表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さようなら、長春色の追憶  作者: 視葭よみ
File01 出会いの季節
2/32

入学前

 

 およそ五〇センチメートル。

 痛みに悶えながら右腕をさする。

 寝起きで突然のことで何があったのか図りかねたが、どうやら、変な臭いに睡眠を邪魔されて起き上がろうとしたらベッドについたつもりの手が宙を切ったらしい。少しずつはっきりする思考がそう教えてくれた。

 カーテンの隙間から漏れる光で淡く色づいた部屋から移動する。

 リビングではテーブルの上に静置されている見覚えのない機械が視界に入り、不機嫌が一時停止してしまう。


 底面はテーブルよりも一回りほど小さいが、高さは三〇センチメートル程度だろうか。小さいころにビー玉を転がして遊んだ玩具に似ているが、木の温もり要素は長く透明なガラス管の中で踊るその色くらいである。


 突然現れた機械に奪われた思考を取り戻す。右手をポケットに突っ込み、状況整理した。

 どうやら、この機械から公害の湯気が吐き出されているらしい。

 その陰では仕立てのいいダブルスーツをオシャレに着こなしている我らが保護者こと日野宏一郎が気に障る優雅な朝を作り上げていた。以前からスーツの色について「ただのグレーじゃない、チャコールグレー!」と主張していることやこの様子からもわかるように、特定の分野には強いこだわりを持っている人だ。


「おはよう。早いね」


 背景に花が咲き誇るような、素晴らしい大人な微笑みの見本である。

 挨拶を返す代わりにソファーに倒れこみ尋ねた。


「朝から何してるの?」


「何って、コーヒー淹れてるんだよ」


 コーヒーの香りは嫌いじゃない。嗅覚は刺激を受け取り〇.二秒程度で大脳辺縁系へ直接情報を伝えるというから、においが刺激として心身に及ぼす影響の大きさは自明である。

 産地や焙煎方法の差異で生まれる苦みや酸味のバランスはまだ嗜んでいないが、アロマと呼ばれるその香りには長くお世話になっている。ここ数年、深呼吸の要領で体に取り込まれる、ふわりとした掴みどころのないあの匂いで目覚めて一日が始まるのだ。

 しかし、今日のは同じものから発せられているとは思えないほど酷い。どうしてこの臭いになったのか。


「いつものは?」


「ドリッパー? でも、これせっかくみーちゃんが作ってくれたから使わないともったいないでしょう?」


「ねえ、あや!」


 こう兄が言い終わるよりも先に元凶である妹を呼んだ。しかし、彼女がいるはずの扉の向こうは無反応。叫ぶように呼んだから、起ていればこの距離で聞こえているはずだ。イマジナリーな象牙の塔に籠りやすいとはいえ、きっかけになり得る出来事は最近は一切、無かった。

 無視なら上等、覚えておけ。


「残念、今ごろは夢の中。午前三時くらいにできたって起こしに来たんだよ。設計に構築に、また夢中になって取り組んでたんだろうね。何もあそこまで生活リズム崩さなくてもいいのにさ。体もそんなに強くないんだし。そう思わない?」


 視線だけそちらに向けると、相好を崩したこう兄はどこか慣れた手つきで機械を操作していた。

 湯気の排出が止まり、途端に茶褐色が控えていたマグカップに集結していく。その間にリビングの窓を目一杯開ける。


「さーくん、自分の部屋の窓も開けておいで。これくらいだったら、すぐに中和するから」


「すぐって?」


「そうだね、五分くらいかな」


 重い体を動かして自室に戻り、力任せにカーテンを引っ張った。窓を開放すると、強い風が吹き抜ける。

 新鮮な空気が思考を澄ませていく。一方、まだ薄着にするには早かったのか、いわゆる花粉症デビューしてしまったのか。盛大なくしゃみが頭に響いた。


「風邪ひかないようにね」


 苦笑が含まれた心配に適当な相槌を返すと、そのまま言葉を続ける。


「じゃあ、もう行くね。ああ、そうだ」


 普段、こう兄のこの言葉に続く文章は二種類ある。


「何時に帰れるかわからない、ごめんね」


 または


「何もなければ八時くらいには帰れるよ!」


 今日はどちらだろうか、と左手でこめかみに触れた。確か、リビングの時計は……


 ――五時四九分二一秒――

 

