幻影の秋 2
短期間にこうも事件が立て続けに起こって、学園側も対策をとらざるを得なくなったらしい。
その一つが、この午前授業。梛木先生によると、事件解決まで部活動も休止措置が取られることになったらしい。
そんなことされたら、若宮先輩のスイッチをいつ入れられるのか……。そもそも、入れられるかどうかもわからないのに。もしかして、そこそこ無謀なことを試みているのだろうか。名探偵の心当たりは、他にもあると言えば嘘ではない。しかし、あの子には任せたくない。
しばらく伯父宅に妹を任せることは承諾してもらえたし、今日の帰りは従姉が妹を迎えに来てくれる手はずになっている。
とりあえず最善の状態になるように動くこと。今できるのはそれしかない。
心に決めて、別館の多目的ルームEへ赴いた。
深呼吸を七回ほどして気持ちを落ち着けようとしてからノックして入室した。若宮先輩は、今日もソファーの上でだらけている。
「暇なのかい?」
「否定はしません」
「帰りなさい」
「気が向いたら帰りますが、正反対を向いています」
「向きを変える方法は?」
「協力といいますか、取引といいますか、交渉といいますか……どれが良いですか?」
「内容に依る」
さすが若宮先輩、話がお早い。
「昨日のこと、聞いていますか?」
「教師が話した程度は」
「被害者は秋吉先生です。前日にお願いしますと封筒をお渡ししたのですが」
「持って帰るように言ったはずだが?」
「ちゃんと置いて帰りました。今、この場にないということは、先輩が手に取ってくださったということでは? あのとき、九条先輩も加藤先輩もいらっしゃいませんでしたから」
若宮先輩は座りなおすとソファーの背に体を預け天井を仰いだ。
「端的に言ってくれ。要求は?」
「依頼は、事件解決です」
ため息交じりに正面を向き、先輩はゆったりと腕を組んだ。
「依頼は一切受けない」
「先日、一緒に生徒会へ赴いてくださったのに?」
「ルリの雑な策略に乗ってやっただけだ。他意は無い」
「後輩の雑な策略には乗ってくださらない感じですか?」
「そういうことさ」
「それ、言葉の綾だったりしませんか? 一億歩譲れば気になるとも言える可能性がほんの少しだけならあるかもしれなくもないでしょう?」
「駄々をこねないでくれ」
「何が悪いんです。欲しいものを欲しいと素直に言っているだけではないですか。ただ、その方法が先輩の都合で迷惑やわがままだと分類されてしまっているだけですよ」
沈黙が流れる。
先輩はもう一度、天井を仰ぐ。
あからさま過ぎで彼の言葉を借りているとバレた可能性が高い。己の言葉なら説得されるしかないし、明確に断る理由は見つからない。良い作戦であると信じる。
とりあえず沈黙よ、速やかに終われ!
「要求は、事件解決だったかな」
「はい、依頼内容は事件解決です。今のところ、校内で収まっています」
深く息をつくと、先輩は居住まいを正した。それから前へ体を倒して顔を伏せた。
「君の妹さんのほうが余程この事件解明に求められるような、頭脳の持ち主と言えるのではないか?」
「ムリですよ。今はもうそういうの、やりたがりませんから。それに、同い年ですけど兄として、僕はあの子をこの事件の救世主にはしたくありません」
「だから、代役として私に白羽の矢を立てるというのかい?」
「いえ、そう聞こえているなら、すみません。こちらの事情を押し付けるつもりはありません。ただ、利益が一致していたらいかがでしょう?」
先輩はすぐに思い当たるものを見つけ、つぶやく。
「なるほど、智博のことか」
「さすが、ご明察です。九条先輩繋がりで智博のお兄さんと親しいのなら、彼とも少なからず親交がありますよね。そうでなくとも、彼のことですから人の懐に入り込むのは十八番じゃないですか」
「否定はしない。だが、今回の事件に彼がどう関わっているというんだい?」
「若宮先輩ともあろうお方が、ご存じない?」
「忠告すると、私の気は短い」
「すみません。
秋吉先生を最初に発見したのはバスケ部マネージャーの方で、智博もその場に居合わせています」
