。ところでその中学生さ、誰かに似てね?ほら、あの真っ黒な目。いやいや、本当に黒いんだって。純黒って感じの。茶とか焦げ茶とかじゃなくてさ。本当に黒いのはむしろ珍しいよ。……そっか。勘違いかな。…………あー、レイちゃんね。何だっけ、あの人の今の職業?…………えー、大学教授じゃなかった?……へー、四、五年前。まあ、その頃って色々あったからな。大企業トップ陣対象の連続予告殺人に世界規模のIoTテロ、それからあの人の……はいはい、俺が悪かったよ。じゃあな、聞きたいこと聞けたし」
旧友相手だろうか、親しい口調だった。自分の話題が出されたことには驚いたが、何の話かまでは掴み切れなった。四、五年前の例として挙げられた出来事には心当たりはあったが、嫌な思い出よりもなぜ加藤先輩が電話相手に聞かせていることのほうに注意をひかれた。親しい間柄の相手に振る内容でないと断言できる。他に無かったのだろうか。
「ヒナくんにとって“あの人の死”は未だに地雷かぁ」
小さなつぶやきだっただろう、彼の言葉……階段の反響によって増幅された音の波は、僕の鼓膜を震わせた。
すぐに軽快な足音が塗り替えた。それに自分の足音を重ねながら思う――どうしても先に挙げられた事件と「あの人の死」を繋がろうとする。ヒナといわれて本田日向巡査部長の名前がひっかかることを考えると、根拠はない。そのような無関係にすぎない事例について知っていることと知っていることを勝手に関連づけて気になっているだけかもしれない。
思考に浮かぶのは誰かに気安く話せるものではなく、妹には聞かせたくない内容ばかり。忘れることは出来ないが、意識的に考えないようにしようと無意味にかぶりを振った。
ちょうど一階にたどりついた。本館に行くまでの渡り廊下でしっかり深呼吸でもして思考をリセットを――
「名探偵をたきつけるだけではなく」
真横から、独り言ちるにしてはよく聞こえる言葉。
ほぼ条件反射で視線を向けると、梛木先生のクールな微笑があった。
「盗み聞きすら、お得意とは。恐れ入ったね」
「……すみませんでした」
脳がフリーズから回復して、最初に処理した謝罪の言葉が出てきた。歩き出した先生に合わせるように追いかけた。
「謝罪が出てくるということは、悪いことだと認識しているの?」
「ご存知無いんですか? 人間は禁止されたことをしてみたくなる本能があるんですよ。特に、僕のような子どもでは到底制御なんてできません」
「開き直るプロか」
とりあえず謝罪でもしておこうと口を開いた直後、梛木先生は感慨深そうにたっぷりため息をついた。
「いやー、子どもの成長は早い。数週間前まで生徒手帳ひとつで退学かもしれないとか言ってたくせに。本当、教員冥利に尽きるね」
「……」
「まあ、別にいいけど。やるならバレないほうがいいこともあるよ、気をつけな。説得力なくて悪いけどさ」
「あの、でしたら、どうしてそのようなことをなさっているんですか?」
「どのような?」
「えっと、そうですね、あの……」
「一人二役? 必要だからだよ」
「イヤホンと眼鏡も、ですか?」
「うん」
「なぜ必要なんですか?」
「なんでだろうね。予想は?」
「まあ、えっと……はい。あの、ある程度は」
「だよな。でなければ“加藤匠”のときに“梛木”先生ですかなんて聞かないよね。いやー、しくったよ。護衛対象者が休憩所にやってくるとも、そこで紅茶からかばうことになるとも想定していなくてさ」
「護衛対象者っていうのは智博の……冬城くんのことですか?」
「なんで言い直すの、どっちもわかんないじゃん。まあ、別にいいけどさ」
眼鏡を外すと、フレーム部分を指示する。
「ここ、わかる?」
「カメラですか?」
太い暗色のフレームに紛れているが、気がつけばまぎれもなくカメラの小さなレンズだった。先生は肯定すると、眼鏡をかけ直し、代わりにイヤホンを外してみせた。
「こっちは普通に小型トランシーバー。受信機は靴に埋め込んであるから見せるのめんどくさい。いい感じに察して」
足元に視線を落とすと、加藤先輩と同じローファーだった。女性ものではないが、パンツスーツのため靴の半分が隠れて目立たない。
ふとよぎった疑問をぶつける。
「どうしてここまで詳しく見せてくださるですか?」
「君、そういうタイプでしょ?疑問解消するまで考え続ける感じ」
「そうですね。まわりが見えなくなるとはよく言われます」
「でしょ? だから、最初に開示しておいた。ガキじゃあないんだから無暗には言いふらすことないだろうと信じているよ」
よくわかっていらっしゃるな、と感心した。
確かにガキ扱いされるのは不満だ。
思春期直前か。中二病カウントダウンか。そのあたりの時期の面倒な子どもについて的確なところを突かれた。わかっていても気をつけさせられる。
「つまり、智博にバラさなければいいんですよね?」
「できるのか?」
「はい、面白そうなので」
「……何言ってるの? 面白さに魂売ったの?」
「今日から座右の銘は臨機応変なので」
「よーし。そんな素直な君のお願いを三つ聞いてあげよう。いつでもいいから言ってくれ」
「では、先生。さっそく」
「お。何?」
「女性なんですか、男性なんですか?」
「臨機応変だよ」
「つまり?」
「言い換えると、時と場合による。さ、残りはふたつだね」