 そう、六時前を指していた。

 公務員である彼がこの時間に出勤する理由は一つ。何かがあって、呼び出されたのだ。つまり、続く文章は前者である可能性が高い。


「何時に」


「わかってる」


 予想通りの言葉を雑に遮ると、穏やかな「そっか」と扉の閉じた音と電子音が後に続いた。

 こう兄が仕事に譲れない誇りを持っていることは前から知っているし、尊敬している。申し訳なさそうな彼の言葉は、あまり聞きたくない。


 着替えや朝食を済ませるころには朝の不機嫌はすっかり解消され、一時間もすれば、リビングは初春の心地よい雰囲気に包まれていた。

 麗らかという言葉が当てはまる日らしいが、天気がどうであれ室内でやることは変わらない。今日も相棒のテレキャスターと手強いフレーズに挑んでいる。

 昨日よりはだいぶ良くなったものの、まだ曲のテンポに気を取られ丁寧さが疎かになる。右手のピックをポケットに滑り込ませ、傍らの携帯を手に取った。重宝している音楽情報アプリを開き、練習中の曲名と「ギター」で検索にかけると、動画が縦に整列する。想定以上の量があったから、適当にスクロールして緩く動き続けている画面を止めた。

 赤いレスポールのエレキギターが画面いっぱいに映し出され、時間が進み始める。動画投稿しているだけあって、運指にぎこちなさや迷いは見られない。


「これにするか」


 とりあえず“再現”して、細かく練習するのはそれからだ。

 少し時間を飛ばし、動画に集中する。

 問題のフレーズが過ぎる。

 目を閉じて、深呼吸を一つ。

 動画の人物の動きを細かく分析し、できるだけ正確なイメージを作り上げる。

 それが完了してからカメラのアプリに切り替え、動画モードで録音を開始し、ポケットからピックを取り出した。

 これで準備完了、あとは主観を取り払ってイメージ通りに身体を操るだけ。

 “これ”は、元はある出来事が原因で乱れた精神を安定させるために主治医主導のもと行っていた訓練だが、今ではこのように用途を代えて役立っている。

 アプリオリな能力ではないから未だ海でたゆたう感覚がある。自家薬籠中のものであることに変わりないが、妹の、えもいわれぬ能力と比較すると劣っているのだろう。

 事実だから異論すら無いが。


「おー」


 “再現”した音源には大幅な改善が見られた。もうこの先は地道に練習あるのみである。

 ひと休みしようとソファーに体を預けた。案の定、相当縮こまってしまっていた証拠音が響く。

 猫背は成長の大敵である。

 今は平均程度だが、できれば高身長になりたい。それが叶うのなら他には何もいらない……のは、さすがに過言だけど、来年度初めの身体測定では少なくとも一五〇の大台に乗りたい。大学生の従姉とは一〇センチメートルは離れているし同い年にもかかわらず既に顔一つ分以上も違う妹にライバル意識は持てないから、妥当な短期目標の設定だろう。ちなみに、長期目標は高校卒業までにこう兄の身長を抜かすことである。

 ふと思考が止まる。

 視界には時計。


「八時半」


 月に一度のカウンセリングは今日の九時に予約済み。このままでは遅刻する。決して冷静な声色でいる場合ではない。

 急いでギターを片づけ、右手に薄手の麻手袋を装着してから上着とショルダーバッグを掴んで家を出た。財布が入っているから診察券と保険証も入っているはずだし、携帯ケースにICカードを滑り込ませているはず。

 バッグの内容を確認しながら目的地まで電車に揺られた。


 

 


 

「こんな感じでしたね」


 と、僕は今朝の話を締めた。

 目の前の武井先生は適当に相槌を打ってくれていたが、今回もやはり長くなってしまった。


「いつも通りっていうのかな。真記くんの朝って感じだね。ところで、練習中の曲っていうのは?」


「カナタハルカさんのイニシャルです」


「やっぱり。最近、家でよく流れてる。ソロのところ、難しい?」


「ええ、まあ。縁史くんから聞いたんですか?」


「いや、円禾ちゃん。心配してた」


「合わせるまでにはモノにしておくって伝えておいてください」


 僕が推して二人に承諾してもらった曲だから余計に完成度を妥協するわけにはいかない。ギターソロがきついことをわかったうえでやりたいと押し通したのは僕だ。

 あと二週間、何とかしよう。


  「あ、そうだ。聞いてもいい?」


「何をですか?」


「合否発表の結果」


「受かりましたよ」


「本当? よかった。縁史の大学受験より気になってたんだよ。翔衛学園だよね」


「はい」


「おめでとう。これ、()()()()からだって。合格祝いのためにオリジナルデザインで作ってもらったんだってさ」


 武井先生は、僕の相棒そっくりのラバーストラップを白衣のポケットから取り出した。


「え、いいんですか? 僕、縁史くんの留学も円禾ちゃんの薬大合格もおめでとうございますって言っただけでそれ以上は何も祝ってないんですけど」


「小学生はそういうの気にしなくていいんだよ」


「そういうものですか?」


「うん、そういうものですよ」


 お礼とともに恭しくストラップを受け取った。通学鞄につけさせてもらおう。


「あれ、あやちゃんは?」


「妹も同じく登校しますよ。帰国子女試験、受かってたので」


「そっか、そっか。早いねー、ついに二人とも中学生か」


「ですね」


「冷静だなぁ。なんだか、宏一郎くんの方が嬉しがってそうだね」


「言われてみたら、確かにそうでしたね。ネットで確認したのに合格証書もらいに登校したいとか言ってました。僕は断りましたし、妹は飴の味のほうがいいリアクションしてましたよ」