「なるほど。昨日は木曜日か」と小さく確かめるように言うと、しばらく右手で口元を隠し、何か考え込んでいた。
やがて、からかうように
「君と智博が親しい理由が見えないな」
と。意地悪く笑った。
仕返しに、噛まない程度に、なるべく早口で応えて見せることにした。
「はい、ええ、そうですね。本当に。おっしゃる通りです。まず彼がなぜ僕と親しくしてくれているのか謎ですよね。こちらのほうが理解不能な難攻不落で謎ですかね、はははっ。顔良し、性格良し、頭脳良しって、あの隙の無い装備でおかしいと思いませんか? 初対面ではわりかし普通に話すことはできましたよ? いや、話すといっても一方的でしたけども。でも、僕の中ではあれは会話に分類されますから。そういうことにしておいてください。でも、向こうから話しかけられたとき、僕、どう思ったと思います? もうどうにでもなれって思いましたからね、本当。イケメンの直球勝負躱せるほどで来た人間じゃないんですよ、残念ながら。話してるときも、なんだ、こいつ。って、なってましたから。本当に同じ人類なのかなって。もう、あの、同じ人類で申し訳ありませんでした、と土下座したくなりました。土下座で済むなら床に頭擦り付けましたよ、本当。でも、本格的にやばいやつ認定されるなって思ったのでしませんでした、褒めてください。あー、もう、こういうところですよね。すみません。
まあ、そういうことです」
「説明ありがとう」
「どうしようもない内容であったことは十二分に自覚してますから。
思うに、彼の気まぐれですよ。たまにはそこら辺で干上がってる可哀想な人類にも愛想振りまいておこうっていう、そういうやつです」
「想定以上に君はひねくり曲がっているらしいね」
「曲がりすぎて結局は真っ直ぐなんです。
さて。交渉か要求か、ああ、依頼です。依頼は成立ですか? それとも不成立ですか?
その顔やめてください。話を逸らせなかった己の話術の責任です」
先輩に顔を逸らされた。数秒後、勢いよく立ち上がると背を向け体を伸ばした。「よし」というつぶやきとともに、こちらへ向き直った。右手の拳を前へ突き出し、人差し指を立てる。
「一つ、いや、二つ。条件があるんだが、いいかな?」
「内容に依ります」
先輩にピースサインを突き付けられながらも冷静に答えた。
すると、彼は満足そうに話を再開する。
「第一に、正義の牙城はここでは無い。私と君の他にいる信頼できる人物に私の推測に間違いや穴がないか確認してもらうこと」
「わかりました。捜査関係者で大丈夫ですか?」
若宮先輩は少し考えてから静かに首肯した。
「第二に、私は愚かだからこそ同じ失敗を繰り返したく無い。君が夢見るような大立ち回りを、私は演じないこと」
「えっ」
「先に尋ねておいて正解だったらしいね。この二つは絶対だ。でなければ、いくら君が妹や智博の話をだそうと動く心算は存在すらしない」
天秤が揺れに揺れる。
しかし、名探偵のスイッチがONかOFFか。そう問われると、天秤は簡単に傾いた。
「わかりました、条件を飲みます」
「君はとんだ賭博師だな」
「はい?」
「他意は無い」
ため息交じりな言葉の後に、深く息をついた。見るからに不機嫌そうである。
不興を買ってしまったらしい。想定していたことだが、最後の賭博師という言葉が気にかかる。あいにく、賭け事には疎い方だと自己評価している。
「教室に荷物を取りに行ってくる。好きにしていて構わないから、少し待っていてくれ」
「あ、はい」
艶やかな黒髪をいじりながら退室した先輩を見送った。とりあえず、室内を観察したり動き回ったりすることにした。
高校二年生の教室は本館の五階だから、移動だけで別館で六階分下り、本館で五階分上がる。エレベーターを利用したとすると、少なくとも五分はかかるはずだ。導き出せた答えに納得し、ひとまず室内の本棚に近づいた。好きにしていて構わないから、ということは、閉じられた奥の部屋の扉を開けて見ても、文句を言われないし、言われても聞き流してかまわない、という解釈でいいのだろう。