「え、これでひとつ消化ですか?」
「わかってることを聞くからだよ。賢いなら歴史から学びな」
汚い大人にしてやられた。僕もずるいことをした自覚はあるが、子供の失敗は一度くらい大目に見てほしかった。
「この前、若宮先輩がフラワーホールに留めていたバッチについて何かご存じですか?」
「ああ、あれね」
先生はポケットから何か取り出した。おもむろに両手で器を作ると、そこにバッチが落とされた――カラフルな六角形。中央で交わるのは、ひまわりのような花と鍵のモチーフ。その背後には桃色、藍色、黄緑色、白の葉をもつクローバー。オリーブやリボンによる、全体的におしゃれな装飾。上部には“I.F.A.”とある。
「若宮先輩の持っていたものと、まったく同じデザインですね」
「そりゃあ、調査技術研究会伝統のものだからね。ちなみに、ユニフォーム代わり。この前の事件を調査するとき、若宮はつけていただろう?」
納得して、もう一度バッチに視線を下ろした。
やは|り、左手をこめかみに当てて記憶を“検索”しても見つけられない。しかし、どこかでみたことがある。
気持ち悪い感覚は今一度、保留することにして話題を変更した。
「I.F.A.……InvestigationForAnswer、答えのための調査ですよね」
「え?」
「若宮先輩に見せていただいた部誌にはそのように書かれていました」
「あー、いや。違わないよ。今の意味はそれだから」
「今の意味?」
「俺の三つ上の先輩が作ったやつなんだけど、元々の意味は本当に頭悪かったんだよ。先輩方の名誉に関わるから口外しないけどね。さ、他には?」
「そう、ですね……。今は特にないので、またの機会でも大丈夫ですか?」
「承知した」
おどけるように敬礼ポーズした梛木先生とは本館の階段前で分かれた。先生は職員室へ向かうのだろう。いっぴう、僕は体育館へ足を運んだ。確かに、バスケ部は帰りの用意を済ませていた。
水島先輩をはじめとする三年生の先輩方の後ろにポジショニングをとり、視線の先を追った。
「冬城くん、あたしじゃあ嫌なの……?」
「……」
妹が不安そうに見上げるのは、我らがコミュ力・冬城智博。今はちっとも社交的に見えない対応を網羅している。この親近感は幻だろうか。
「めちゃくそ面白えな」
「もっと拗れろ」
「ねー、やめなよー」
「本音は?」
「あやちゃん小悪魔サイコー」
「さすが唯花」
渡辺先輩の返答によって柊先輩と水島先輩の意見と声が一致したところで、「何してるんですか?」と声をかけてみた。
「のわっ」
「ひぇっ」
「……なんだ、日野くんか。てか。ふたりとも、どんな声出してんの」
二人の先輩方に少しシンパシーを感じる。驚くと出ますよね、よくわからない変な声。
「あー、すみません。妹がご迷惑を」
「いえいえ、こちらこそ大変楽しませていただいております」
「主に後輩らとセットで」
「ありがとうございます」
「あ、はい。お役に立てて光栄です?」
「いくら先輩でもいい加減にしないと怒るよ?」
うちの妹が失礼仕ったな。たいして悪いとは思っていないけれど。ドンマイの意をこめてグッドサインを送った。
「何もしてないよ」
「お前が自爆してるだけ」
「もっとやれと思っていることは否定しないけどね」
先輩方の反論をうけた智博の反撃は、こちらにきた。
「妹さん、なんとかして」
「ムリですねー。なんで勝手に僕が何年かけても未だ埋められてない妹との溝を数週間で埋めてくれてんだ、このやろー。って思ってるところだから。自爆ボタンあるなら連打するけど?」
「もういい、何も期待しない」
「ボタン?」
「制服のボタンは、うん、ひとつも外れてないね。大丈夫だね。あ、お疲れ」
「疲れてないよ?」
「そういう挨拶。ありがとうって言うの」
「ありがとう」
「はい、よくできました」
ぱちぱちーと拍手すると、彼女は「わぁ」と真似して手をたたく。
「……溝とは?」
智博が疑問を呈するようにつぶやく。
「え、あやちゃんのお兄さんなんでしょう?」
「なんで一般人扱いしてんの?」
「冬城も一般人では無い」
「なるほど」
「わかんないわかんない。何言ってんの?」
訂正させていただくと、
「ちょっと何をおっしゃっているのか……。妹と智博は確かに普通では無いですけど、自分は平凡ですよ」
直後の「うわ、裏切られた」という言葉はスルーした。
二年生の先輩方は顧問に召集を受けてこの場にいないが、終礼も完了していたらしい。
あとは帰宅するだけの面々。先ほどの光景については、遠征試合を控えた選手一同へ
マネージャー陣が恒例の贈り物として刺繍したリストバンドを誰が誰に渡すのかという内定に関するものだったらしい。妹から贈られることを渋った智博だが、最終的にはどうするのだろう。楽しみである。
それらはさておき、当初はいいようもない不安があった彼女の学園生活だが、僕よりもエンジョイできている
いつもの就寝時間になっても楽しそうに話が止まないことが証左だった。
その様子に心が温かくなった。寂しくもなったが気にしないようにした。
「ほら、もうベッド入って」
「まだねむくなーい」
「今日は早く寝たほうがいいと思うけれど」
「ふぇ?」
「明日の予定、忘れたの?」
首をかしげて見上げられる。
本当にすっかり忘れているらしかった。