「本当、君たちらしくて楽しそうだね」


 この調子で、しばらく話していた。

 もはや定期カウンセリングという名の雑談である。帰路の大型書店にも寄れるし、武井さんと話すのは苦にならないから、外出も億劫ではない。

 一冊だけと決めて入店した書店で三冊購入してから帰宅すると、時刻は昼過ぎになっていた。

 今朝のあれはこう兄が後処理を済ませておいてくれたおかげで臭いは収まっているが、テーブルの上に放置されていて邪魔だった。

 そういえば、と妹へ思考が移る。午前三時に迷惑な発明品を紹介しに来たというから、軽く見積もって四時には就寝しただろう。しかし、あの子が起床した形跡は一切無い。……そのうち起きてくるだろう。

 彼女を待つついでに、適度な休憩を挟みながらリビングでギター練習に励むことにした。

 しばらく経ち、一息いれようとイヤホンを外すと、今まで何の物音も聞こえてこなかったはずの扉の向こう側から澄んだ旋律が届く。幼少期から弾いているだけあって、素人にもなんとなくすごい腕前だとわかる。

 相棒をソファーに横たえ、その扉を開けた。

 ベッドのかわいらしいデザインとそこに座るうさぎのぬいぐるみだけがかろうじてこの部屋の主人が女の子だと主張している。そんな大量の資料と様々な機械や素材に満ちた殺風景な部屋の奥で、女の子がヴァイオリンを演奏する手を止めてこちらを向いた。


「わぁ、おはよーぅ」


 そうはにかむこの子は、おそらく誰も文句はない美少女というやつなのだろう。緩やかな波を描く細くあでやかな茶髪は白皙の肌をより際立たせ、体格も相まって大きな純黒の双眸とあどけない表情が相手に年齢よりも幼い印象を抱かせる。これで常識を持ち合わせていれば、才色兼備と言えるのに。天は二物を与えないとは、よく言ったものである。

 あ、そうだ。一応、念のため、この場で釈明させてもらおう。

 演奏が聞こえてきたからノックせずに扉を開けたのだ。ヴァイオリンの演奏中なら、絶対に他のことはできないから。見た目は小学生であっても、実際は思春期直前。いくら双子といえども、時を分かたず許可をとらずパーソナルスペースを侵す愚行などしない。さすがにそれくらいのデリカシーは持ち合わせている。でなければ、将来の夢はジェントルマンとは口が裂けても言えない。


「おはよう、って。あと少しでおやつの時間に」


 おっと、待て。

 今はそんなこと、どうでもいい。もとより、この子の生活リズムは崩れやすいのだ。


「リビングのあれ、何?」


 親指で例の機械の方を示すと、妹は「待ってました!」を行動で表した。ヴァイオリンをケースに収め、散乱している物を踏まないように駆け寄ってくる。それから、いつものように人差し指を立てた左手を顔に寄せて舌っ足らずに話しはじめた。


「あのねっ、セルフドリッパーマシンっていうの! こう兄、モーニングルーティンのコーヒー淹れるのだめだったら、その日はもうだめでしょう? ところが、ところが、あのマシンならオートメーションだから、ちゃんとだめにはならないの! そうすれば、こう兄が大丈夫なままっていう作戦なんだよ」


 語彙が少ないのが若干気になるものの、的確なジェスチャーと抑揚による見事な三〇秒プレゼンである。

 この子の言う通り、あの面倒な事態を未然に防げるのならセルフドリッパーマシンの優良性について議論の余地はない。しかし、安眠と面倒を天秤にかければ、僕の場合は必ず前者に傾く。

 さて、起床から間もない彼女にどう説明すればいいだろう。至難の業ゆえ、頭の中では言葉が漂うだけでなかなか文章にはならない。


「んーと、小さくする?」


「いや……」


 確かに大きくて邪魔ではあるが、肝心なところはそこではない。

 どうしようかと首に手を触れた。


「あれれ、コーヒーのにおい、にがて?」


 これぞ、思い半ばに過ぎるというものだろうか。たまに見当違いをかますが、このようにぴたりとはまるときも少なくない。


「強すぎるのは無理。何とかなる?」


「わかんなーい」


「ならないってこと?」


()()()()()()わかんない」


「わかった。頼んだ」


「はーぁい」


 生返事をしながら足元に散乱する資料たちを見直し始めた妹を確認した直後、食事をどうするか聞くタイミングを逃したと気が付く。

 適度にココアや飴を差し入れるのと夕食は彼女の好きなオムライスにしようと決めてから練習に戻った。

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