自分の導き出した答えに満足し、扉の前に立ってみた。しかし、いざ開けるとなると変に緊張してしまい、扉のノブに手をかけたり離したり、少々うだうだしていた。
「どうしたの、そんな顔して」
「ふぁにゅれりっ?!」
勢いよく振り向いたが、そこには誰もいなかった。空耳で勝手に驚いてしまったのかと恥ずかしくなって一旦その場から離れると、この部屋のもう一つの扉を開け放って呆然となさっている白瀬先輩がいらっしゃった。
「……わぁ」
「いえ、その……すみません」
「あはは、元気だねぇ」
苦笑しつつ軽い足取りで入室した白瀬先輩は「やっほーい!」右手をひらひらさせる。
「あの、どうしてここに?」
「ちょっとお話したいなーって思って。今、お暇かな?」
「え、えっと、お話ですか?」
「うん、大切なお話なの」
「あー、えっと……今からですか?」
白瀬先輩のお話はどれくらいかかるのだろうか。
うだうだ悩んでいると、先輩はこてんと首を傾げてみせた。柔らかさというかふわふわした感じは失わないままだが、どこか硬い表情だった。
「忙しい? ほんの少しの時間でいいんだけれど……」
「わかりました」と答えると、白瀬先輩は柔らかく微笑んだ。
「間違えて、二本買っちゃったの。飲む?」
「え、あ……ありがとうございます」
「校内の自販機のやつだよ。コンビニでも似たような商品を買うことはできるけど、学校の方が二〇円くらい安く買うことができるし、こっちのほうがおいしいし。あ、これね、三階のエレベーターホールのとこだよ」
「あ、はい」
ひんやりと冷たい直方体の容器を両手で受け取った。
気ままに飲料を仰いでいる先輩の隣で、容器を観察した。これと相似で、体積を二七分の一くらいにしたものをどうにか連想できないかと頭を悩ませてみた。
「若宮先輩、名探偵してる?」
だから、不意に投げかけられた問いには反応が遅れてしまった。数テンポ遅れて先輩に向き直ると、彼女は苦笑した。
「二年前の名探偵でも、世間では名前を伏せられていても、やっぱり学園内での影響力は大きいんだよ」
寂しそうに言うとカフェオレでストローの色を変えた。先輩にならって僕も容器に付属するストローを銀色に突き刺し、口に含んだ。少し苦いが、すぐに甘さがやってくる。
「姉と一緒の学校へ行きたくて、この学校を受験したの」
その言葉で、先輩は話し始めた。
「二年前、十一月一七日。確か、二三時過ぎだった。部屋にココアを持ってきてくれたの。一緒に飲もうって。夜遅いから怒られるかもしれないねって言ったら、じゃあ共犯ねって笑ってた。マグカップを洗って歯磨きをすればバレっこないってね。
このおいしさは罪だから仕方ないって言ったの。本当だねって笑って欲しくて。でも、あの日は、違ったの。どうしてか、今にも泣きだしそうな顔をしてて……うつむいて少ししたら、お姉ちゃんのこと、好き? なんて聞いてきてさ。変な冗談かと思ったけど、でも、違う気もして。だから、大好きだよ、自慢のお姉ちゃんだよって、ベッドに座るお姉ちゃんに抱き着いたの。そうしたら、私もだよって答えてくれたんだけど、鼻声だった。どこか遠くへ行っちゃう気がして、問い詰めてもどこにもいかないよ、ここにいるっていうだけで何も教えてくれなかった。でも、その代わりに、約束の代わりで本とぬいぐるみをもらったの」
「本とぬいぐるみ、ですか?」
「そ。今思うと、このときには、姉は自分が消えると私に伝えようとしてたのかもしれない。消えたのは、それから数日後だったもの」
何でもないように言いながらカフェオレの容器をすぐ側の机に置いた。通学カバンからハードカバーの本を取り出す。
差し出された本を受け取り、表紙を見た。
「『桜の舞う頃に』……稲垣文乃さんの処女作ですね」
「姉はこの本が好きだったの」
「そうだったんですか」
中学生用の台本との相違を探すようにしながら、ぱらぱらとページをめくる。先輩は話を続けた。
「もともと稲垣文乃さんのお話が好きだったし、あとは名前かな」
「名前ですか?」
僕は手を止めて聞き返した。
「春野愛花……春の、愛される花――つまり、桜ってね。それに、誕生日がその本の第一出版日とぴったり一緒なの。びっくりでしょう?」
先輩はそういって笑った。沈黙が流れそうになると
「あれ? 聞きたいこと、無いの?」
「はい?」
一度唇をかむと、すぐに辞めて数回だけ深呼吸して「ええっとね」と苦笑する。
「神谷くんが謝ってきたの、昨日のこと。ごめん、って」
あの人、自分からちゃんと謝罪するんだ。と失礼なことを考える前に、白瀬先輩に申し訳なくなった。白瀬先輩が言いたくないだろうことを察していながらも、好奇心を優先させて彼女の先輩らに好きなように話を聞いてしまったのだ。
「すみ」
「ごめんね」
謝罪を遮るように謝罪されて混乱していると、うつむきがちに彼女は話を続けた。
「結果的に隠してるみたいになっちゃってさ。隠すつもりがまったくなかったわけじゃないけど、君が若宮先輩に情報を流す役割をしていて、生徒会の先輩方や神谷くんから色々と聞きだしたってことは、私も重要なこと話せるかもしれないのかなって……だから」
先輩は僕の目をまっすぐ見据えた。
「だから、私の知ってることは話そうって思ったの。だから、聞いて欲しくてここに来たんだけど……迷惑だったかな?」
先輩はわずかに笑って見せる。
神谷先輩に見せてもらった写真の少女と、目の前の白瀬先輩を重ねた。あの写真の少女は中学二年生ということもあってか、ちょうど同年齢の白瀬先輩は、似ている。
「迷惑じゃ、無いです。少しも。僕もすみません、なんか、こそこそしているみたいに行動してしまって」
「あれ、気を使ってくれてたわけじゃないの?」
「すみませんが、そんな高等技能は持ち合わせてません」
「あらら、それは残念なおしらせだね」
二人でひとしきり笑ってから、自然と質問タイムに入った。
「いくつかあります、聞きたいこと。あの、まずは、岩本先輩のメガネなんですけど」
「PCいじってないときはメガネ外してたと思う。何度か先輩の教室に行ったときには、かけていなかったから」
質問は途中で遮られたが、先輩は知りたいことを正確に答えてくれた。テレビで見た先輩の中学卒業時の裸眼の写真と生徒手帳についての質問しに行ったとき僕らとの会話時に外していた岩本先輩の姿を思い出す。
PCを使っていないときは外していたということは、視力に問題があるからではなくて目を保護するためにかけていたものだろうから、ブルーライトをカットできるものだろうか。
「白瀬先輩は、岩本先輩の探していた人って知っていますか?」
「神谷くんったら、何をどう勘違いしたんだろうねぇ。夏樹くんが探していたのは私のお姉ちゃんで間違いないよ。若宮先輩にお願いしに行くときに何度か私もついて行かせてもらったから。ああ、そのときにアサちゃんが代わりに協力してくれることになったの」
「アサちゃんというのは?」
「あ、ごめんね。高校二年生の先輩でね、木偏に冬で柊、空と人偏に左で空佐って書いてヒイラギアサさんっていうの。もともとチョウケンの人だったんだけど、会ったことある?」
「あ、はい。一応」
「わ、あるんだぁ。人脈広いねぇ」
コミュ障らしからぬお褒めの言葉を賜ってしまったことに衝撃を覚えるとともに、二度目にこの部室を訪れた日のことを思い出す。智博のおかげで不審者感は抑えられていたんだろうな、と彼に今更だが感謝しておいた。
「それでは、最後に一つ。お姉さんからいただいたというぬいぐるみの実物を見せていただけませんか?」
質問を終える前に、先輩は手にしていたラベンダー色のクマのぬいぐるみを僕が持っている『桜の舞う頃に』に乗せた。
ぬいぐるみは手のひらサイズで、手作りらしい雰囲気がある。背中にはチャックのような刺繍のされたグレーの布がはがれかけていて、白いものが出そうになっている。
カフェオレを机の上に置いてぬいぐるみに触れたとき、あることに気がついてしまった。
これ、いわゆる女の子と教室で二人きりというシチュエーションなのでは??
「ひとまず、こんな感じかな。ね?」
「いえ、何でもありません」
「何が?」
「あー……ういー、すみません」
以前、若宮先輩が天井を仰いだ理由も、同様の気持ちになったからだろうか。
「本も、クマも……そのうち、返してほしいかな。大切なものだから」
顔を戻したときには先輩は「じゃあね」と退室するところだった。
「え、待ってください」
呼び止めてみたものの、行ってしまった。
漫画ではポツンと効果音を付けられてしまいそうな状況を脱するため、机の上に受け取ったものをすべて並べた。左からカフェオレ、書籍、ぬいぐるみである。
置いてすぐにぬいぐるみを手に取った。白いものを体の中に戻してやると指先に何か固いものが触れた気がした。が、これ以上壊してしまうのは避けたいと思い、グレーの布の端を首に結われている水色のリボンと本体の間に挟まるようにぐいと押し込み、元の位置に戻した。
続いて、書籍を手に取った。ページを簡単に捲る。
次の瞬間、書籍から何かが花びらのようにひらりと宙を漂い、床に舞い降りた。
しゃがんで確認すると、かわいらしいメモ用紙らしかった。小学生のとき、何度か似たようなデザインの紙をもらったことがあるが、そういう女の子が好きそうなかわいらしいデザインだ。
ごめんね。
好きでいさせてくれて
ありがとう
愛花
そこに書かれた文字を指でなぞった。正体には、すぐ想像がついた。
姉から妹へ。つまり、春野愛花さんから白瀬先輩へ贈られた大切なメッセージ。
悪いことをしている気持になり、手首を翻して裏にした。
春は、拍動。生を享受する
夏は、衝動。罪に気がつかない
秋は、消失。やり直すには遅い
冬は、幻影。そこには何もない
思考と視線が留まる。
ハッとして、思考する。これは、岩本先輩がなくなったときに握りしめていた紙にも全く同じ文言が記されていた。句読点、漢字も“検索”で確かめた限りでは違いは見られない。
これ以上深く考えるのは、若宮先輩が戻ってきてからの方が多くのことが分かるだろうと、一旦、思考を止めた。
今度こそ、書籍を開いた。
あくまでも素人の予想だが、今回の事件はこの書籍と何か関係がある気がする。失踪した春野さんが所属していた演劇部ではこの話を基に台本が書かれ、春野さんの妹からこの書籍を受け取った。推理小説をよく読む弊害だろうか、何でも関連しているように思ってしまう。ただの偶然であることも十分にあり得るのだ。
余計なことを考えないように、物語に集中した。
ちなみに『桜の舞う頃に』のあらすじは、以下の通りである。
ある夏の終わり、小春は家族や友人らに大切なものを渡して姿を消した。
季節は巡り、それから数年後。当時の恋人でハンカチを託された秋嗣に何の前触れもなく小春から「出会った場所で」とメッセージが送られてきた。秋嗣は、急いでその場所へ向かう。そこには、久しぶりだね、と小春が微笑んでいた。
二人は、小春の失踪が幻だったように、笑い、泣き、ともに生活する。しかし、異変は隠しきれなかった。
「死ぬ前に、あなたに会いたいと思ったの。ごめんね」
冬の始まりに、小春は自分が姿を消すきっかけとなった出来ことを話し、秋嗣は何も言わずに小春を抱き締め涙を一筋流す。
翌年の春、桜が散る中、秋嗣が一人立ち尽くしている場面で物語は幕を下ろす。
初めてこの話を読んだときは、小学五年生の秋だった。稲垣さんの著作はそれまでにいくつか読んだことがあり、書店で重版されたばかりのものを見かけたことで『桜の舞う頃に』を手に取った。
なぜ題名がこれなのか、というのが初めて読んだ感想だった。桜が舞うという表現は作品中に一切無く、主人公がヒロインと再会したのは夏の澄んだ山の頂上だった。最後のシーンで桜が登場する必要性は無いように思える。推理小説家の稲垣さんが処女作だからといって人工の美学をないがしろにするとは考えられないし、事実、件の作中では公式に文章の九割が伏線ではないかと評されるほどの数が張られている。
そんな彼女が、どうして『桜が舞う頃に』と題名を付けたのか。未だにわからない。
題名を確認するため、表紙を上に向けた。
その瞬間だった。数節だけ、さっきまで読んでいた小説の中から飛び出してきた。
冬には、隣で小春が笑っている日常があると信じていたけど、それは結局、幻影になった。それからは、はじめからそこには何もないことが真実だったのかもしれないと思うようになっていた。
あの夏の出来ことは、衝動的だった。本当は違うけど、そう自分に言い聞かせて、私は罪に気がつかないふりをしたの
小春は、しばらく自分の心臓の拍動を僕に聞かせた。全身で生を享受する彼女に、僕は何も言えなくなった。
秋ちゃんは気づいてるよね、記憶から私を消失させた方が楽になれるって。それなのに、やり直すには遅いんだよって言ってくれたの、本当に嬉しかったよ
「冬、夏、春、秋……春夏秋冬」
頭に浮かんだことをすぐにでも確かめたい。正しいのか、もしくは可能性はあるのか。しかし、誰に確かめればいいのか。
いや、もう聞ける相手はいるんだ。
そわそわしながら名探偵の帰りを待った。